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No.61 第21話『蕾』-3



私が中流階級の人間に生まれていたら、どんな人生を歩んでいたんだろう。

上の階級に虐げられることもなく、命の危険に晒されることもなく、幸せに生きていられたんだろうか。


「ッ……はあ、はあ…」


母親や家族に愛されて、好きな人とも共に生きられて、幸せな人生を歩めたんだろうか。


「はあ…ッ、はあ…はあ……」


さっき傷つけてしまったあの子とだって、対等に話をして親交を深めて、友達になることだって出来たのかもしれない。

笑い合って励まし合って、生きていくことだって出来たのかもしれない。


「う゛ッ…う、…はあ…はあ」


でも、もう無理なんだ。

いくらそれを望んだって、下流階級に生まれてしまった時から、この世に生まれてしまった瞬間から、私にはもう、無理なんだよ。


『ごめんなさい!!!痛ッい!!ごめんなさ!!い゛ッ!!ひッ…う゛……いや゛、だ……助、け……てッ』


妓夫に髪を掴まれ、乱暴に引き摺られたあの頃のことを思い出す。

ひたすら謝っても許されることはなくて、どう自分の身を守れば良いのかわからなかった、あの頃のことを思い出す。


私はこの世に生まれ落ちた瞬間から、どす黒い闇の中で生きてきた。

真っ暗な世界で生きてきた所為で、もう明るく照らす光は、1つしか見えない。


『ちょっと……良いですか?そちらの女の子……拝見しても』

『ああ、ジュンイチさん、本日もご来店ありがとうございます』


彼なしの世界には、もうどう足掻いたって戻れないんだよ。

彼のいない人生なんて、光のない地獄と同じで、もう死んだ方がマシなんだよ。


『……大丈夫か?』

『ッ……う゛……』

『おら!!ちゃんと答えねェか!!』

『う゛ぅッ……ダイ、じょうぶ…です……ッ!』

『……。この子は今から俺が指名する』


真っ暗で、痛くて辛くて…息をするのも苦しい世界から、救ってくれたのは彼だった。

吐瀉物塗れで汚い私に躊躇なく触れて、危険な世界から身を守ってくれていたのは、ずっとずっと彼だった。


『今後も……私に許可なくこの子へ手を上げるのはやめてくれ。わかったか?』


あの時妓夫へ放ってくれた言葉で、どれだけ私の心が救われたか…きっと彼はわかっていない。

あの時知ってしまった感情で、どれだけ私が闇に戻れなくなっているのか…きっと彼は全然わかっていない。


『大丈夫だ。……大丈夫』

『う゛……うぇッ』

『落ち着け。横になれ。……そうだ。大丈夫。吐きたければここに』

『はあ……はあ、う゛…ッ…はあ……う゛えッ……ごめ、なさ』

『大丈夫だ。安心しろ……大丈夫。……何もしない』


手を出さないと言ってくれたあの時、私がどれだけ嬉しかったか。

ゆっくりと背中を撫でてくれたあの時、私がどれだけ…生きていて良かったと思えたか。


『大丈夫だ、何もしない。大丈夫だ』

『う゛え……ヒック……うう゛…』

『安心して寝なさい。約束だ。何もしない』


……きっとジュンイチさんは、わかってなんかいないんだ。

たぶんちっとも、理解してなんかいないんだ。


もうあなたなしで生きられるほど、私は強くない。

もう一度光のない真っ暗な闇で生きられるほど、私の心は…強くないんだ。


あなたがいない世界で生きるくらいなら、もう死んでしまった方が良い。

あなたに断られたその瞬間、私の人生はもう、終わってしまえばいい。


でももしも、あの時約束してくれたことを……私のことを、守ってくれるのなら……


『約束だ。昨日のように、これからは俺が君を守る』


一緒に、花街から出て、私と共に……生きて。



強く強く願いを込めながら、あの子から奪った通行手形を握り締める。

薬の副作用の所為か、多量摂取による後遺症の所為なのかはわからないけど、さほど距離を走っていないはずなのに呼吸がし辛い。


一生懸命息を吸っているにもかかわらず、酸素があまり身体に入ってこないような感覚がした。

荒れる息をなんとか抑えて、苦しさで顔を歪ませながら目的の場所へと辿り着く。


私の愛してる人がいるであろう部屋の前……あの中流階級の遊女がいる部屋の前で立ち止まり、深く深く息を吸う。

障子扉にゆっくり手を伸ばした瞬間、一際大きく胸の辺りが苦しくなった。


中からあの遊女の声と、愛しくて憎くて仕方ない彼の声が聞こえてくる。

まるで愛を伝え合っているかのような交わりの声に、一瞬扉を開けようとしていた腕から力が抜けた。


「う゛ッ…う…ヒック……う゛ぅ」


……こんなことをしてもきっと、意味なんてないんだろう。


私と共に逃げてほしい、もう一度私を愛してほしい。

そう強く願ったところで、もう彼が戻ってこないことは十分にわかっていた。


それでもこの作戦を実行しようと思ったのは、おそらくもう私自身がこの世で生きていたくないと思ったからだ。

もう光のない世界で生きていくことは辛くて仕方ない、もうこれ以上は頑張れないと、この人生を投げ出したくなったからだ。


「う゛…ジュンイチ、さ……戻っ、て…きて……」

「?!……誰かいるのか?」


私の声を聞いて、中から愛しい彼が問いかけてくる。

言葉で答える代わりに右腕へ力を込めて、勢いよく障子扉を開け放った。


「ッ…?!八、か……?」

「なっ…!あんたここで何やって…!!むぐっ」


大声を出そうとした遊女の口を、傍にいたジュンイチさんが右手で塞ぐ。

何を思ってそうしてくれたのかはわからないけど、すぐさま部屋の中へ乗り込んで遊女の両手首と口を布で縛った。


私の一連の動作を見て目を白黒させて驚いている遊女が、半裸の状態でジタバタと暴れ回る。

絶対に止められるだろうと思っていたのに、傍にいる彼は目を見開いて驚くだけで、黙って私の動作を見つめていた。


「何で…こいつの口、塞いでくれたの?」

「……こんな状態で警備を呼ばれたら、八が危ない目に合わされるかもしれないだろう」


眉を寄せて複雑そうな表情で呟いた彼に、ぐっと胸を締め付けられる。

正直彼に邪魔されながら遊女を拘束しないといけないと思っていたから、予想とは反した形で話をすることになってほっとした。


まだ私のことを愛してくれているのかもしれないと、彼の行動で希望を見いだしてしまう。

中途半端に開けている彼の浴衣と遊女の着物を目にすれば、そんなことはないとすぐにわかることなのに……


「八…どうしてここへ来た?何をするつもりなんだ?」

「……。」

「警備に見つかる前に、部屋から出て行きなさい。この遊女には他言しないよう説得してやるから…」

「……。」

「嫉妬でこんなことをしてしまったんだろう?……しっかりと話出来ずに別れを切り出した俺が悪かった。明日、もう一度お前を指名する。その時にもう一度話を……」

「私に明日なんてない」


ジュンイチさんの説得を遮って、握っていた通行手形を両腕で突き出す。

彼がしっかり確認出来るように顔の前へ見せてから、意を決して私の願いを伝えた。


「……ジュンイチさん。私と一緒に、ここから逃げてほしい」

「…?!」

「一般客用の女性通行手形は手に入れたんだ。あとは一緒に、花街から出るだけだよ。一緒に逃げて、私をもう一度愛して……うう゛……お願い…ッ、ヒック……結婚、出来なくてもいいんだ」


……ジュンイチさんと一緒に、生きていきたい。


そう一生分の願いを込めて呟いた瞬間、体中が震えだして、涙がボタボタと落ちる。

覚悟の証である奪った通行手形と私の表情を見て、ジュンイチさんが一瞬言葉を詰まらせてから片手で自分の口を覆った。


真っ直ぐと交わっていたはずの視線が急に逸らされて、勢いよく顔を俯けられる。

小刻みに震えだした彼の身体に、不安と期待が一気に押し寄せてきた。


その反応は、一体どんな感情から出てきたものなの…?


こんなことをされても迷惑だと、拒絶からくる反応?

それとも、ここまで愛されていたのかと心変わりして、感動からくる反応?


彼の表情も想いも一切わからず、困惑してただひたすら返事を待ち続ける。

布団の上で縛られたまま暴れていた遊女が、転がったまま私に向かって蹴りを入れようと大きく足を動かしてきた。


彼が遊女の足を軽く往なして、私に当たらないよう防いでくれる。

その庇ってくれた行動を目にして、ああもしかしたらと…期待が大きく膨らんでいった。


顔を俯けたまま徐に立ち上がった彼が、少し遠くにある文机へと歩みを進めた瞬間……


「……八、本当にありがとう」


震えるような声で、小さくお礼の言葉を述べられる。


背中を向けて文机の方から何かを取り出した彼が、ゆっくりこちらへ振り返って……

感極まったように、言葉を詰まらせながら言い放った。


「八…ッ、お前は……お前は本当に…」



……最高の商品だよ。



そう笑いながら言った彼の右手には、見たこともないような小型の機械が握られていた。

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