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No.59 第21話『蕾』-1



『はーち、良い?もう今日は絶対に飲まないで、間隔あけること!たぶん薬の効果は1日あれば無くなると思うから…そうだね、明日の夕方までは飲まない!わかった?約束!』


私の身を案じて、薬を飲まないよう忠告してくれた彼女の言葉を思い出す。

幻覚で見えている幼い自分が、薬を飲むなと必死で腕に絡みつこうとしてくるけれど、すり抜けるばかりで意味はなかった。


口に含んでガリガリと噛み砕くように飲んだ黒の薬は、普段飲んでいた青、白、赤とは全然違う…不思議な味がする。

前に一度だけ黒を飲んだ時は、こんな味なんてしなかったのに……


「…美味しい」


フフッと思わず笑った時に、何の味に近いのかを思い出した。

ジュンイチさんに助けてもらったあの後……翌日の晩に食べた、あの味だ。


「……擦り下ろしたリンゴの味、ふふ…美味しい」


幼い自分が、大粒の涙を流しながら必死に何かを叫んでいる。

声は聞こえずとも、口の動きで何と言っているのかは見当がついた。


「ふふ……でもごめんね、ばいばい」


微笑みながら軽く手を振り、薄くなって消えていく幼い自分へ別れを告げる。

完全に見えなくなった幻覚のお陰で、薬が効いてきたのだとはっきりわかった。


「ほら…ね?やっぱり…飲まないと、幻覚…だし、眠れないし……明日は、大事…な、日…なんだから……」


薬をくれた彼女に言い訳をしながら、崩れるように布団へ倒れ込む。

今日は飲むなと忠告された夜……あの女が厠へ出て行った時の出来事だった。




第21話『蕾』




「今から作戦を説明します。何度も実験を繰り返したので、安全は保障します。上手くいく可能性はおそらく95%ほどです」


翌日の夜、女が予定通り来店して脱出の方法を説明し始める。

薬の効果がかなり持続していて、昨夜とは違い頭の中がすっきりと冴え渡っていた。


こんなにも効くのなら、最初から黒だけを服用していれば良かったとどうでも良い考えが頭を過ぎる。

最後にもう一錠だけ手に入れたかったけど、私の計画が成功すればきっとそれも必要なくなる。


成功しなかったその時は……生きていないだろうから、完全に必要じゃなくなるだけだ。

髪を一度全て解き、一纏めに括りながら、これから実行しようとしていることへの覚悟を決める。


薬の効果が切れる前に、私の計画をやり遂げなければならない。

それにはまず女の作戦を全て聞き終えてからじゃないと、何も出来ない。


「実験を繰り返した…?」

「はい、全部で15回。その実験全部が無事に花街の外へと運ばれていました」


女の作戦を聞いた上で、穴を見つけ、指摘する。

それでは危険だ不満だと大袈裟に表現して見せてから、それからが……私の作戦を始める時だ。


「投げ込み寺…はご存じですか?」

「…知ってるよ。死んだ遊女を供養して墓に入れる所だろ」

「はい…でもそれは全ての遊女がそうしてもらえるわけではありません」

「……そう。別にもう驚かないよ」


女の作戦を否定した後に、私の考えた作戦を説明する。

私の作戦にはどうしても女の協力が必要で、相談なしには実行出来ないからだ。


……正確には相談なしで実行出来なくはないけど、女のことを想えば、それはしたくなかったから。

下流階級の遊女に名前がないことを知って、自分のことのように悲しんで表情を歪ませていたこの女に、酷いことはしたくないと思ったから。


あの時見た女の顏は、決して芝居なんかじゃなかった。

遊女を逃がす目的自体は嘘だろうけど、あの時見せた辛そうな表情だけは、本当だって、信じてやりたいと思ったから…


私の作戦のためだけに、女を犠牲にすることはしたくなかった。


「投げ込み寺の横にあるこの空白の土地は、寺で供養されない遺体を処分する場所……ゴミ収集作業員が回収に来る場所に当たります」

「……。」


女の一般客用の通行手形。それを私に渡してもらい、女には男性に偽造した方の通行手形を使って花街の門を出てもらう。

男装したままなら疑われず、女も無事に花街から出られるはずだ。


女が退店してから時間を置き、無事に花街から出られただろう頃合いを見計らって私が動く。

その後私がどうなろうと、女の身に危険はないはずだ。


唯一心配なのは、女性用一般通行手形が偽装ではなく本当の女の身分証だった場合。

私が作戦に失敗して通行手形を取り上げられでもしたら、女の足がついてしまう。


遊女を脱走させるような計画を立てる奴だ。

本当の身分証を使って花街に通うなんてことはないと思うけど…女性用通行手形もちゃんと偽装したものなのか、確認する必要がありそうだ。


そう冷静に考えを巡らせて、落ち着いて話を聞いていた時だった。


「寺で供養される遺体は少ないため回収業者が遊郭へ来るのは週に1回です。そしてその曜日は今日ではありません。寺で供養されない遺体は…」


パチンッと……急に目の前が真っ赤に切り替わって、唐突に怒りが沸き始める。

頭で考えるよりも先に口から出てきたのは、何故か女を責め立てるような内容だった。


「はっきり言えばいい。中流階級の遺体は寺で丁寧に扱われて、下流階級の遺体はゴミだ。ゴミ捨て場に運ばれるんだろ。この花街にいるほとんどが下流階級の遊女だ。週に1回でなんか済まない。毎日毎日、ゴミのように回収されて捨てられてるんだろ」

「……。」


私の発した言葉で、女の顔がみるみる歪んで辛そうな表情へと変わっていく。

女の両目から涙が零れ落ちた時、前に思った感情とは真逆の感情が湧き起こった。


「…泣きたいのはこっちだろ。ふざけてんの?」

「……ごめんなさい」


前は辛そうな表情を見た時、なんてことはない気にするなと笑って表現して、冗談交じりに『馬鹿だねー』と返していた。

でも今は、心の底から殺してやりたいと思うほど、憎しみが湧き出てきている。


自分でも理解できない感情を、何とか抑えて深呼吸する。

薄っすらと見え始めた幼い私の幻覚が、泣いている女を慰めるように手を握って寄り添っていた。


「遊郭の1階に、遺体が入った桶が並ぶ場所…安置所があります」

「…!」


幻覚が見え始めたということは、薬の効果が切れ始めているということ。

そう察知した途端、赤色に染まっていた目の前が一瞬元の色へと戻る。


時間がない。

焦る気持ちを何とか抑えて、話に集中するよう耳を傾けた。


「そこへ桶を1つ増やして置いたところで、一度も気づかれることはありませんでした。桶の中には重しと、割れやすい物や壊れやすい物を入れて実験を繰り返し、その結果、15回とも無事に破損せずゴミ収集場所へと辿り着いていました」

「…寺の方には」

「残念ながら、寺に着いた途端住職が供養のために中へと誘導していたので、私が確認することは出来ませんでした」


……おおよそ、女の作戦が読めてくる。

もしもこの作戦を否定するなら、どう言えばわかってもらえるか…

そんな風に、頭の中で整理していた直後だった。


「つまり…遺体のフリをして桶へ入り、下流階級の遺体回収時に外へと持ち出してもらう。これが私の作戦です」


ヒタヒタと…何かが後ろから近づいてきて、耳元まで顔を寄せられる。

しゃがれた、呪いのような纏わりつく声で……低く低く囁かれた。



『……お前もゴミのように捨てられるよ』



「あっはっはっはっは!」

「な、何か変ですか…?この作戦」


……ああ、そうか。


お前か。

お前が用意した棺桶か。


急に聞こえた乳母の声に可笑しくなって、膝を叩いて笑う。

執念深く呪いのように唱えてくる乳母が、前と変わらない、歯の抜けた不気味な表情で隣から微笑んできた。


お前が用意した棺桶に、誰が入ってやるもんか。

こちらも負けじと不気味に微笑むと、幼い私が乳母と私の間に駆け寄って来て、しっかりしろとこちらを見つめてきた。


「桶の中を見られたらどうする」

「今まで中を確認されたことはありません。その証拠に…無事に見つからずゴミ収集場所へと辿り着いていましたし、万が一中を見られたときは死んだフリが出来るように、血のりも何個か用意しています」

「上手くいく可能性が95%っていうのは?残りの5%は何?」

「桶へ入るまでの間、人に目撃されたら…の5%ですが、それも人通りが全くない時間を何度も調査済みなので大丈夫かと」

「ふ~ん。でもまだ不安だねー。生きた人間が入ったことないんだもん、その桶」


幼い私のお陰で、一瞬失いかけた正気を取り戻して、女の作戦を否定する。

でも何故か、作戦を否定した後にしようとしていたことがごっそりと頭の中から抜け落ちていた。


私は、女の作戦を否定して、それで、私は、女に……

一生懸命、頭が正常に働くよう集中する。


けれどそんな私を嘲笑うかのように、痩せ細った乳母が女の後ろに回って、両肩に手を添えて呟いた。



『こいつは私だよ?』



「……やがって」

「え…?すみません、聞こえなくて…もう一度」

「……あー!思いついた!私が100%安全に逃げられる作戦!」


女の右手に持っていた地図を奪い取り、左手を真っすぐ伸ばす。

血のりは?と尋ねれば、鞄から血のりを取り出され、どうやって使うのかと問えば、馬鹿正直に説明された。


乳母の割には素直だなと血のりを観察していたら、『お前をゴミのように捨てるための準備だ』と不気味に微笑まれて、一瞬で表情を無くした。


「……え?」

「ほんとだぁー!血のり出た!」


殺意のこもった目を向けて、乳母に向かって赤い球を投げつける。

楽しそうに微笑んでやり返してやれば、向こうも楽しそうに両目が弧を描いて一層細くなった。

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