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悪夢再び(3)

 月曜日、いつもならば本社の中で迎える始業時間。仕方ない事とはいえ、慣れないので変な感じだ。

 在宅ではあるけれど、普段と同じように身支度をしてから社内パソコンの電源を入れた。社員番号を入力し、登録メールアドレスに送られてきたワンタイムパスワードを入れてロックを解除する。

 まずはメールチェックをしようと思って、メールソフトを立ち上げた。未読メールは五件、二件は先日問い合わせに答えた取引先からのお礼メールで……残りは課長と、真中さんと、羽柴さんだ。今日私がやるべき業務の話かもしれないので、まず先に真中さんのメールを開封する。

『菊野君から事情は聞いたわ。こんなタイミングで正直痛手だけど、身の安全には変えられない。貴女の安全は勿論だけど、他の社員達や取引先の安全の為にもね。在宅勤務の仕方は社内パソコン内のマニュアルに載ってるから、最初に確認しておいて』

『在宅期間中は基本メールで業務指示なり状況確認なりを行うから、メールは定期的にチェックして。基本的には、各種データチェックやチェック済みデータの修正辺りを中心にお願いする事になると思う。貴女宛に届いたメールには都度返信してもらって、別途課長とか他の社員から頼まれた事があればそちらをやって。私や羽柴さんが頼んだ業務以外をした場合は、何をしたか私へ報告を忘れずに』

『自由に動けない、今までやっていた事が出来ない。ストレスになると思うけど、今はそういう時だと割り切って目の前の出来る事に取り組みなさいね。くれぐれも、不要な自責をしないように』

 何とも真中さんらしいメールである。一華ちゃんと同様に口調そのものは割と強めなタイプだが、内包されている心配や気遣いは伝わってくるから、大丈夫。

『菊野君から色々聞いたよ。真中さんとも話したけど、こればっかりは仕方ないから気にし過ぎないでね。有谷さんが出社出来るようになるまで現場の方は二人で頑張るから、遠隔サポート宜しくね☆』

『早速だけど、添付した三つのデータの確認お願い出来るかな? 全部美容雑誌に載せる新商品の特集記事の文面で、朝一でライターさんから届いたばっかりだからチェックし甲斐があると思います(*^^*)v』

『チェック後のデータはいつもの形式で纏めて私宛にメールしてね。今日中に宜しく('◇')ゞ』

 羽柴さんは羽柴さんで、いつも通りの様子だ。ご本人もメールも柔らかくて親しみやすいタイプなのだが、業務に関しては結構スパルタ思考である。それでも、ちゃんとこちらの力量を見ての指示で、頑張れば過度な負荷なく出来る量なので、見極めと采配が上手いのだろう。流石元チームリーダーである。

『俺は件の番組を見ていたし、蒼治からも話は聞いている。身内が済まないね』

『在宅勤務の勤務時間は出勤時と同じようにしておくれ。休憩に入る際は社内パソコンの電源を落として、休憩を上がったタイミングで入れ直す事。社内パソコンの電源が入っている時間イコール勤務時間と判断するから、多少の誤差は目を瞑るがちゃんと八時間になるよう注意するように。それ以外の在宅勤務に関する注意事項は、マニュアルを確認してくれ』

 始業開始時刻の十五分前には電源をつけていたのでドキッとしたが、ほっと胸を撫で下ろす。いつも通り、今後の参考にするため社内パソコン内の過去データを休憩時間に色々見てみようと思っていたのだが……止めておいた方が良さそうだ。課長は課長で、努力も結果も求めるタイプだがコンプラ違反や就業規則違反にも厳しいので、そういう意味では真中さんに似てなくもない。

(……そうだ、私は一人じゃない)

 あの時も、一華ちゃんやゼミの皆がいた。今も、真中さんや羽柴さん、課長、企画課の皆……そして何より、蒼治さんがいてくれる。だから、今の私に出来る事を頑張ろう。

 決意を新たにして、時刻をチェックする。羽柴さんの言う今日中は時短勤務の彼女に合わせた今日中なので、遅くとも十五時頃には完了させてデータを送らないといけない。取引先への返信メールを送ったら、早速取り掛からないと。

 返信メールをそれぞれ作成して宛先や文面等をチェックし送信、次いで、添付ファイルをダウンロードして解凍し対象データのチェックを開始する。在宅勤務初日は、あっという間に過ぎていった。


  ***


 無事に初日を終え夕飯の準備をしていると、蒼治さんから連絡があった。今から向かう予定だが必要なものはあるかとの事なので、今日は大丈夫ですと返信して彼の到着を待つ。今か今かと待っているとインターホンが鳴ったので、開錠して玄関に駆け出した。

「お疲れさまです」

「お疲れさま。在宅勤務初日は大丈夫だった?」

「無事に終えられました。明日からも頑張ります」

「そうか、それなら良かった。ほんと、在宅勤務に変更してもらってて正解だったよ」

「……え?」

 受け取った彼の鞄を、ぎゅっと抱き締める。一体、何があったというのだろうか。

 立ち話も何なので、中へと上がってもらう。皺になってはいけないのでジャケットを預かり、ハンガーを使って壁の縁に掛けた。これからもこういう機会があるのならば、干せるようなラックを買った方が良いだろうか……いや、先走り過ぎか。

「予想通り、本社の入口とか向かいの道路とかにマスコミが張っていてね。ゴシップで噂の週刊誌の記者とかもいて、出勤してきた社員に手当たり次第カメラとマイクを向けてたんだよ」

 用意したお茶を一口飲んだ後、蒼治さんは重苦しそうな声音でそう切り出した。心なしか、彼の顔色も普段より悪い気がする。

「迷惑な……」

「正直、暫くはこのままだろう。だから、希望者には在宅勤務を許可して、裏口からも入れるようにしておいた」

「本社に裏口ってあったんですか?」

「一応あるよ。面した道は車一台分しか通れないような狭い通路だし入口に警備員がいるから、現状だと表玄関よりは気楽だと思う。今日の帰りに使ったけど、それらしい輩は見当たらなかった」

 それは知らなかった。聞けば、社内で使う備品の納品業者や残業等で表玄関が閉まった後に出入りする人達向けの入口らしい。復帰したら場所のチェックだけはしてみよう。

「社内で聞いて回った感じ、例の番組を見ていた人と見てない人は半々くらいだった。見ていた人達は案の定って反応で、見ていなかった人達は何事かと驚いていたね。何が火種になるか分からないから、全社員に向けて簡単な事情説明とマスコミを相手にしないように連絡はしてる。正面に追加の警備員を二人配置したから、社員がしつこく絡まれるような事態になれば対処してもらう予定だ」

「……ありがとうございます」

 判断が早い。改めて、この人の有能さと権限の広さ……立場の遠さを実感してしまう。

「食料品や日用品の買い物とか、お使いとかあったら俺に言ってね。届けられるのは仕事終わりとか休日が中心になるけど、代行するから」

「ご迷惑じゃないですか?」

「自分の分を買うついでだし、可愛い恋人の為だからね。大丈夫だよ」

 彼の手が、私の頭を撫でて髪を梳いていく。頬にも触れた手の平は、いつも通りの温かさだった。

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