リビングに行くと、菊野さんはさっきまでいたソファではなくてパソコンとスピーカーを置いている机の横に立っていた。視線の先には、私が置いたままだった楽譜がある。
「これが、前に言っていた動画広告の曲?」
「そ……う、です」
「何で楽譜まであるの?」
「……」
怒っているような声音ではないから、純粋な疑問だろう。だけど、楽譜がある理由を話すなら、月城君に歌ってほしいと言われた事も話さないといけなくなる。自分で決めないといけないだろうからと思って、甘えてはいけないと思って、話していなかったのだけれども。
(……でも、この人に隠し事はしたくない)
この状況で変に誤魔化すような事を言えば、嫌な思いをさせてしまうかもしれない。それですれ違ったり、関係がこじれてしまうのは絶対に嫌だし避けないといけない。ちゃんと、正直に、自分の言葉で伝えなければ。
「歌ってほしいって頼まれたんです。それで、検討資料として、その楽譜と仮歌入りの音源を渡されて」
「一体、誰に?」
「その曲を作った方です」
「知り合いだったの?」
「そう……ですね。出会ったのは偶然だったんですけど」
彼が肝心イコール月城君と知っているか分からないので、そこの部分は伏せつつ話をする。流石に、それは月城君のプライバシーに関わる事なので……不用意に話す訳にはいかないだろう。
「……俺にも、その曲を聞かせてもらって良い?」
「もちろんです」
彼からの申し出を快く受け入れ、パソコンとスピーカーの電源を入れる。準備が出来たので、彼の方へスピーカーを向けて曲の再生を開始した。何度も聞いたメロディが、この部屋の中を満たしていく。
「……有谷さんは、どうしたい?」
曲を聴き終わって、開口一番尋ねられた。ここまで来たなら、もう素直に全部打ち明けてしまおう。
「興味はあります。単に歌うだけなら、正直歌ってみたいです」
「うん」
「でも……もし、もしも、前みたいな騒動になってしまったらって思うと怖いと思ってしまって。前みたいに周りに迷惑を掛けてしまったり、怖い思いをしたりしてしまったらって思うと、踏み切れなくて」
「……そうか」
「迷っているのが現状です。もし、上手くいけば……会社のためになるし、会社のためになるという事は貴方のためにもなる訳なので、頑張ってみたいとは思うんですけど。でも勇気が出ないんです」
そこまで伝えた後で、彼の方を見上げた。菊野さんは、思案するような表情を浮かべている。
「……君自身に、挑戦してみたいって気持ちはあるんだよね?」
「はい。何のしがらみがないなら、不安が無いなら……歌いたいです。良い曲だと思いますし、歌でもキクノの商品に関われるなんて、そうそう機会がある訳ではありませんから」
「……なるほどね」
菊野さんの眉間にある皺が深くなった。次いで、彼の口が動いたので一言一句漏らさぬよう、じっと彼を見つめる。
不意に、彼が動いた。手首を掴まれ引き寄せられて、彼の腕の中に囲い込まれる。抱き締められて彼の温もりを肌で感じて、落ち着かないけど離れたくない、そんな感情に襲われた。
「個人的にはさ。個人的には、君の歌声をあんまり他の奴らに聞かせたくないんだよ。だってそうでしょ、誰が好き好んで、恋人の魅力を広めたいなんて思うのさ。いっその事、君の良さは、君の魅力は、俺だけが知っていればいいって思っているくらいなのに」
「……」
ものすごい殺し文句に、頭がくらくらしてくる。正直、私が感じていた自分の嫉妬深さや狭量さが、可愛らしいとすら思えてきた。
「でも、会社の人間としてはさ……主役は商品なんだし、その商品を引き立てる上でこの曲を活用すれば、君が歌ってくれれば、鬼に金棒だなっていうのは理解出来るんだ……商品の企画開発は君達のチームなんだから、そういう意味でも妥当な人選だし……」
そこで菊野さんの言葉が止まってしまった。彼も、葛藤しているのだろうか。個人的な感情と、会社にとっての損益を、天秤にかけて。
焦らせてもいけないので、そろそろとこちらからも両手を伸ばして彼の背中を控え目に抱き締める。すると、ますます彼の腕の力が強くなった。
「こういう時の為の肩書きや身分だからね。責任者は大和だから話もしやすいし、俺の方でもネット広告周りの状況は逐一チェックしておく。もっと上の権限を持っている人間を出せと言われたなら、俺が出ていくよ。有谷さんの身の安全を最優先にして、関わる組織や人全てに守秘義務を課して、動画そのものにも個人を特定させるような、それに繋がるような情報は一切出させない」
「……はい」
「だから、君が望むなら。望む通りに、決めて良い」
吐息が触れるくらいの距離で、真っ直ぐに見つめられて真っ直ぐな言葉を告げられた。ああ、こんなにも真摯に私の事を考えてくれて、私の事を慮ってくれる人が味方でいてくれるならば。
「ありがとうございます。貴方がそう言ってくれるなら、もう迷いません」
私の方も彼を見つめて。視線を逸らさずに覚悟を語る。
優しく下りてきた彼の唇を、どきどきしながら同じもので受け止めた。
***
「……あのさ、一つだけ、お願いしても良い?」
「私に出来る事でしたら。何ですか?」
ふわふわ浮き立つ心地のまま。二人並んでソファに座り、何となくくっついていたら。菊野さんから、遠慮がちに声を掛けられた。
「さっきの歌、今歌える?」
「一通りは歌えますよ。動画に使ってもらうなら、まだまだ歌い込まないといけないですけど」
「練習した後の分は、また聞かせて欲しいと思うけどね。でも、やっぱり……俺が一番に聞きたいなって思って」
「そういう事でしたら、喜んで」
彼の為に、ただ一人の為のステージを。ならば是非、心を込めて歌わせてもらおう。
名残惜しいが彼から離れ、スリープモードになっていたパソコンを起動する。スピーカーを調整して、インストゥルメンタル版の再生を開始した。
「ゆらゆら、揺れる、肌の、ように。ゆらゆら、揺れる、この心」
「どうして、いつも、通りに、出来ないんだろう」
歌詞自体は覚えてしまったので、菊野さんの方を向きながら歌っていく。時折リズムに合わせて頷いてくれるので、促されるように声を発した。
「頑張り過ぎなくて良いんじゃない? お気に入り手に取って、ちょっとひと息つこうか」
今回の商品のコンセプトは、ストレスで揺らいでしまった敏感肌をケアするスキンケア用品だ。だからきっと、歌詞もメロディもストレスやリラックスする事を意識したものになっているのだろう。
「そしたらまた、明日から頑張れる筈だから。どうか見守っていてね、愛しいひと」
愛しいひとのフレーズ部分では、より意識して彼の瞳を見つめた。中々言葉で伝えるのは恥ずかしくて出来てないでいるけれど、歌に乗せてならいくらだって遠慮なく伝えられる。ああ、やっぱり歌は私だ。
二番もラストのサビも、朗々と歌い上げる。曲が終わってお辞儀すると、菊野さんは惜しみない拍手を贈ってくれた。