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1-2【青の上、ふたり】

 足元に、真っ青が広がっていた。

「ぉぉお……」

 驚嘆の声とともに、エレンはこつこつとつま先で床をこづく。反動で、体が浮き上がりそうになった。

「これ、ガラスか? 砕けたりしないだろうな……?」

「心配する必要はない、と進言する」

 不安げな呟きへと、横から声が掛けられた。

 かすかに幼ささえ滲むような年若い少女の声。けれど、他の何よりも安心できる声。

「確かにガラスではあるが、旧文明の技術によって作成された特殊な強化ガラス。それが五層になっており、一番外のものは小型隕石の衝突にも耐える強度を誇っている――と、データベースに記載されているのを確認した」

 顔を向ける。淡々とした声音で説明をする彼女は、じっとエレンのことを見ていた。

 長い真っ白な髪。色素の薄い肌。整った顔立ちは万人受けしそうなものだが、生憎と表情が乏しい。よくできた人形のような容姿をしている。

 その印象は、決して間違っていない。エレンがアデル、と呼ぶ彼女の正式名称は【α-delta】――人のかたちをした、強力な生物兵器である。

 鮮烈な赤い隻眼が、ほんの僅かに細められる。

「問題ない。自分が何らかの特殊機能、例えばコンクリートを砕くことさえ可能である【加速ブースト】を使用しても、全損には至らない。……試す?」

「やめてくれ」

 可愛らしい顔で物騒なことをのたまう同行者の提案を、エレンは懇願に近い声音で断った。

「そう。……それなら、構わないが」

 つい、とアデルが下を向く。エレンもそれにつられ、また視線を足元に戻した。

 強化ガラス製の透明な床――その遥か下には、真っ青な球体が一面に広がっていた。青一色ではなくて、灰色や茶色をした陸地も点在しているし、白い雲が表面を覆っている部分もある。

「大きいんだな、地球っていうのは。こんだけ離れてるのに……」

「肯定する。今いるここ――RaSS外殻部展望フロアは、地上よりおよそ2,000キロメートル上空に位置している」

「二千キロ……! そいつは……なんつうか、めちゃくちゃ遠くに来たもんだな。あんな一瞬だったのに」

 軌道エレベーター【Bifrost】に十数時間も搭乗しているうちに、エレンはいつの間にか眠ってしまっていたらしい。到着アナウンスに起こされて寝ぼけまなこのまま外に出てみれば、広がっていたのはこの景色。

 エレンが目覚め、多くの時間を過ごし、たくさんを得て、同じくらいたくさんを失って……そういう数多の経験を積み重ねた場所なんて、もう、精々手のひら程度の範囲に収まってしまうだろう。

 エレンをエレンたらしめたその全てを置き去りにして、自分は今、空の彼方にいる。ただひとりの妹のために。

 アデルが横目でこちらを見た。

「――後悔、している?」

「まさか」

「しかし――」

 ぎゅっと、手が握られる。

「――震えている。人間のこれは、寒冷に対する防衛行動の他、恐怖の発露である」

 心優しい彼女の手を、エレンもまた握り返した。

 温かい。自然、震えが収まる。

「でも、大丈夫だ。アデルもいるしな」

「肯定する」

 こくり、どこか誇らしげな動き。

「自分はエレン、あなたの目的達成を全力で補助する。【deltaシリーズ】には膨大なデータベース、並びに高水準の各種機能が搭載されており、ゆえに怯える必要はどこにもない」

「そいつは頼もしいな」

「重ねて肯定する。必要なだけ頼るように要請」

 言葉遣いは小難しいが、そう言って胸を張る動作は年相応――いや、年齢自体は一歳だったはずなので、見た目年齢相応という様子だ。

(アデルも、随分と変わった)

 離れた場所に来たのは、何もエレンだけではない。

 ここ、RaSSはアデルにとって実家のようなものだろうけれど、ここにいるべき兵器としての彼女の姿と、今の――つまり情動豊かで、人を思いやる優しさがあって、その優しさを振りまくことを躊躇わない彼女の姿は、大きく乖離しているはずだ。

 けれど、悔いはない。

 前だけを向くと決めた。

「それに、説明を追加する――ここ、RaSSでは活動の制約が大きく緩和される」

 壁面へと向かうアデルの足取りは、やけにふわふわしている。

 なんといっても、ここは宇宙なのだ。無重力――とまではいかないものの、体感、いつもより半分ほど体が軽い。

 文字通りに軽い足取りで辿り着いた黒い壁には、なにやら赤く光るパネルがあった。そこへ、アデルは迷いなく片腕をかざす。

 音はなかった。

 ただ、ぶわりと深紅の奔流が駆け抜けた。

「――補給、完了」

 振り向いたアデルの肌の上には、先ほどまではなかった入れ墨のような赤が走っている。けれどそれはインクなどではなくて、眩いほどの輝きであった。

 エーテル、神の光。赤色をした光を伴う、非常に膨大なエネルギー。地上においては、ごくまれに旧文明遺産に内包されていることがあるだけの、とてつもなく珍しいものであった。

「……そんな、充電ポートみたいなノリで、エーテルが?」

「RaSSにおいては、地上における電力のようなもの。【炉】と呼ばれる機関にナノマシンを投与するだけで無尽蔵に精製されるため、希少性は低い――コマンド:【電撃スティング】」

「うおッ!?」

 アデルの人差し指と親指の間で、ばちり、と火花が爆ぜた。人間を気絶させるための機能であり、エレンも一度これで意識失ったことがある。

 しかし、今回は別に無理やり寝かしつけようというわけではなくて、ただエーテルを充填した万全の状態を示したかっただけのようだ。かたかた、と歯車のかみ合うような音がしたかと思うと、今度は一対の翼がアデルの背中に広がった。

 一対、と言っても、右が無機的な機械翼で左が有機的な竜翼なので、かなりちぐはぐではあるが。

「この通り、リィングラビティも問題なく作動する」

「じゃあ、食料を二日三日で食いつくしちまう心配も……いや、なんでもない」

 相変わらず無表情であるはずのアデルの視線に、なぜだかじとっと湿ったものが混じったような気がした。

 こほん、と咳払いをして話題を変える。

「それより、天――えっとRaSSのことなんだが。ガイカクブ? なんだよな、ここは。誰もいないみたいだが、天人やらレイヴンやらはどこにいるんだ?」

 足元にガラス床、時折エーテルのパネルがある壁、後ろには軌道エレベーターへ繋がる扉がある、大きな部屋だ。生活には適さなさそうである。

 こくり、アデルが頷いた。

「ここは外殻部。地上へのエントランスフロアであり、RaSS本体である内核部を飛来物……つまり、隕石やデブリなどから守る物理的な防御壁でもある」

「ふむ。内核部、ってやつとはどう違うんだ?」

「何もかも。説明内容を構築中……完了。例えば、速度。外殻部は軌道エレベーターによる地上との接続、あるいは母船の出航を容易にさせるため、地球の自転と同一の速度で回転している」

「ああ……そっか、そうじゃないとバベルが折れるのか」

「肯定する。しかし、内核部は遠心力によって疑似重力を発生させているゆえ、ここよりもさらに回転速度が速い」

「はー、遠心力でそんなことが……。さらにって、具体的に時速どんくらいなんだ?」

「計算中……計算中……回答する。およそ、時速1,800キロメートル――が、外殻部」

「ん?」

 さすが、重力を生み出すなんて規模の大きいことをやると随分速くなるんだな――と感心しかけていたエレンが首をひねる。外殻部は、内核部より遅いという話だったような気がしたのだが。

「内核部は……計算中……およそ、時速37,800キロメートル?」

「さ、さんまん……えっと、秒速だと……」

「十と二分の一キロメートルだ、と回答する」

 一秒で十キロ以上。

 エレンがてくてくとせせこましく十キロ歩いたら二時間――つまり、7,200秒かかるから、つまりその7,200倍以上の速度、ということになる。

 とんでもない、ということだけ分かった。

「……まあ、速さはいいや。別に何千でも何万でも、中にいるなら関係ねえし。それより、尋ね人がいる以上、大事なのは広さだな」

 五年前に天へと連れ去られた、エレンの妹であるアンを探し出すこと。これは、エレンにとって何より大切なこと。

 それから、アデルの妹にあたる【γ】を見つけて【黎明】なる何かを止めること。これは、二人をここまで送り出してくれたベルから託された願いごと。

 どちらを達するにしても、捜索範囲が狭いに越したことはない、のだが。

「全長はおよそ45,000キロメートル、幅が70キロメートル……と、回答する」

「……何百年かかるだろうな、探すだけで」

 眩暈がした。

 しかし、アデルは「問題ない」と首を横に振る。

「これはあくまで見かけ上の話であり、RaSS内部はその99%以上が未完成。ハリボテのようなものゆえに、人の居住できるエリアはごくごく限られている」

「未完成? 未完成なのに、天人が住んでるのか?」

「肯定する。が、詳しい経緯は自分のデータベースにも記載されていない……正確には、天人にも把握できていない。【黄昏】時の混乱によって多くの記録が消失したらしい」

 ふむ、とエレンは頷いた。

「それじゃ、その内核部に行くか。……ちなみになんだが、流民の収容場所に心当たりは?」

 アデルはふるふるとかぶりを振る。

「レイヴンは地上で活動するための兵器ゆえ、RaSSの詳細マップデータを持ち合わせていない……帰還しても、鹵獲した資源を引き渡してメンテナンスされて、残りは待機をするのみ、だから」

「……まるきり道具扱いだな」

「そうだ、と肯定。それと同じ」

 示したのは、エレンの腰に吊った銃だった。必要なときだけホルスターから出し、使い終わったら分解清掃と充電だけしてまたホルスターに戻す。

 けれど、アデルは人間だ。心のうちに、鮮烈な光を抱えている。それを、エレンは知っている。

「そろそろ、内核部に移動してもよいのではないか、と進言する。エレンがよければ、だけど」

「ああ。別に景色なんて、アンを連れ帰るときにまた見りゃいいんだしな。ここでのろのろしてて、後から急ぐ羽目になっても嫌だし」

 頷き、アデルの先導に着いて歩き始める。

「自分としても、内外連絡シャトルに人を搭乗させるのは初めての経験であり、失敗のないよう十分な時間を確保したい」

「シャトル……ええと、飛ぶ乗り物だよな。失敗って? まさか、堕ちるのか?」

「否定する。操縦は自動」

「じゃあ、どう失敗するんだよ」

 ちらり、アデルはエレンへと視線を向けた。正確には、その肉体へと。

「人間の場合、液状になる恐れがある」

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