「薬をッ!!薬をちょうだいッ!!!」
「え、ちょっ…八!静かに!シー……ね?落ち着きなよ。一応これ店には内緒なんだからさ」
錯乱した状態の私に声をかけられて、いつも薬をくれるあの遊女が自分の唇に人差し指を当てる。
落ち着くようにと背中を擦られたけど、その行動が余計にジュンイチさんを思い出させて、早く薬が欲しいと再度強請った。
「前あげた分はもう全部飲んだわけ?」
「足りない…ッ、全然…足りないの!」
「えー?おかしいな…この薬、禁断症状とかはないはずなんだけど」
ほら、私の持ってる分全部あげるよ。
そう笑いながら差し出された薬を、勢いよく3つほどまとめて掴んで口に放り込む。
水も含まず歯で噛み砕く様子を見て、焦ったように残りの薬を引っ込められた。
「3つ一気になんて駄目じゃん!あんた一体今日いくつ飲んだんだよ!ってか飲んでないし、食べちゃってるし…」
「消えない……消えないの」
「……?何が」
真っ直ぐと目の前の空間を指差しながら、あんたは見えないのかと視線で問う。
首を傾げながら私が指差している壁際を確認して、もう一度私の方へと視線を戻された。
「何?壁になんかあんの?」
「…あんたも知ってるでしょ?乳幼児施設から移送された時、あの警察官に…2番目に殺された……」
「ああ…あのすっごく運なかった子か。なに?幽霊でも見てるって?ないないない。あんたはただの薬の飲み過ぎで頭ふわふわになってるだけー」
「だって…不安で、ジュンイチさんが…嘘ついてるかもしれな……ッ、全然、来てくれな……」
「言ってることも訳わかんなくなってきてるしさー……とりあえずしばらくは薬抜きな?残りはまた今度ね」
面倒そうに踵を返されて、咄嗟に背中側から帯を引っ張る。
う゛ッ…と苦しそうに呻いた彼女を見て、必死に後ろから頭を下げて頼み込んだ。
薬をちょうだい、薬をちょうだいと…何度も何度もしつこく繰り返す私に対して、はあっと困ったように溜息をつかれる。
何でこんな症状出てんのかな、私は飲んでもこんな風になったことないのに……と呟きながら、黒の薬を1つ差し出された。
「はーち、良い?もう今日は絶対に飲まないで、間隔あけること!たぶん薬の効果は1日あれば無くなると思うから…そうだね、明日の夕方までは飲まない!わかった?約束!」
「わか…った!わかった!!」
「もうこれ渡したら、明後日まで私は絶対薬あげないからね!ちゃんと自分で管理しないと明日の分ないからね!良い?わかった?」
子どものように必死に首を縦へ振って、両手をお椀にしながらお願いと強請る。
仕方がないともう一度息を吐いて、私の手のひらに黒の薬を置いてくれた。
「ほら、顔上げてみ?さっき飲んだ薬即効性あるやつばっかだし、変な幻覚無くなってんじゃない?」
言われた通りに顏を上げて、さっきまで見えていた白無垢のあの子がいないか確認する。
不思議なことに恐怖でガクガクと震えていた身体は自然と治まり、壁際には何も見えなくなっていた。
「お、急に顔色戻ったじゃん。やっぱ効くんだねーあの薬」
「……。」
ごめん…ありがとう…と、小さく聞こえるか聞こえないかくらいの声量でお礼を述べる。
そんな私の様子を気にすることもなく、じゃあ私の言ったことちゃんと守るんだよーと適当に手を振りながらすぐさま目の前から立ち去られた。
「大丈夫…もう平気、大丈夫……」
私もあの女の指名が入っている。
すぐに部屋へ向かわなくちゃいけない。
それでも昨日の出来事を振り返ってしまえば、前へ進めていた足が自然と重くなる。
何とかゆっくりでも動かせていた足が、昨夜言われたことを鮮明に思い出してしまい……完全に止まった。
『あなたが下流階級の遊女である限り、身請けの可能性はありません』
目的の部屋まであと数歩。
そのたった数歩が歩けずに、廊下のど真ん中で立ち尽くす。
薬のお陰で白無垢の幻覚は見ていない。
幻覚は…見ていないはずなのに……
「……ジュンイチ、さん…?」
目の前から、会いたくて会いたくて仕方なかった彼が姿を現す。
一瞬幻覚かと思ったけど、彼が驚いたような素振りで目を見開き、小さく声を発しながら立ち止まったことで現実だとわかった。
「…八、か?」
「ッ…!ジュンイチさん!!」
前に会えた日から一週間以上は空いていたから、久しぶりの再会に涙が溢れ出そうになる。
笑って待っていてほしいと言われたことを守るため、必死に涙を堪えて駆け寄った。
「ちょっとあんた、私の客だよ。触んないで」
「……?!」
笑顔で迎えようと伸ばした腕が、いつの間にか現れた遊女に叩き落とされる。
私の腕を防いだ遊女がジュンイチさんの腕へと絡み、ね?と小首を傾げて微笑んでいた。
「な、に…どういう、こと?」
「八…ちょうど良かった。ずっと話したいと思っていたんだ。聞いてくれ」
真っ直ぐに私を見るジュンイチさんが、真剣な表情で話を切り出してくる。
その時にやっと気づいたのは、今日私を指名したのはずっと待っていた彼ではなくて、あの女だったということだった。
「ッ……なん、で?私…ずっと、笑って、信じて待って……」
震える両手が、縋るように彼の方へと伸びていく。
出会った頃の彼なら、迷わず手をとって抱きしめてくれていた。
大丈夫か、ゆっくりでいい。無理はするな。そう耳元で囁いて、背中を擦って慰めてくれていた。
なのに…
「…八、俺と別れてくれ」
まるで拒絶するように、腕を軽く払いのけられてしまう。
まるで私の愛は迷惑だと表現するかのように、接触を拒まれて、力強い声で告げられてしまう。
「この遊女を好きになったんだ……八とは、今日で別れたい」
「…?なに、言って……」
「一緒にいられて楽しかった…八、今まで本当にありがとう」
さようなら。
そう誠実そうに、笑いながら告げられた最後の言葉に……何一つ、言い返せなかった。
「こんな下流階級の人間に、律義に別れなんて告げなくてもいいですよ。もう、優しいんだから」
彼の隣にいる遊女が、勝ち誇ったように笑みを見せてから、行きましょうジュンイチさんと声をかける。
幸せそうに笑った彼が、まるで何事もなかったかのように私の隣を通り過ぎて、廊下の奥へと消えて行った。
私はと言えば、今目の前で起こったことを頭の中で整理するのに必死で、現実も過去も未来も幻覚も、何もかもがわからなくなっていた。
『現実知るまで、精々夢見て笑っとけや』
『おお!今まで寝かしつけご苦労だったな!』
『えーやだ!あれくらいでショック受けてんの?』
『……よし!立て!お前ら!査定の時間だ!!服全部脱げ!!』
『はい、さっさと脱げよー。5秒に1人ずつ殺してくぞー』
『今日から蕾って名前は使えないからね。君は『873157番』!はい、復唱!』
『あー、こいつは客の前で盛大に粗相しちまいまして』
『……好きだ、八。俺と結婚してくれ』
『私はあんたの代わりに殺されたんだからさー……あんたは私より苦しんで死ねよ』
『…あなたが、この花街から出て幸せになる、1人目の遊女です』
『八!ほら、薬…!今日は多めにもらえたんだ!違う種類のもあるよ!』
『ちょっとあんた、私の客だよ。触んないで』
『一緒にいられて楽しかった…八、今まで本当にありがとう。さようなら』
「ああああああああ゛ッッ」
自分の叫び声と共に視界が暗転して、意識がプツリと途切れる。
どう部屋まで辿り着いたのかは記憶がない。
気が付けば、あの女の前にいて、彼と廊下で話した出来事を説明している自分がいた。
「ねえ、私とあいつ、どっちが悪い?どっちが死んだ方が良い?」
「……明日、あなたをこの花街から逃がします」
「……。」
不思議だったのが、分身したように……部屋の片隅から、大人の私を観察している幼い自分がいた。
幼い姿の私は声すら出せず、ただただ大人の自分と女の会話を耳にするだけで何もできない。
「ふふ…!あの人が持って来てくれたリンゴね!」
「……出来るだけすぐに、ここから出ましょう」
「……。」
どちらが本体なんだろうかと…幼い自分が考えても意味のない幻覚を解き明かそうとしていて……
大人の方の自分は、それを見て泣きながら嘲笑っていた。