灰色だけがあった。
「…………?」
身を起こす。
どこまでもどこまでも、灰色だけがあった。
ざりり、と手のひらに触れる感触。それは、灰色の正体たる砂礫の色であった。空には灰色の雲が低く垂れこめていて、少し離れた位置に灰色の小さな瓦礫が転がっていて――それしかなかった。
首を巡らせる。
誰かに、体を揺すられたのだ。だから目を覚ました。誰が自分を起こした?
「……エレン、おにーちゃん」
すぐ横に。
黒い髪と瞳をした、幼い少女がいた。
えれん。知らない響きだった。お兄ちゃん、という呼称によって、初めて自分が男性であると気が付いた。少女よりいくらか年上らしい、ということも。
何も覚えていなかったのだ。
名前。性別。年齢。それだけではなく、つい先ほど意識が浮上するより前のことはすべてが空っぽだった。まるで、今この瞬間、世界に生れ落ちてきたかのように。
それに気が付いた途端、うすら寒いような感触が背筋を這いあがってくる。いや、這いあがるどころではない。間違えようもなく、それは濁流のように溢れる不安だった。
ここにはどうやら何もない。自分の中にも何もない。自分とはなんだ? 何を思うのが正解なのかさえも、今の自分にはひとつだって分からない。
「自分は……」
自分の手のひらを眼前に掲げる。少女が不可解そうな顔をする。
「…………誰、だ。エレン、と言う、のか?」
声は思ったよりも高く、どうやら変声期前らしい。少年、というべき歳のようだった。
「……おにーちゃん、まさか」
はっとする少女。
「ウソ、副作用……? それとも、さっきの衝撃? そんな……お、おにーちゃん、冗談だよね?」
「分からない。何も、覚えていない」
はっきりと告げる。少女はほとんど泣きそうだった。
「名前は? どこから来たのかは? ここがどこかも?」
ひとつひとつに対してかぶりを振ると、最後に震えきった声の問いが投げかけられる。
「――わたしのことも、覚えてないの……?」
ああ、と頷こうとして。
か細い火花のような感触が、脳裏をゆっくり掠めて行った。
――『――みたいなモン――――一緒――っつうか――』
――『仕方な――れのこ――お兄ちゃんって――――』
(……今のは、記憶?)
微かに痛む頭をさすりながら、口を開く。
「あんた、は……自分の、妹?」
瞬間。
少女の瞳によぎった多くの意味を、理解することはできなかったけれど。
「そう……そうだよ。わたしはアン。おにーちゃんの……エレンおにーちゃんの、妹」
「アン……」
名前を呼ぶと、少女は――アンは、目を細めて笑った。寂しげな影のある笑顔だった。雲にひとつだけ開いた穴のような切れ目から、光が差し込んできた。一瞬だけ、ふたりのいる場所が照らしあげられた。
「だいじょうぶ……大丈夫。それだけあれば、十分すぎるくらいだよね。他のことは、わたしが教えてあげられるから」
ぎゅっと、小さく柔らかな両手が自分の――エレンの、砂にまみれた右手を握る。
初めての感触、そのはずだ。けれど、不思議と心に馴染むような、今まで幾たびも同じことをしてきたかのような。そういう、心地よいデジャブがあった。
ずいぶんと長い間、アンは手を放そうとしなかった。状況の理解もできなければ何をすればいいのか、何をしたいのかすら分からないエレンもまたそれを振りほどこうとはせず、何もない荒野の上でずっとずっと佇んでいた。
ふと思い立ち、空いているもう片手でアンの頭を撫でる。体の動かし方すら忘れてしまったかのようにぎこちないその動きに、黒い瞳が揺れ動くのを見た。
それが、最初の記憶。
†
エレン。十一歳。男。
特技は気配の察知。趣味は人との会話。
一人称は『俺』。優しくここ一番で頼りになる。よく笑う。
そういう、まるで馴染まない無味乾燥な言葉の羅列を心の内で何度も何度も繰り返す。深呼吸をして。
扉を開く。
「アン、おはよう。今日はいい天気だな!」
教えられたとおりに明るく、やや粗雑に挨拶をする。
椅子に座って何やら本を読んでいたらしいアンが、ぱっと顔を跳ね上げた。
「おにーちゃん、おはよう。朝ごはん、できてるよ」
「また作ってくれたのか? あー……料理上手、だな?」
「こんなご時世だし、ありものだけどねえ」
自分も向かいの椅子に座りつつ、エレンは窓から外を見る。灰色の残骸のような街の跡地だけが広がっていた。
アンの言うご時世、というやつは、何も数か月だとか数年だとかの短い期間を指しているのではない。
何百年前かも分からないはるか昔に、世界は滅びてしまったのだという。
目覚めた荒野からこの廃墟――旧都市遺跡と呼ばれているらしい――までしか移動をしていないせいか、まったく現実味のある話だとは思えない。陳腐な設定だ、とさえ思ってしまう。これまで、娯楽用の空想文書で数百回は書かれているだろう。しかしいくら空想のような現実だとしても、エレンはここで生きるしかないのだった。
ともかく、食事である。
世界が滅ぼうとも人間のほとんどが死滅していようとも、生きている限りは食べるしかない。
机の上に置かれた、丸くて平べったい板のような何かにカラフルな――クリーム色をベースとしつつ、赤やら緑やら水色やら、果てはビビットピンクまでもが紛れ込んだ――ペーストの乗せられたそれを、ひょいと口に運んで。
「ん。ウマい」
そのややサイケデリックな見た目とは裏腹に、謎ペースト板は美味しかった。
土台の板は簡素な味わいだが、ペーストはまったりした舌触りと多様な風味を兼ね備えていて、シンプルながらも力強い良さだ。どちらか片方では味気なかったりしょっぱすぎたりしそうなものだが、配分がまた絶妙である。それに温かい。
「新メニューだからちょーっと不安だったけど、口に合ったならよかったあ」
「ほんとにウマいぜ、これ。保存食ばっかでよく作るよなぁ、いつもいつも」
「えへへ。探索とかはおにーちゃんがやってくれてるから、このくらいはね」
そう。そういう割り振りになっている。
この旧都市遺跡には、かつての栄華の残滓が未だ数多く残されている。よほど急速な滅びだったらしく、保存食を使い切る時間すらなかったらしい。
蓄えられた資源を使い切るには、人間の数が圧倒的に足りていない。目覚めてから数か月が経過する今となっても、エレンはアン以外の人間に三人ほどしか会ったことがない。
そういう場所で食料やらなんやらを探すのはエレンの担当である。兄、つまりは歳上かつ男性なのだから危険を引き受けるのは当然だろう、くらいのつもりではあったのだが、地面が割れていたり巨大なビルが倒れていたりやたら大きい犬が襲い掛かってきたりと、三日に一度は命の危機を感じる。
それでもエレンが引き受け続けている理由はふたつ。
まず、アンを危険な目に遭わせたくないこと。
なにせ、唯一覚えていたことが彼女への親愛だ。それはエレンにとって非常に大切なことであった。妹の存在だけが自分にとってのほとんど全てである、と言ってもまったく過言ではないほどに。
そして、それからもうひとつは、決して口にはしないけれど。
あんまりにも空っぽな自我しかないエレンには、生きる、という行為に執着する理由がなにひとつだってなかったのだ。
痛いのは嫌だ。寒いのも、空腹なのも。だから
けれど、こうして話したり、何かを見たり、感じたり、考えたり……そういう意識や心が真っ暗な闇に塗りつぶされて、もう二度と目覚められなくなるのだとしても、それそのものを怖いとは少しだって思えなかった。
だって、もう、世界はとっくに終わっている。
そんな場所で生きていて、いったい何になるというのか。
「どしたの、おにーちゃん」
ぼんやりと考えごとをしていたところを、目の前のアンに心配された。
表情を取り繕う。にっと口角を上げて。
「いや、何でもない」
そう、アン。自分の大切な妹。
彼女が生きている限りは、まあ、生きてもいいかもしれないな、と。
アンが生きているついで、程度の希薄な理由で、エレンは今日も死が隣りあわせにある探索へ向かうべく立ち上がるのだった。