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第36話

「最後は振り切って帰ったよ。はぁ……こちらは何も言っていないが、まぁ全て把握されただろうな。今頃、萌さんがどこの誰かまで調べてるかもしれない。名前も容姿も知ってしまったわけだしな。」


「…………。」


頭が痛い。比喩的な話ではなく、ちゃんと物理的にズキズキと。立ちくらみのように目の前が霞む。


「……昇?」


胸ポケットの中から錠剤を取り出す手が震えていることを自覚した。

なんとか白と黄緑色の錠剤を開けて口に放り込むと、急いで深呼吸を繰り返す。

僕の様子に気がついた庵が運転しながらも神妙な面持ちで確認してくるのがわかった。


「……大丈夫だ……ごめん……」


だから、なんとかそう声を振り絞った。



家に着くと、まずはチコがすごい勢いで飛んできた。

これはいつものことだが、やはり飼い犬とは想像通りこういった愛らしい行動をするものなのかと嬉しく思った。

しっぽを振って出迎えられるだけで、先程の嫌な気分は吹き飛んでしまうから不思議だ。


「ただいま…チコ」


チコを抱き上げるのと同時に、


「おかえりなさい昇さん」


出迎えに来てくれた萌さんにホッとする。

わざわざ来てくれるというその行動が心を温かくした。


「萌さん、ただいま。夕食は済ませましたか?」


「いえ。昼間甘い飲み物やお菓子を食べたら、なんだか食欲わかなくて」


「そうなんですか。じゃあもう少ししたらお腹がすいちゃうかもしれませんね?」


もう21時近い。

今夜は遅くなるから、自分は料理できない。

代わりにデリバリーか外食で済ませてくれと言ってあったのだ。


「昇さんは?ご飯食べましたか?」


「いえ。少し空いてきたので何か作ろうかと」


「それよりちょっと待ってください!」


「えっ?」


「なんだか顔色悪くないですか?」


萌さんのひんやりとした手が、額に触れた。

ドキッと鼓動が跳ねる。

身内にさえこんなことをされた記憶はない。


「熱い!熱あるじゃないですか!それに目も赤いっ!」


頬を両手で掴まれ、触れるほどの距離でじっと見上げられる。

カッと顔が熱くなるのを感じ、思わず視線を逸らしてしまった。


「あ、ホントです?すみません…最近いろいろ詰め込みすぎちゃっていて疲れが出たのかもです……でも具合は悪くないので、」


「ダメですよ寝てなきゃ!」


有無を言わさずに上着を脱がされ、寝室に連れていかれた。

そしてすぐに、水と切ったリンゴを持ってきてくれた。


行動が早い……

それに、なかなか侮れないなぁ。

体調がすぐにバレてしまうなんて…。


「すいません、私のことでも最近バタバタと無理させちゃいましたよね」


「っ、いえ!そんなことは!全部好きでしていることだと言ったじゃないですか」


「でも……何から何までいつも……。

あ、今日実は、夕飯を作って待ってようと思ったんです。思っていたより昇さん早かったので、まだ煮物と味噌汁しか作ってないんですけど」


「えっ!食べたいです!」


つい起き上がってしまうと、萌さんは驚いたように目を瞬かせた。


「の、昇さんほどは上手くないと思いますけど……じゃあお粥も作るので、それ食べて待っていてください」


「はい!」


途端に身体も精神にパワーが漲ってきてしまった。

まだ見てもいないし食べてすらもないのに。

彼女が料理を作ってくれたというだけでこんなにも胸が高鳴り子供のようにワクワクしてしまうなんて……自分で自分に1番驚いている。


シャリ……とリンゴを齧る。

今日の帰り、わざわざ買い物に行ってきてくれたのか。


女性に手料理を作ってもらったことは、無いわけじゃない。

もちろん兄ほどじゃないが、過去付き合った人は少しいたし、黒宮莉奈のしつこさに付き合ってあげていた若い時期もある。

その頃なんて彼女はまだ高校生だった。そんな10代半ばの娘が、本気の恋愛をするとは思えず、ただ自分を遊び相手と思っているはずだとばかり……



" 女の執着って半端じゃないのよ。"



分からないものだ。本当に、異性というのは。

振る舞いや表情や言動だけでは、本心は分からない。

萌さんはどうだろうか?

あの頃の萌さんも今の萌さんも、変わってはいないだろうか?


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