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No.57 第20話『散り逝く』-2



薬仲間が出来たと喜ぶ彼女は、それからも私のことを見つけては八!と話しかけてくるようになった。

前の遊郭で来ていた客が、こちらの遊郭にも来てくれてまた薬を分けてもらえたと嬉しそうに伝えられる。


私はといえば、ジュンイチさんが冷たくなったと感じた辺りから……青と白に手を出し始め、白無垢の死んだ彼女を夢見たあの日からは、赤も服用するようになっていた。


薬を服用し始めてからわかったのは、薬を分けてくれる遊女が常に酔っぱらっているように見えたのはお酒の所為ではなかったのだということ。


少ない量であれば、気分が高揚するような、不思議と楽しい気持ちになれる。

精神が不安定になり、いつもより多く薬を服用してしまった時は、ほんの数分だけ記憶が混濁して曖昧になってしまうこともあった。



「でもざんねーん。私はもうあの人に約束してもらってるんだよね。身請けして、ここから出してもらえる約束してんの!」


初めてあの女がここへ来た時から数えて、来店7回目の夜だった。

女が来る前に飲んだ薬の効果が緩やかに出始め、気分が高揚して彼のことを自慢気に話す。


信じて待っていれば結婚してもらえる。身請けしてもらえる。ここから出してもらって自由になれる。

そう考えると最高潮に嬉しくなって、女の前では見せたことのない飛び切りの笑顔を披露した。


でもそれも、たった一言をきっかけに全てを変えられてしまう。

薬で気分が良くなってきた私をガラリと変えるほどの、衝撃的な言葉を告げられてしまう。


「あなたは……おそらく、騙されています」


何とか持ち堪えていた精神が、一気に崩れ落ちていく音が聞こえた。


「は…?」


身請けしてもらって外に出られたら、あなたの所で働いてあげてもいい。

そんな冗談を頭に浮かべるほど高揚していたはずが、急に冷や水を浴びせられたように目を覚ます。


嬉しそうに笑いながら言った私の告白へ、相手も笑顔で食いついてくると思っていた。

心を開いてくれたのかと、いつものように目をキラキラさせて、必死になって話を広げてくるのだとばかり思っていた。


「そのお相手の方が上流階級であろうと、中流階級であろうと…万に一つも結婚はあり得ません」


ガツンと、後ろ頭を殴られたような衝撃を受ける。

目の前が急激に真っ暗になって、どこにも焦点が合わず困惑した。かと思えばまたあの女の声が聞こえてきて、すぐにフッと現実へと視界が戻ってくる。


「婚姻届けなしの身請けは人身売買に当たるため許されていませんから……下流階級の人であれば、万に一つなら可能性はあります。そのお相手は下流階級の方ですか?」

「違う…けど」


次から次へと捲し立てられるような話に、思考がついていかず混乱する。

反射で素直に返事をすれば、また信じられないようなことを言い切られた。


「それならば……あなたが下流階級の遊女である限り、身請けの可能性はありません」

「…?!」


じわじわと、正常に働いてきた頭のお陰で怒りが湧いてくる。

会った時から綺麗ごとの嘘ばかり言ってきた相手へ、真正面から嘘をつくなと反論した。


けれど必死で説明される内容は、下流階級の遊女が身請けされない根拠は、今までの綺麗ごととは違い不思議と本当のことを言っているように感じた。


法律で、下流階級と中流階級の結婚はあり得ない。何故なら中流階級の人間が下流階級になるから。

そう説明された時、どんな綺麗ごとの話よりも何故かストンと腑に落ちてしまった。


『身内が病気になってね。その治療費を支払った分、八の身請け金が思うように貯まっていないんだ…』

『八と結婚したいとは思ってる。ただそれにはお金がいるんだ。だから……もう少しだけ、待っていてほしい』


8年の指名を終えて、まだ身請けが出来ないと彼に謝られたことを思い出す。

誠実に理由を説明されて、あともう少しはいつ…?と泣きながら問うたことを思い出す。


『…お金が貯まってからだよ、八』


いつも通りの、優し気な表情で微笑む彼。

なんてことはない、と表現するかのごとく笑って見せた愛しい彼。


頭の中にあの時の映像が蘇って来た時には、ああ…嘘かもしれない……と心のどこかで思っている自分がいた。


「…彼、はきっと…このことを、知らなかったんだ」


信じたい。それでも彼を、信じて待っていたい。

そんな想いから、彼が嘘をついたわけではない可能性を探ろうとする。


けれど非情にも、再び女の声で真っ向から否定された。


「……私も最初はその可能性が残っていると思いました。世間知らずで、本当にそれが出来ると思っている方なんじゃないかって…でも、あなたの話を聞いて、違うとわかりました」

「な、んで…」


聞きたい。でも、聞きたくない。

相反する感情が同時に湧き起こって、体中が震えだす。

今まで薬で抑え込み堪えてきたものが、一気に爆発してしまうような……そんな予感がした。


「データが流出する恐れのあるこの世の中で、彼はあなたの裸を撮った。そいつがあなたを愛していない証拠です」


ドッと目から溢れてきた時にはもう遅かった。

彼を信じて待つ気持ちが完全に揺らいで崩れ落ちていく。


彼が来店しなくなってから、約一週間…

もうここへは来てくれないかもしれないとわかった途端、全身の力が抜けて生きた心地がしなかった。


薬の効果がやっと強く出始めたのか、行燈が消えたように目の前の景色が真っ暗になる。

私と彼を繋いでいる小指の糸が、プツンと切れたような音がして……必死に切れた糸を探そうとしても、全然見つけることが出来なかった。

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