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33 襖の奥の秘密

 秋になってしばらく経つというのに、電車の中に冷房が入るくらいに気温はなかなか落ちない。サラリーマンも学生もいない昼間の車内は、涼しくて眠気を誘う。日の当たる窓側に腰かけて、いつのまにか首を後ろに倒して寝入っていた。目的地の駅に着いた時には、すっかりと顔面が日の光を浴びて、体温が上がっていた。しかし、どこか気持ちがすっきりしたのも否めない。最近は色々なことに思い悩み、無意識に下を向いて歩いてばかりだった気がする。改札を出ると、駅前に続く商店街を抜ける。両親と折り合いが悪かった新藤は、夏休みになると従兄もいる親戚の寺に泊まることが多かった。都会の住宅街にある割に、近くには大きな川の土手が広がり、野球やサッカーを夜までした。


 『養福寺』。大きな看板が掲げられる門を抜けて、綺麗に整えられた園庭を眺める。砂利に乱れもなく、並んだ地蔵様も丁寧に磨かれているようだ。几帳面な叔父らしい見事な境内に、新藤が懐かしさを感じている時だった。にゃあ、と小さな鳴き声に足元を見ると、三毛猫が体を摺り寄せてくる。軽く頭を撫でてやると、目を細めて気持ちよさそうだ。無意識に、事務所で暴れる文太を思い出す。


「そうだよな。本来は、猫とはこうあるべきさ。特製毛玉吐きを空中でやる、なんて特技お前にはないよなぁ」


 新藤が身をかがめて抱き上げようとした時だった。


「うらあああああっ! またお前かああぁ!」


 叫び声に振り返ると、袈裟をまとった叔父が箒を振り上げて駆け寄ってくるところだった。


「うああああっ」


 思わずのけぞって尻もちをつくと、足元にいた猫が飛びのいてジャンプする。同時に、地面に散らばる金属音。目をやると、なぜか数枚の小銭が落ちている。明らかに「しまった」という顔を見せた三毛猫は、それ以上新藤に寄ることなく、一目散に養福寺から走り去っていく。新藤のところに来た叔父は、荒い息を漏らしながら怒りを吐き出した。


「またあいつ! 銭洗いの賽銭をかすめ取ろうとしやがって」


「まさか!」


 あんなに可愛い猫が、そんなことをするはずがない。咄嗟に口に出した新藤を見て、叔父は虚を突かれたような顔をした。


「なんだ、健作か! 久しぶりじゃないか。いや、お前だって無駄に力があるんだ。化け猫くらい見抜けないなんて、情けないぞ」


「すごくかわいかったけどな……」


 すると叔父は、新藤の胸ポケットを顎で示した。見ると、確かにそこに入れている名刺入れが抜け落ちそうだ。慌てて、ポケットに押し込んで下を向く。金目のものが入っていると思ったのだろう。あれでは、一般人は盗みにあってもおかしくない。ここまで霊力が落ちているのかと愕然とすると共に、何も信じられない気になった。


「どうした、悩み事か? なによりまだ暑い。奥へ入ってお茶でも飲むといい」


 叔父の優作はそういうと、箒を肩にかつぐようにして前を歩きだした。

 寺というのは、不思議な力で守られているようだ。戸建てやマンションなど居住する住宅というのは、年月を経るごとに古さが目に見えるように滲んでくる。家が家族の呼吸を吸って、一緒に老けていくようだと思う。それなのに、寺は一向に歳をとらない。手入れがされていることが前提にあるものの、埃一つ落ちていない絨毯にゆがみなく貼られた障子。さらに、鼻の奥に抜ける香のかおりは、新藤のここで過ごした記憶を瞬時に思い出させる。わあぁっと子供の叫び声がして、新藤の足が止まる。


「あの声は……」


 新藤を振り返った優作が、少しだけ困ったように眉尻を下げた。


「あぁ、周作の下の子だよ。今日は、近所の子らも遊びに来ているから、外で鬼ごっこをしているんだ。もし、気に障るなら……」


 周作は、新藤の同い年の従兄である。大学卒業後、早くに妊娠を機に結婚をした。生まれた頃から寺を継ぐことを定められていた周作にとっては、経済力や生活力に迷うことなく、自分の好きな相手に一直線に突っ走り、見事ゲットした。そんな無防備で純粋な姿を、健作は羨んだ時期もあった。


「いや、大丈夫。気を遣わせてごめん」


 もちろん、新藤の妻である理沙が事故死したことは、優作の一家も周知のことである。通夜葬式はこの寺でやってもらったが、理沙の親族は誰一人知らず、そして新藤の実家は誰一人参列しなかった。ごく少数の家族葬に寄り添ってくれたのは、この一家だけだった。今では、周作の子は小学生に上がっているだろう。数年後に生まれた二人目の子供は、晴人と同い年だったはずだ。親戚の中で『作』の文字を継ぐ習わしがある新藤一族で、反発するように子供に同じ文字をつけなかった。どうか、自分の好きなように生きてほしいと願っていたのに。新藤は晴人の笑った顔を脳裏に思い浮かべそうになって、慌てて打ち消す。うっかりすると、そのまま涙腺が崩壊してもおかしくない情緒だった。


「理沙が死んで、晴人もいなくて……。最近、色んなことがあって、二人の死を思い出させられるんだ。今まで、目を背けていただけだったんだ。そうしたら、精神的にどん底で。どうやって、理沙が死んでから笑っていたのかも思い出せないんだ。最近は、霊力もすっかり落ちてしまって……。もう仕事にもならない」


 下を向くだけで、鼻水が垂れてくる。手の甲で拭い、叔父から背けるように庭を向いた。解決策を求めているわけではない。ただ、自分のことを知っている誰かに、聞いてほしかった。


「お前の好きな瓦せんべい、たくさんあるぞ。俺はこれからひとつ仕事が入っているから、ちょっとゆっくりしていてくれ。後で、周作が戻ったら、たくさん酒を飲ましてやるからな」


 新藤の様子に気づいたのか、優作はあえて目を合わせることなく、早々に部屋を出て行った。ここは、法事をする家族が来た際の、待合室のような役割をする部屋である。大テーブルの隅に置かれているポットから急須に湯を入れると、数分待ってから湯呑に注ぐ。絨毯に腰を下ろし、一口飲み込んでからほっと息をつく。湯気をぼんやりと眺めて、久しぶりに気持ちが落ち着くのを感じた。事務所にいると、どうしても余計なことばかり考えてしまう。


「待ってよー! そっちはダメだよー」


 笑い声の混じった甲高い声と、子どもたちが廊下を駆ける足音が響く。さっき庭を駆けていた子どもたちが寺に上がってきたようだ。猫といい子供といい、ここは昔から自然とみんなが寄ってくる。ここは霊力の強い僧侶が営む寺だと、まるでみんな結界でも感じているようだ。


「次、壮太が鬼だってば!」


 子どもたちの足音は、一人増え、二人増え。襖の向こうではしゃぐ声が止まらない。笑い声が重なって幾分うるさく感じ始めた時だった。ひとつの物体が、新藤の休む部屋の前の廊下に飛んできた。見ると、どうやら恐竜マンの人形だ。子どもたち世代に人気のアニメで、新藤も息子に与えたことがある。


「あ!!」


 殊更大きい声が聞こえたかと思うと、小さな足音が近づいてくる。お茶を再び一口飲む新藤の前に、廊下を滑るようにして男児が姿を現した。新藤を見つけ、やべぇ、という顔をする。


「こんにちは」

 思わず声をかけると、人見知りなのか男児はじっと新藤を見つめるだけだった。恐竜マンを慌てて拾うと胸に抱き、再び新藤を見る。


「それ、君のかな?」


 じっと佇んでいるということは、恐れてはいないはずだ。自然と聞いてみると、男児は微かに首を振って言う。


「……あきくんの」


 友達の名前だろう。それだけ呟くと、男児は挨拶もせずに再び駆け足で視界から消えた。すぐに、友達に大声で報告する声が聞こえる。


「変なおじさんいたー!」


 友達には、やたら大きな声が出るらしい。ふっと笑いを漏らす。庭へ視線を向けると、子どもたちがはしゃぎながら廊下を走って、遠のいていく足音が聞こえた。


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