気に食わない。
程なくして目が覚め、一番に思ったことが、それだった。
気に食わない。分かったような顔をして、分かったようなことを言って。
なにも、ウェンズだけの話ではない。
……ベルの最期の顔が焼き付いている。
穏やかで、満足そうで、もう全部やりきったのだ、みたいな態度で。終わる世界で終わることは当然なのだからと、それでもエレンを送り出せるのは幸福なことであるのだと、一人で納得しきっている。そんな顔。
エレンは何も納得してはいない。ただ、進むしかなかっただけだ。
確かに、アンの他には何もいらないと思っていた。今だって最優先はそれだ。けれどだからといって、見送ったり置いていったりばかりでそろそろ一言二言噛み付いてやらねば気が済まなくなっている。
――それは多分、自分の無力さへの苛立ちだった。
アデルに情報収集を任せたのだってそうだ。自分にもっと力があれば、危険な真似をさせなくともよかった。力がないから、力のあるアデルに全てを負わせている。仕方ない、なんて言い訳して。
「ム、エレン……」
がばりと起き上がったエレンへと、ガロウが何かを語りかけようとしてくる。その隣にウェンズの姿はない。
黙ったまま、ベッド下に押し込んでいた装備一式を取り出した。鞄は肩にかけ、銃はそれぞれ両腰に差し、バッテリー残量の確認もする。
「おい。どこへ行こうというのだ?」
「ウェンズをブン殴りにいく」
横目だけで振り向く。
「俺は謝ったのに、あいつは謝ってない」
「それは……しかし、どうやって」
「追いかけるんだよ。生きたまま運ばれてるんだ、すぐ死ぬってことはないはずだろ?」
アデルがRaSSでの流民が生きているという根拠に使った説明の流用だが、ガロウは「確かにそうやもしれん」と頷いた。
「だが、ここは牢だ。扉は一つ、それも鍵がかかっている」
「…………」
黙ったまま、エレンは部屋の端にある出入り口に向かう。
この数日で一人だけ入ってきた新入りが、なにやら喚きながら叩いてもびくともしなかった扉だ。持ち手に手をかけて力を込めても、当然開くことはない。
確固たる事実。それの前で、苛立ちなど毛ほどの役にも立たない。
やにわにエレンは光子銃を抜くと、扉目がけて発砲した。
小さな燃焼音。
ざわ、と互いに無関心だったはずの流民たちがざわつく。正規のルートでここに来た彼らは、衣服以外の装備の持ち込みが許されていない。銃など、ここにあるはずがないのだ。だから、こっそりとベッド下に隠していた。文字通りの隠し玉。
しかし、壁と同じ灰色をしたドアにはかすかに焦げたような跡がついただけで、壊れるような気配は一切ない。ただ頑丈に無慈悲に純粋に、外界と家畜小屋の間を塞いでいた。
どうしようもない。非力な流民では。
アデルなら、きっと【
仕方ない。アデルが迎えにこないのがいけない。仕方ない。待つのが仕事なのだ。どうすることもできない――
「――納得できるわけ、ないだろうが」
唸るように。
後悔していた。
ウェンズに指摘された、無関心という言葉。
なるほど、確かに昔のエレンはそうだった。アンと、彼女から与えられた自分の形だけを大切に大切に握り締めて、他へと目を向ける余裕はなかった。それだけがエレンのすべてで、それだけで己の輪郭を認識しようともがいていた。
今は違う。
エレンは、アデルと共に行くことを選んだ。他ならぬ、自分の意思で。
それは、自分でも知らなかった自分の形だ。
もっと早くに気付けていれば、あるいは、別れも悲しみも、もっと減らせたかもしれないのに。
――『俺は諦めないよ』。
ベルへと宛てたその言葉を、エレンがエレンとして生きる上での決意を、嘘にはしたくなかった。
もう、何も諦めたくはない。
「開けよ、この……!」
苛立ちまぎれに蹴りつけながら吼えると、ガロウが後ろから肩を掴んできた。
「よせ。足を痛めるだけだ!」
「クソ……だからって……ウェンズが!」
何もできない。ずっとそうだ。地上を旅してまわるのだって、キャラバンの力を借りねばどうしようもなかった。
ガロウもウェンズも、エレンを『変わった』と称した。けれどその実、あの無力な少年時代と何ひとつ変わっていない。
「エレン。落ち着け。怒りが良い結末を産むことはない」
「……なあ、ガロさん」
自分よりずっと年上の彼を振り返る。
「諦めないのは……全部を諦めたくないって思うのは、我儘すぎるのかな」
「……そうだな」
ガロは首肯する。
「力がない者が不相応な救いを求むるのは……それも、己のためではなく他者のための救いを欲するのは、傲慢でしかないだろう」
だよなあ、とエレンは小さく呻く。
「けれどな。……純粋に他者の幸福を願える貴様の精神は、たとえ傲慢であろうとも、捨てるべきだとは思えんよ」
「でも、何もできない」
「ウム。必要なのは力だ。それがなければ、あらゆる尊き祈りさえもが子供の駄々に過ぎん。だからおれは、できる限り腕力をつけてもみたが……」
遮二無二、ガロウはその強靭な腕で扉を殴りつけた。
鈍く重い音。エレンの頭蓋くらいならば陥没させられそうな一撃は、もちろん扉に傷ひとつ付けることができない。
ガロウが渇いた笑いを洩らす。
「ハ、ハ。……無力だな、おれたちは」
そこでようやく、目の前の彼がエレン以上に苛立っていることに気が付いた。
二人は、キャラバン最後の生き残り同士だったのだ。けれど、無力感に逆らう術が存在しないことを、ガロウは理解してしまっている。それはとても悲しいことだ、と思った。
(やっぱり、諦めたくない)
けれど、エレンの持つ全部を――地上で目が覚めてからの全部を思い出してみても、手段は見つかりそうにない。
(……本当に、全部か?)
ふと。
ぽっかり空いた……あるいはどろりとした暗闇に塞がれた記憶の一部が、ずきずきと痺れた。
エレンには空白がある。
生まれてからアンに呼ばれるまでの十年以上を、何ひとつさえ覚えていない。
その空白にわだかまる何かが、正体さえ見えない何かが、エレンの口を動かした。呪文のような言葉が、するりと喉からこぼれ出る。
「
『IDならびに生体チップより第二種権限を確認、受領しました。
合成音声がした。
がーっと音を立て、あっけなく、扉が開いた。