目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

貴方と私の境界線(10)

 目の前の菊野さんは、相変わらず頬と耳を真っ赤にしてこちらを見ていた。きっと、私の顔も同じように赤いのだろう。下手に動くと彼を焦らせてしまうだろうか。口を開かなければ大丈夫だろうか。そんな考えが、脳内を巡っていく。

 彼の手を握ったまま、彼と向かい合ったまま、どれほどの時間が経っただろうか。どうしたものかと思っていると、ふいに、彼が身じろいだ。そのタイミングで両手を離し、菊野さんと名前を呼ぶ。

 その瞬間、彼に右腕を強く引かれた。私の体はバランスを崩し、彼の方へと倒れ込む。菊野さんはそれを難なく支えてくれ、彼の両腕が私の背中に回った。その腕にぐっと力が込められて、私と彼が更にぴったりとくっついていく。

「……菊野さん?」

 もう一度名前を呼んでみた。けれども、相変わらず彼は一言も発しない。発していない……が、彼の心臓もばくばくと早足で駆けている音は、はっきりと聞こえてきた。

(へ、平常心、平常心……!)

 これからお付き合いをしていく、というのならばこういう機会は何度も訪れるものだろう。もしかしたら、もっとずっと、別の事だってするかもしれない。慣れない行為に焦りやら歓喜やら照れやら色々混ざって湧いてくるが、変に動くのも違うのかなと思って、彼が行動を起こすまでじっと抱き締められたままでいた。

「……ごめんね、苦しかった?」

 そんな言葉と共に、彼の腕から解放された。無限のように感じられた時間だったけれども、実際は数分にもなってないらしい。

「い、いえ……だいじょうぶ、です。おどろきは、しましたけど」

「ああ、うん、そうだよね。ごめんね、つい、体が動いて」

「……嫌な訳ではなかったので、大丈夫ですよ」

「嫌じゃなかった?」

「勿論です。嫌なら、貴方にOKの返事はしません」

「はは……それもそうか」

 普段よりも気の抜けたような声が、彼の口から発せられる。やっぱり、彼も緊張していたのだろうか。

「今まで生きてきた中で、一番舞い上がってる自覚がある。なるほど、これが嬉しいって感情か」

「喜んで頂けたなら何よりですけども」

「そりゃ喜ぶに決まってるでしょ。好きな子と両想いなんだから」

 多少は冷めたと思った私の顔が、再びかっと熱くなる。二人して顔を赤くして、何となく視線を下に向けた。

「……そうだ、電話番号以外の連絡先も聞いておいて大丈夫?」

「はい! 何をお伝えしたら良いですか?」

「ええと……メルアドと、あればメッセージアプリのアカウントとか」

「どちらもあるので大丈夫ですよ。これで良いですかね?」

 まず始めに、メルアドの方から表示して彼に見せる。菊野さんは、メールアプリを立ち上げて私のアドレスを打ち込み、メールを送ってくれた。件名は空欄、本文にはこれから宜しく……こちらこそよろしくお願いしますと打ち込んで、返信メールを送る。その後で、メールアドレスを彼の電話帳ページに登録した。

「そっちのアドレスは俺の個人スマホの分ね。業務関連で何かあった場合は、会社で割り当てられてるアドレスの方に送って大丈夫だよ」

「分かりました。ありがとうございます」

「後は、メッセージアプリの分か。俺の方のQRコード表示するから、読み取ってくれる?」

「分かりました!」

 アプリを立ち上げ、読み取り画面を呼び出す。コードを読み込んで数秒後、山の写真をアイコンにしているアカウントが現れた。

「これ、富士山ですか?」

「そうだよ。数年前に登った時かな」

「富士山にも登ってらっしゃるんですね。凄い」

「興味があるなら一緒に登ってみる? 流石に、この前のキャンプみたいに気軽には行けないけど」

「準備がいるって事ですよね。でしたら、準備をしつつおいおい……」

 話しながら、彼を友達登録する。トーク画面が現れたので、よろしくお願いしますとメッセージを送った後にスタンプも送っておいた。どちらもすぐに既読が付いて、こちらこそという言葉とスタンプが送られてくる。

「応えてくれてありがとう。これからも宜しくね」

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 生真面目に向かい合って、生真面目にお互い頭を下げる。もう一度顔を上げたタイミングで視界に入ってきたのは、はにかんで嬉しそうな菊野さんの笑顔だった。


  ***


「……何だったんですかね、あれ」

「ものすごい浮かれようだったわね」

 しかめっ面の真中さんと、目を瞬かせている羽柴さんの言葉が聞こえてきたので作業を中断した。どうしたんですかと二人に尋ねると、二人とも揃ってこちらを向いてくれる。

「さっきエレベーターで菊野君と一緒になったんだけど、何と言うか……スキップしてるのかって思うくらいに、弾んだ歩き方してて」

「微かにだけど、鼻歌も歌ってたわよ。明日雪でも降るのかしら」

「……」

 浮かれている気持ちは私にだってある。今日はいつになく通勤時間が短く感じたし、怯みやすい電話対応もしっかりこなせたし、頑張って考えた企画原案がボツになってやり直しになったけれどいつもよりダメージを感じていない。けれど、彼はそんな分かりやすいくらいに浮かれているのか。その姿を見てみたいような、見るのが怖いような。

「課長、新人課題の書面が出来たので確認をお願い出来ますか……課長?」

「有谷君か。ああ、うん、分かった、済まないね」

「宜しくお願いします。何かあったんですか?」

「いや何、さっき用事があって蒼治に連絡したんだが……業務連絡なのに、やたらとスタンプが飛び交っていてね。変な物でも食べたのかと、流石の俺もちょっと心配になったところで」

「……」

 菊野さん、課長には伝えておくって言っていたけど、まだ言っていないのか。私の方は、昨日の内に一華ちゃんに報告してしまったけれど……だって、やっぱり嬉しかったのだ。一華ちゃんは相談にも乗ってくれたいたから、報告は早いに越した事ないし。

 何とも言えない思いでいると、ふいに入口付近が賑やかになった。どうしたのだろうと思って見てみると、月城君が大きな菓子折りを持っている。

「月城君、それどうしたの?」

「ああ、これ? さっき廊下で菊野さんに貰ったんだ。企画課の皆で分けてくれって言われて」

「……菊野さんが」

 ぽつりと呟くと、月城君が少しだけ首を傾げた。どうしたのかと尋ねられるが、何でもないよと誤魔化す。

「これ、有名なメーカーの最高級クッキーじゃなかったっけ。それをこんなに差し入れてくれるなんて……何か良い事でもあったのかな?」

「……どうなんだろうね」

 何とかそれだけ絞り出して、クッキーを受け取り席に戻る。私と付き合い始めた事が、それほどまでに彼にとって嬉しい事なのだというのは……私も嬉しいのだけれども。何というか、思っていたよりも大事になっている気がしなくもない。

 どうしたものかな……と考えながら、サクサクとクッキーを頬張った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?