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貴方の、会社の、ためになるなら(6)

「あれ? もしかして有谷さん?」

 買い物を終えて帰る道中、後ろから声を掛けられた。聞き覚えのある慕わしい声に、心が弾んでくる。

「菊野さん!」

「奇遇だね」

「菊野さんも買い物ですか?」

「俺は、散歩がてらいつも飲んでる珈琲パックを買いにね。気に入っているのが此処にしか無くて」

 そう言って見せてもらったのは、確かに普段あまり見ないメーカーのドリップパック。彼が気に入っているというならば、今度買って飲んでみようか。

「そうだったんですね。私は夕飯の買い出しです」

「自炊してるの? 偉いね」

「平日はおかずだけ買って帰る事もありますけど、休みの日はなるべくするようにしています」

「そうなんだね。俺は買う事が多いから見習わないと……って、うわ、降り出してきたな」

 話している内に、雨がぽつぽつ落ちてきた。一気に勢いが増してきたので、ひとまず二人で近くの店の軒先に移動する。

「大丈夫ですか?」

「俺は大丈夫……ああ、でも、結構降られたな」

 自分についた水滴を払っている菊野さんを横目に、空の方を確認する。分厚い雲が広がっているので、当分止みそうにない。一応折り畳み傘は持って来ているが、二人で入るには小さいし……既に濡れてしまっている彼を、このまま返すのも心配だ。

「一旦うちに行きましょう」

「え?」

「うちに予備の傘ありますし……羽織ってらっしゃるカーディガンだけでも乾かした方が良いと思います」

「あ、ええと……良いの? 大丈夫?」

「午前中片付けたばかりなので大丈夫ですよ。丁度今少し弱まったみたいなので、行くなら今かと」

「…………じゃあ、お言葉に甘えて」

「分かりました。行きましょう!」

 荷物を抱えて、先導するため先を走る。最短の道を通りながら、無事に家まで辿り着いた。


  ***


「タオル取ってくるので、少しお待ち頂けますか?」

「うん」

 彼が頷いたのを確認してから浴室の方へと向かい、ドアの横に置いている棚からバスタオルとフェイスタオルを取って玄関に戻る。バスタオルは彼に渡して使ってもらい、フェイスタオルでそれぞれの荷物を軽く拭いた。

「じゃあ、ええと……お、お邪魔します」

「どうぞ」

 いつになく声が小さい彼が、おずおずとリビングへ入っていく。別に、二人しかいないのだから、そんな遠慮しなくても良いのに。

「私は紅茶飲もうと思いますけど、菊野さんはどうしますか?」

「あ……じゃあ、さっき俺が買ったコーヒーを淹れてもらっても良いかな?」

「分かりました。それじゃあ、開けさせてもらいますね……あ、カーディガンも貸してもらって良いですか? ハンガーに掛けておきますよ」

「うん……ありがとう……」

 差し出されたカーディガンを受け取って、ハンガーに掛け部屋に干す。丁度のタイミングでケトルが鳴ったので、マグカップを出して紅茶とコーヒーを淹れていった。うん、中々良い感じに出来たぞ。

「お待たせしました」

「ありがとう」

 マグカップを受け取った菊野さんは、一口、二口とゆっくり飲んでいく。あの時と違って、そんな彼の姿を見ているのは私だけ。それが……やっぱり、何だか嬉しいと思ってしまって目の前の彼に申し訳なくなってくる。

「そう言えば、夕飯は何を作ろうとしていたの?」

「え? ああ……豚の生姜焼きです。まだまだ昼間は暑いですから、スタミナ付けたくて」

「豚の生姜焼きと、ご飯?」

「はい。生姜焼きには千切りキャベツをつけて……更に味噌汁もですね」

「味噌汁か……普段何入れる?」

「よく入れるのは大根と豆腐ですね。人参入れたりキャベツ入れたり、きのこ入れたりもします」

「そうなんだね」

 他愛もない会話をして、のんびりと世間話をして。コーヒーのお代わりは大丈夫との事だったので、使い終わったマグカップを預かって私の分と一緒にキッチンに持っていく。洗い物をしながらちらっと確認した彼は、やっぱりいつになく落ち着きが無いように感じられた。テレビつけても良いですよと伝えたのだけれども、大丈夫だと言いつつ心許なさげに視線を彷徨わせている。

(せっかく二人きりなのに…………あれ、そうだ、二人きり……)

 付き合っている恋人と、自分の部屋の中で二人きり。漸くその事実を認識して、うっかり手を滑らせた。間一髪マグカップが落ちるのは避けられたが、さっきまでは平常運転だった心臓がどっどっどっと凄いスピードで駆けていく。人目のないところで二人きり。手を繋いだり並んで座ったりぴったりくっついたり……それ以上の事をしたってされたって、十分あり得る状況。どうしよう、そこまで深く考えてなかった。とにかく、彼を濡れたまま帰してはいけないって、その一心で。

「有谷さん」

「はい!?」

 状況を自覚して焦り始めたタイミングで、思っていたよりもかなり近い距離で彼の声が聞こえた。ばくばくとなる心臓を深呼吸で落ち着かせつつ、そろそろと後ろを振り返る。

「驚かせてごめんね。あの……お茶一杯もらえたり、するかな」

「大丈夫ですよ! あ、ええと、持っていくので少々お待ち頂ければ!」

「場所教えてくれたら自分で注ぐよ?」

「大丈夫ですよ。もう洗い終わったので……コップこれで良いですか?」

「うん。ありがとう」

 お礼を言ってくれた彼をリビングに帰して、二人分のお茶を準備する。お茶をお盆に乗せ、何度も深呼吸した後で……気合いを入れてお盆を持ち、リビングへと向かった。

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