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No.60 第21話『蕾』-2



「あんたが死体のフリして桶に入ったらいいんじゃん!安全に出れたら良いねー!」

「は、八…さん?」


乳母の鞄を物色して、通行手形を探す。

その間何か話しかけられていたけれど、耳には一切入ってこなかった。


乳母のことなど見捨てる。

どうして私は乳母のことまで気にかけて、作戦を実行しようとしていたのか。

ふと自分の作戦を思い出した瞬間、一番始めに思ったのはこれだった。


私を呪っている奴のことなんて、気にする必要なんかない。

むしろ、こちらから地獄へ送り返してやればいいのだから。


「チッ、やっぱここには入れてないか」


乳母の癖だった舌打ちを私がやりながら、手を鞄から放す。

今度は乳母の身体に手を伸ばして、素早い手つきで袴と浴衣を脱がし、Tシャツの胸ポケットに手を突っ込んだ。


「え、あ…八さん?!それは…ッ!」

「花街入った時の通行手形はこれか……ハッ、一般女性の中流階級…ね。こっちの男用はいらないよ」

「む、無理です!それを使って出ようとしたって!花街の門まであなた1人では辿り着けません!」


慌てた様子で乳母が私を止めに入ってくる。

あなたのことが心配だからと、危険だからと、そう表現するかのように必死で説得しようとしてくる。


何をいまさらと、ぶつけられなかったあの頃の感情が蘇ってきた。



『ねえ!私とよく話してくれるけど、私のこと愛してるの?』



母というものは愛情で満ち溢れていて、子どものためなら自分の身を呈してでも守り、慈しむものなのだと言う。


でもお前は違ったじゃないか。

あの時私に対して、愛どころか、憎くて恨めしくて仕方のないような、身の毛もよだつような表情を返してきたじゃないか。


絵本の中の母親は、もっと優しく微笑んで、赤ん坊のことを愛していたのに。

赤ん坊に授乳していたあの母親は、自分の身を呈してでも子供を守っていたのに!


お前は!私のことなど愛してくれず!呪いまでかけてきたじゃないかッ!


「安置所に人気がない時間帯だって、あと少しで終わってしまいますから…」

「へえ、そりゃ大変だ。じゃあこうしよう!お前が囮になればいい!!」


私のことを本当に心配して、気にかけてくれているのなら、お前が身を呈して証明してみせろと、血のりをもう一度乳母へ投げる。

かわそうとして一歩下がった乳母が転び、白地の短パンとTシャツが真っ赤に染まった。


それと同時に、今まで触れられなかったはずの幼い私が、ドンッと体当たりしてきたのを感じる。

驚いて一瞬我に返った途端、目の前にいるのが乳母ではなくあの女だということに気がついた。


乳母の幻覚は跡形もなく消え去り、代わりにくっきりと見える幼い私が、大粒の涙を零して抱き着いている。

ゆっくりと離れた幼い私が両手を広げて後退り、女と私の間に立って首を大きく横へと振った。


乳母と女が違うとわかってももう遅い。

私の中で煮え滾る、憎しみや怒りや嫉妬は増幅するばかりで、もう正常な状態になど戻れなかった。


「は、八さん待って下さ…!なんでこんな…」

「馬鹿にしやがってッ!!!」


ここに女が現れて、私に正体を明かしてきたあの日のことを思い出す。

私たち下流階級の遊女を解放したいと言ってのけた、あの日の言葉を思い出す。


「中流階級の女がッ!恵まれて生まれてきた女がッ!クソったれ!!馬鹿にしやがって!!」

「は、ち…さ」

「番号で呼ぶなッ!!お前なんかに!お前なんかに!!誰が騙されてやるもんか!!」


幼い私を押しのけて、思い切りバチンと女の頬を叩く。

ずっとずっと言ってやりたかった、隠し続けてきた本音をこれでもかというくらい大きな声で叫び散らした。


「下流階級の遊女を逃がして働かせる?!字も書けないような私らに中流階級の仕事を?!馬鹿にしてんのかッ!!」

「それは…!」

「外へ出た私らが危険な仕事で死のうが殺されようが!お前は誰にも知られることなく罪にも問われず、やりたい放題出来るってことだろ!!お前ら上の階級は私たちの命を何だと思ってるんだ!ふざけんなッ!!」


服を脱げと言ってきた運転手。無差別に子どもを殺した警察官。

子どもを犯して遊ぼうとした監視員。暴行して殺しても構わないと思っている妓夫。


私と結婚すると嘘をついた男。私を自由にすると嘘をついた女。


もう何もかも、この世の全てが憎い。


「待って!落ち着いてください!!助けたいと思っているのは本当なんです!!」


出て行こうとする私へ、女が必死にしがみ付いてくる。

女に見えていない幼い私も同じようにしがみ付いてきて、2人揃って止まるようにと必死に諭してきた。


今まで私を虐げてきた中流階級の奴らの中でも、お前は、他とは違う。

階級は私より上だろうけど、お前は他の男たちとは違う、女だ。


「ッ…?!ぁ…な、に」


力づくで私を止めるなんてこと、あんたには出来ないんだよ。


思い切り女の後頭部を灰皿で殴打して、しがみ付いてきた腕から脱け出す。

中流階級の人間に初めて勝ったと満面の笑みで喜びながら、女の肩を押して床へと転がした。


「あんたには感謝してるんだよ?こうやって私に通行手形くれたんだもん。だからあんたはさ、あんたの馬鹿みたいな作戦で桶に入って帰んなよ。自力でそこまで歩けたらの話だけど!」


……勝ち誇る私に対して、こいつはどんな負け惜しみを言ってくるんだろう。


あの時若い私を見た乳母のように、馬鹿みたいだと罵ってくるのだろうか。

あの時ジュンイチさんを奪った中流階級の遊女のように、こんな下流階級の人間に…と蔑んでくるのだろうか。


「……たい」

「は?なに?聞こえない」


下流階級ごときがと……

そう恨みたっぷりの目で、悔しそうな目で、こちらを睨んでくるのだとばかり思っていた。



「あ…た、を……たすけ、たい。行って、は…だめ」



途切れ途切れに発された声に、慈しむように伸ばされた片腕に、声も出せず灰皿を落とす。

薬の影響でひどく黒に近い真っ赤だった視界が、霧が晴れたように澄み渡って綺麗になった。


さっきまで縋りついていた幻覚の幼い私が、胸の中に納まったような不思議な感覚がする。

それと同時に、溢れてくる涙が、一体どんな感情から出てくるものなのか……


この時の私には、わからなかった。


「ッ…どうだって良いんだ。あんたが嘘ついてるかとか、本当に私のこと助けようとしてんのかとか…そんなの、どうだって良いんだよ…」

「どう…し、て」

「……あんたに正体明かされた時からこうするつもりだった。一般女性の通行手形見せられた時から…奪ってやるって、ずっと思ってた。だから私のことなんか、助けなくていい…」


この女の不思議なものに中てられて、薬なしで正常な思考を取り戻していく。

自分の中に大事なものが戻ったと気付けても、もう遅かった。


女を傷つけて、自力で立てないほどの怪我を負わせた。

もうこれ以上は、何をやっても取り返しがつかない。


「ま…って」


この女を安全に花街から出してから…と思っていた計画は、もう自分の所為で破綻してしまっている。

だとすれば、もうここから先は私が私のためだけに計画を実行するしかない。


怪我をしている女を置いて、障子扉の方へ歩みを進める。

その瞬間、信じられないような言葉を耳にした。


「お、……かね」

「…は?」

「出られ…たら、ひつよ…う」


振り向けば、気を失いそうな表情で、必死に財布を持ち上げている女が見える。

震える手でこちらに差し出しながら、受け取ってくれと視線で訴えかけられた。


胸の中に納まっていた幼い私が、大泣きしているようにギュウギュウと心臓を締め付けてきて、苦しくて仕方ない。


女の持ち上げていた腕が畳に付きそうになった瞬間、反射的に手を滑り込ませて財布を受け取る。

彼女の気持ちを大事にしろと、大人の私に説教してきたのは…他の誰でもない、幼いはずの蕾だった。


「桶…出す、こま、ど…」

「……。」

「いまな…ら、出られ…人、いな」

「……馬鹿な奴」


溢れ出して女の顏に降り注いだ涙は、一体どちらのものだったのか。

自分の胸に問いかけることはせず、掛布団を気絶した女の身体へ乗せて全体を覆い隠す。


巻き込んでごめんなさい…と深く心の中だけで謝罪して、どうか目が覚めたら無事に逃げてと…今までの行動とは矛盾した願いを込めてその場を去った。

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