二人並んでベンチに座り、シャリシャリと音を立ててシャーベットを食べていく。さっぱりした酸味と果物の甘さが、乾いていた体に沁み込んでいくようだ。
「食べ終わったなら捨ててくるよ」
私が食べ終わったタイミングで、菊野さんから声を掛けられた。そのくらいは甘えても良いのかな……と思い、包装に包んでバーの棒を彼に渡す。彼が席を立ってゴミ箱に向かったのを確認して、私の方も立ち上がった。周りに誰も居ないのを確認してから、深呼吸して口を開く。
「目の前に広がる、見渡す限りの青空が。始まりを、君に告げた」
自分を奮い立たせる応援歌。貴方と私を隔てるいくつもの境界線、まずは一本踏み越えて。ゆくゆくは、全部まっさらにして並んで生きていけるように。そんな祈りを込めて。
「今までの苦労はここを飛び立つために、背中を押すために必要だったの」
伝えなきゃ、と思って焦っていた心が少しずつ凪いでいく。視界の端に、戻ってきている菊野さんを捉えた。その瞬間、体が強張って声がかすれそうになったけれども、お腹に力を込めて続けていく。
「この時の訪れを共に喜び合おう、恐れる事はない。さぁ飛び立て!」
このために今日誘った。このために、いつもよりも気合いを入れてメイクをした。メイクは即ち儀式、こうなりたい、こうありたいと願う自分になるためにするものだから。外側から入るのも、案外大事なものだ。
「大空へと飛び立つ君のその背中に、生えてるのはどこまでも大きな翼」
菊野さんが真正面へとやってきた。その場にじっと佇んで、遮らずに私を見つめている。大丈夫、大丈夫……歌い切れ! この人と一緒に生きていきたいなら!
「ひたむきに積み重ねたその翼が、どこまででも君を運んでくれるだろう」
サビを歌い終わり、そのまま続けて二番へと入る。歌っている間は、この広い世界の中、まるで私と彼が二人きりであるかのように感じられた。
歌い終わって、ただ一人の観客へ向かってお辞儀をする。菊野さんはうっすらと頬を染めて、拍手をしながらこちらへ数歩近づいた。
「やっぱり凄いね。聞き惚れたよ」
「ありがとうございます」
「歌には詳しくない俺でも凄いなって思うんだから、プロが見たらまた違うのかな。正直……君程上手いなら、歌手とかアイドルとかになっていてもおかしくないよなとは思っていたんだ」
興奮気味の菊野さんが、拳を握りながら力強く伝えてくれる。本当に、心から、そう思ってくれているのだ。
(……時は来た)
今が、好機だ。
「ありがとうございます。自分で言うのも何ですけど、確かに……歌手にならないかと、そういうお話を頂いた事は幾度かあります」
言いながら、ベンチに座る。彼にも座るように促すと、菊野さんは私の右隣に座った。
「正直、憧れていなかった訳ではありません。歌手になって、テレビに出ていた歌手の方々の様に歌えたら素敵だろうな……そう思った事があるのも事実です」
「そうなんだ。それなら、いずれはなろうと思っているのかな?」
「いいえ」
はっきり、きっぱり、そう答えた。右隣からは、何も聞こえて来ない。
「歌う事は好きです。歌に関わる事を考えるのも好きです。けれど、それはあくまで趣味の範囲で、仕事にするつもりはありません。仕事にはしないって決めたんです」
「……決める程の何かが、あったという事?」
「…………はい」
スカートを両手で握りしめる。夏なのに背中に冷や汗が伝って、呼吸が浅くなってきた。けれど、言うと決めたのだ。決めたのだから、伝えないと。
「大学生の時に、学祭でバンドをやったんです。同じゼミの子に誘われて、ボーカルをしてほしいと言われて……ステージで歌うのは初めてだけど良い思い出になりそうだし、楽しそうだからと思って参加を決めました」
今でも、あの時の千佳ちゃんの笑顔を思い出せる。そして同時に思い出すのは、ごめんねと泣いて謝る彼女の姿。
「本番自体は楽しかったんです。本当に、素晴らしい時間でした。歌手になったらこんな風に歌えるのかな、それなら目指すのもありなのかな……なんて。そうも思いました」
「うん……そうか」
「でも、翌朝大学の正門のところで見知らぬ人々に囲まれたんです。恐怖に足が竦んで動けないでいる内に更に人が増えて、居合わせた助教授と警備員の方のお陰でどうにか逃げられました。けれど、その後も……他の生徒や先生方の迷惑を考えずに、私を追い回してくる人が何人もいました」
「……」
「そのうち冬休みに入って、ある程度は落ち着いたんです。でも、大学でもそれ以外でも、後をつけてくる人がいたり何度断ってもしつこくスカウトしてくる人がいたり、家族に付きまとう人すらいて。私だけならまだしも、父や母・弟にまで迷惑を掛けてしまって、一華ちゃんにも苦労をかけっぱなしだった」
スカートを握りしめている手が、震えている。声も震えそうになったので、努めて大きく呼吸してお腹から声を出した。
「だから決めたんです。こんな怖い思いをするくらいならば、皆に迷惑をかけてしまうくらいならば、歌手になんてならなくていいと。無理をして歌手になったら、きっと私は歌そのものを嫌いになってしまう。そんなのは寂し過ぎるから、そうなってしまうくらいならば、憧れなんて掃いて捨てていい。私は、自由に歌っていたいと思ったんです。歌を好きなままでいたいから」
だから芸能界とか歌手は考えていない。このままキクノに勤め続けて、趣味としてカラオケで歌ったりフェスやコンサートに観客として参加したりして、歌を楽しんでいきたいと思っている。そこまで告げた後で、恐る恐る菊野さんの方をそっと見上げた。
「ありがとう。言いづらい事を教えてくれて」
彼の声が響いて、頭の上に温もりが乗った。一瞬だけ、汗かいてるし良いのかなと思ったけれども、嬉しいのでそのまま何も言わないでおく。
「先程ちらっとお伝えしましたけれど、私の家族にも影響があったんです。だから、もし……私と付き合ったら、菊野さんにも何か影響があるかもしれません。それなのに話をしないまま返事をするのは、狡いと思って」
話した結果、それなら付き合う事は出来ないと言われる可能性もあるだろうとは考えた。だから、話す事に対して、やっぱり躊躇う気持ちもあった。だけど、それでもし彼に何かあったならば、きっと私は後悔してもしきれない。
「それでも俺の気持ちは変わらない。むしろ、それなら猶更、傍にいて君を守っていきたいと思ったよ」
頭の上に乗っていた手が、私の右手を握った。その瞬間、心臓が一際大きく脈打ちどくんどくんと駆けていく。そんな自分を落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸した。そして、こちらからも彼の左手を両手で包み返す。
「あの日の言葉にお返事します」
「……うん」
「私も、貴方が……菊野さんの事が好きだから、この先もずっと一緒にいたいです」
ひゅっと彼の喉が鳴った音がした。じっと彼の目を見つめながら、続きの言葉を口にする。
「まだまだ知らない事だらけで、迷惑や苦労をかけてしまうと思います。私と貴方が育ってきた環境は大分違うから、戸惑う事や迷う事もあると思います。でも、私、頑張るから。だから」
自分の両手に力を込める。菊野さんの頬と耳も、じわじわと赤く染まってきた。
「これからも二人で、一緒に並んで生きていきたいです」