もうすぐ、この高校に入ってから初めてのテストだ。生徒会の活動もしばらく無いみたいなので、勉強に集中出来ると思うと嬉しい感覚は確かにあった。ちなみに、定例会議があった次の日の金曜日に生徒会長が用意した箱に「意見箱」と文字を書いたのは八代先輩だそうだ。そこからテスト終わりまでの約一週間、部活動や生徒会の活動は休止になる。
テスト範囲は日々の授業で習ったことと、半分は中学校で習う基礎問題が出題されるそうだ。
テスト本番は木曜日から金曜日まで。現国、数学、化学、英語、社会の基本の五教科を二日に分けて行うと先生は言っていた。
一応、一時間目は二日とも自習時間が設けられるみたいなので、自室での自習で覚えられなかった分はそこで勉強しようと思っている。暗記問題は特に。
今は寮の自室だ。夜ご飯とお風呂を終えて、寝るまでの時間は勉強に充てる。同室のしんたはヘッドホンで音楽を聴きながら、俺と反対側のしんたのスペースにある勉強机に向かって、何かを口ずさみながらシャーペンを握っていた。時折聞こえる教科書を捲る音、ノートに何かを書く音。俺にとってはそれがBGMになっていた。
いつかしんたに、スマートフォンが禁止なだけで音楽の入っているプレイヤーはセーフだとは思うけど、みんなには秘密な……なんて言われた気がする。
誰にでもお気に入りの曲はあるし、それを三年間聴けないままなのはさすがの俺でも堪えると思ったので、しんたの音楽プレイヤーに関しては黙認している状態だ。彼がプレイヤーを隠している限り、先生にも寮長にもバレることは無いだろう。
そこで、傍らに置いていたスマートフォンが短く震えた。表示された名前は……唯希雄馬先輩。
そういえば、寮に帰ったら連絡をすると言っていたような気がする。俺はスマートフォンを持ち上げて、LINEを開いてメッセージを確認した。
『真翔、今日はお昼ご飯ありがとう。キミのおかげで飢え死にすることは無くなったよ。
冗談はここまでにしておくけど、勉強のほうはどう? 捗ってる?
邪魔しちゃったならごめんね。俺は今絵を描いてるよ。昨日の夜に話した通り、テストは当日に教科書を丸暗記するから心配しなくても大丈夫だからね。自習時間があって良かったと心から思うよ。
日曜日、楽しみにしてる。勉強頑張って。』
雄馬先輩らしい、冗談を交えつつ簡潔で分かりやすい文字の羅列。頬が緩むのが抑えられない。雄馬先輩からのメッセージがこんなに嬉しいものだとは思わなかった。
『勉強頑張って』。その一言だけで、俄然やる気が出てきた。
『勉強中でしたけど、雄馬先輩からのメッセージがいい気分転換になりました。ありがとうこざいます。俺も日曜日楽しみにしています。雄馬先輩も、コンクールに出す絵、楽しんで描いてくださいね。勉強も忘れずに!』
それだけを打って送信して、しばらくして返事が無いことに少し落胆したが、やる気には満ち溢れていた。スマートフォンを傍らに置いてからシャーペンを握り直し、テストの範囲である国語と中学校の範囲である数学を中心に勉強を始めた。
「真翔~」
「ん?」
いつの間にヘッドホンを外したのだろう。しんたが俺の机の近くに来て、やつれた顔で俺の顔を覗き込んでいた。
「どうした?」
「消しゴム貸してくれない? 教室に忘れちゃったみたいで、筆箱の中に無いんだ」
「未使用なのがふたつあるからひとつやるよ。ほい」
「おおっ、サンキュー! ありがとな、真翔! マジ助かる!」
机の引き出しから封の開いていない消しゴムをひとつ手渡せば、まるで目の前に神さまが現れたのかのような大袈裟なリアクションでお礼を言ってから、しんたは不思議そうに首を傾げた。
「そういやお前、なんか嬉しそうな顔してるけど……何かいいことでもあったのか?」
「うーん、まぁ……ちょっとね」
「そんなにテストが楽しみなのか? 変な奴だなぁ」
「違う違う、テストが終わったらいいことがあるんだよ。だから、今からワクワクしちゃってさ」
「へぇ……いいことって?」
「それは秘密。ほら、しんたも勉強の続きやりなよ。お前この前の小テストの自己採点、やばかったんだろ?」
「そうだった! あー、何でこの世にテストなんか存在するんだよ……」
しんたはうだうだと愚痴を呟きながら、自分の机へと戻って行った。雄馬先輩とのお出かけのことを秘密にしたのは、しんたが雄馬先輩にいい印象を持っていないのを何となく察しているからだ。
いくら楽しみだからと言って、「日曜日に雄馬先輩とお出かけするんだ」なんて言った日には、しんたはしばらく不機嫌を隠そうとはしないまま日々を過ごすことになるだろう。
言わなくてもいいことは言わないでおくのが共同生活を快適に過ごす為の基本だと、俺がこの二、三ヶ月で学んだことでもある。
しんたのほうを見れば、彼はまたヘッドホンをつけて音楽を聴きながら教科書と格闘していた。そして何となく時計を見ると、時刻は深夜の一時を少し過ぎた頃だった。
「ふぁあ、ふ……もうひと頑張りする、か……」
抑えられない欠伸をしてから、俺は頬を軽くつねってシャーペンを握り直す。だが眠気には逆らえず、俺はゆっくりとやってくる微睡みの中に意識を手放した。
「……ん、ぅ?」
俺が次に起きた時には、もう朝日が昇って外は明るかった。机に突っ伏して眠った為か、身体が少し痛い。大きく腕を上に伸ばして伸びをすると、パサっと何かが床に落ちる音がした。音のしたほうに目をやると、ブランケットが落ちていた。しんたが掛けてくれたのだろう。彼の優しさに感謝しながらしんたのベッドのほうを見やる。そこには壁際を向いて眠っているしんたの姿。
「……ありがとな、しんた」
聞こえていないと知りつつお礼を言い、食堂が開くまでの朝の時間に少しでも勉強をしようとノートに向き合うと、下のほうに何か書いてあった。目を擦りその文字を見れば、俺の字ではない。
『根を詰めるの禁止! 無理はするなよ しんた』
短い文字から伝わる、彼の俺を心配する言葉たち。
どこまで優しいんだ、この男は。
感謝をしつつその言葉たちをスマートフォンのカメラで写真を撮ってから、俺は再びテスト勉強を始めた。
**
「あー! 終わったぁ!」
あれから一週間が経ち、高校生活初めてのテストが終わった、金曜日。後ろの席で大声で開放感を感じているしんたのほうに向き、俺もやっと終わった一度目のテストの開放感に浸っていた。
「お疲れ、しんた。自己採点どんな感じ?」
「全部50以上くらいは取れてる……と思いたい。答案用紙が返ってくるまで時間はあるとはいえ、毎晩テスト勉強しなくて済むって思うと嬉しいもんだな」
「中学の問題もあったし、今回は平均点高そうだよなぁ。まぁ、テスト前だけじゃなくて、日常的に勉強してればこんなに焦ることも無かったと思うと……はぁ」
「俺らには無理だろ、毎日時間決めて勉強するのって」
「それはそうだな、うん」
テスト前にならないとお互い机に向かうことなんて無いのだから、しんたの言う「俺らには無理」という言葉は、なかなかに確信をついていると思う。
「真翔、飯食ってから寮に戻ろうぜ」
「うん、そうだね。そうしよっか」
テスト一日目は3教科で四時間目で学校は終わり、二日目の今日は三時間目で学校が終わるので、各自お昼ご飯を食べてから寮に戻ることになっていた。寮の食堂が朝と夜しか開いていないからだ。
俺としんたはスクールバッグを持ってまばらに生徒がいる教室から出て、ロッカー室に教科書やらノートを入れてから、購買へと向かった。
もう寮に戻っている生徒が多いのか、購買も人が少なく、すぐにご飯を買うことが出来た。今日のお昼ご飯は俺はメロンパンと牛乳、しんたはそぼろとタマゴのお弁当を買っていた。お互い購入したものを持って中庭に行き、適当な場所に座って袋からご飯を出して食べ始める。
「おっ、これ初めて食べたけどなかなか美味いな」
「しんた、お昼ご飯はいつも学食だもんね」
「ちょっと値は張るけど、学食のほうが手っ取り早いんだよな。混んでる時は混んでるけど、食券が売り切れるなんてそうそう無いから食べたいものが食べられるし」
「俺は学食は週に一回って決めてるからなぁ……混んでる時に当たったことも無いし」
「確かに、一緒に行く時以外に食堂で真翔に会ったことないな」
「たまの贅沢だと思ってるから……ここ、娯楽無さすぎだからさ。楽しみは自分で作らないと」
「さっき購買で見たけど、トランプとかオセロとか……ボードゲームなんて売ってたんだな。どうりで新田がトランプなんか持ってたわけだ」
しんたが言っているのは、彼が新田の部屋でトランプをして全敗して帰って来た時のことだろう。いつ思い返しても、どうやったらババ抜きで全敗出来るのかが俺には分からなかった。
「そうだ、来週から部活動再開するね」
「ん? あぁ、楽しみだな。この一週間お預けくらったんだ、久しぶりにコートで全力でボール蹴りたいよな」
「いや、俺は運動部じゃないからその感覚は分かんないけど……」
「生徒会は? 来週から?」
「うん。さっき生徒会のグルチャ見たら、来れる人は来て書類を片付けてほしい、って。華村会長が」
「ふーん、生徒会も大変なんだな? 事務仕事なんて俺には出来ないから尊敬するよ」
「これは生徒会の仕事じゃないだろ、っていう仕事も先生から回ってくるけどね? それも含めて楽しいよ……でも」
華村生徒会長……告白されてからしばらく経つが、あれから一度も顔を合わせてはいなかった。今は顔を見たら、どんな風に接したらいいか分からなくて困ってしまう。それを察したのか、しんたは俺の肩をぽん、と優しく叩いた。
「そんな思い詰めた顔するなよ、真翔らしくないぞ。それに、出会って三ヶ月でいきなり告白してきた向こうが悪い」
「悪い……のかな。俺にはよく分かんないや」
「告白するなとは言わないけど、時期を選べって話。そこんとこズレてそうだよな、生徒会長って」
「うーん? 告白されたのなんて人生で初めてだし……しかも同性から……だから俺は多分、そこで戸惑ってるんだと思う……うん、きっとそうだよ」
自分に言い聞かせるようにそう言えば、どんどん曇るしんたの表情。同情をしている訳では無い、しんたの中だけに渦巻く感情……毎日顔を合わせて話をしていても、分からないことは沢山ある。今もそうだ。どうしてしんたが思い悩んでいるのか、俺には分からない。
「……無理すんなよ、真翔。生徒会長関連だけじゃなくても、何かあったら何でも相談乗るからさ」
「うん、ありがとな……しんた」
しばらくの沈黙……と言っても、時間にして3、4分くらいだろう。やっと口を開いたしんたから発せられた言葉は、やはり俺を思いやる台詞だった。
俺もしんたの為に何かしたい。彼が困っていたら寄り添えるような、その時に頼ってもらえるような存在になりたいと思った。
**
お昼ご飯を食べ終えて、二人で寮の自室へと戻った。スクールバッグを適当な場所に置いてから、俺は自分のベッドにダイブする。すると、すぐにしんたからのお小言が飛んできた。
「真翔ー、制服しわくちゃになるぞ。着替えてからダイブしろよなぁ」
「だって、せっかく早く学校が終わったし、テストから解放されたからゴロゴロしたくて……」
「「だって」じゃないだろ、ほら起き上がって! 着替える!」
「はぁい……」
仕方ない、と思いながら起き上がり、俺はブレザーと制服のズボンを脱いでハンガーに掛ける。ズボンを掛けた上にネクタイを引っ掛けてから、適当な部屋着に着替えた。ワイシャツは洗濯用のカゴの中に放り投げる。
寮では、それぞれの洗濯物は全て自分でやらなければいけない。コインランドリーのように洗濯機が数十台並んでいる部屋が一階にあり、そこで各々服を洗う決まりだ。ちなみに、料金は有り難いことに乾燥機を含めて全て無料である。
彼に言われて部屋着に着替えた俺は、再びベッドにダイブをして、スマートフォンを片手に横になる。
「あ、洗濯カゴがいっぱいだ……ちょっと洗濯ルームに行ってくる。来週着るワイシャツが無い」
「うん、行ってらっしゃい」
「乾燥機もかけるから、多分1、2時間くらいで戻ると思う。その頃には食堂も開いてると思うから、一緒に夕飯食いに行こうぜ」
「分かった。メッセージの返信したり、本読んだりして待ってるよ」
「じゃあ、また後でな」
「うん」
カゴいっぱいまで入った衣服を持って、開けづらそうにしつつもしんたは部屋から出て行った。
戻ってくるまで二時間くらい。メッセージの返信したり、と言ったはいいが、俺はそんなに色んな人と連絡先を交換している訳では無かった。自分からはなかなか言い出しにくいという、俺の引っ込み思案な性格のせいなのだが、もっと積極的になってもいいのかもしれない。
スマートフォンをスリープモードから立ち上げ、LINEを開いてメッセージを確認する。一つ目は同じ生徒会メンバーであるルイくんからだ。
『マナト! 購買に新しいチョコレートが入荷してたよ! あのチョコレートの新商品の抹茶味だってー! 来週の月曜日、作業しながら一緒に食べよ!』
ルイくんらしく可愛らしい文面で、ついほっこりしてしまう。
それに『抹茶味なんて出てるの知らなかった! 教えてくれてありがとう。月曜日に普通のと食べ比べとかしてみようか。楽しみにしてるね』と返して、次のチャット欄を開いた。
……雄馬先輩だ。
『真翔、テストお疲れ様。日曜日のことだけど、ちゃんと外出許可取らないと罰則があるから気をつけてね。やり方が分からなかったら、俺もこれから外出許可を取るから一緒に紙に記入して提出しようよ。
時間と場所だけど、朝の11時に学校の校門前でいいかな? 都合が悪かったら言ってね。これ見たら返信してくれると嬉しいな。待ってる。』
「雄馬先輩……」
外出許可を取ったことが無いと言ったのを、覚えていてくれたのだろう。確かに、許可の取り方なんて知らなかったし、外出許可を取らないまま街に出たら罰則があることも知らなかった。重要な部分を分かりやすく教えてくれる、優しい雄馬先輩。日曜日のお出かけを糧にテストを乗り越えたので、今から日曜日が楽しみで仕方なくなってきた。
『外出許可の取り方、分からないので紙に書くところを隣で教えて貰えると、とても助かります。
時間と場所は先輩の言った通りで大丈夫です』
素っ気ない文章になってしまったが、そのまま送信した。すると、すぐにつく『既読』の文字。
『了解。今日の夕飯のあと、お風呂入る前に寮長室の前に来て。外出日時と大まかな場所、外出する理由を書けばいいだけだけど、多分真翔は理由の欄で躓くと思うから一緒に書こうか。』
「むぅ……確かにそうだけど、雄馬先輩の意地悪……」
文面にはせずにちょっとだけ拗ねてみた。返す文章は『お風呂前に寮長室、了解です。お願いします』とだけ打って送る。
他に来ているメッセージが無いことを確認して、俺はスマートフォンをスリープモードにして枕の横にそっと置いた。
そして、しんたが洗濯ルームから帰ってきて、夕飯の時間だと言われるまで、俺は軽く眠ってしまった。