「…………え?」
「…………は?」
見間違いかと思って目を擦った。扉は開いていた。
ぎゅっと目を瞑り、ぱっと瞼を上げた。扉は開いていた。
「――おいおい!」
最初に歓声をあげたのは、エレンでもガロウでもない。扉の近くに座っていた、他の流民だった。
ここに長くいるのだろう。落ち窪んだ瞳に、高揚の光が差す。
「おうおう新入りィ、やってくれたなあ! ははっ、外だ! 外に帰れる!」
灰色の共同部屋は閉塞的で、どこか饐えた臭いがわだかまっている。扉の向こうから差し込む白く鮮烈な光さえ、荒野に湧く水のように染み渡るものだった。
流民はよろめく足取りで扉に近づき――止まった。
「は――はあ!?」
扉の横から飛び出てきたのは、大経口の光子銃。狙いは違わず扉を目指す流民へと向かっている。
「……下がれ」
「…………」
流民がよろよろと扉から五メートルほど距離を開けて、ようやく銃は照準を外した。
ガロウがゆっくりと近づく。また銃が持ち上がる。
後ずさる。銃が下がる。
エレンが近付く。
銃は、持ち上がらなかった。
「……俺だけ、ってことか?」
扉が開いたのも、エレンが唱えた呪文によるものだ。
試してみる。
「……閉じろ」
『命令を認証』
扉が閉じる。背後で流民が「ああ」と落胆の声を洩らす。
「銃をしまえ」
『
何を言っているかも分からない。あの呪文を零れさせた頭の奥の暗闇を探ろうとしてみても、今度こそただの真っ黒に塗りつぶされた空白にしか行き着かなかった。
仕方ないので、地続きの思考でなんとか質問をする。
「……俺は、そのくり……罪人タグ? っていうのがないのか」
『生体チップを認証。犯罪履歴は確認されませんでした』
なるほど、とエレンは納得する。
これは、自分が正規の流れでここに来たわけではないからだろう。ここに来る流民にはみな罪人タグなるものが付与されることによって、あの檻ロボットなしでの出入りを禁じられる。が、エレンはそれを付与されず自分の脚で来ただけなので、実は自由に出入りができたというわけだ。
「もう一回開けてくれ」
『命令を認証』
がーっと開いた扉の前で、エレンはどうするべきかと逡巡する。
外には出られる。しかし行くアテもなければ、ガロウの協力も借りられそうにない。
「ウム。ウェンズのことは、貴様に任せる他なさそうだな」
「でも……俺一人でしか行けないんだぞ? 行くアテもない」
「何を日和っている、この期に及んで」
「う……」
呆れた視線で一瞥され、言葉が詰まる。
分かっている。行くアテがなかろうとも、それが諦める理由たりえない以上は行くしかないのだ。
だから、後ろ髪を引かれている理由は別にある。
しかし、ガロウはそれを見通しているようだった。
「おれのことなら心配しなくとも、体だけは頑丈だ。なあに、貴様の妹も協力相手もウェンズもみな回収したら、最後にここの扉を開けてくれさえすればよい。そのくらいなら待てるとも」
だからここを一人抜け出そうと見捨てることにはならないのだ、と言外に滲ませる。
その心遣いが、今はじくじくとした痛みを伴う。
しかし、あるいはだからこそ、エレンは明るくにっと笑ってみせた。
「……そうだな! 任せとけって、地上に戻る船まで用意してくるさ」
「期待している。その後ならならばな、多少追手がいようとおれが殴り飛ばしてやるさ。ハ、ハ。なにせ腕力だけはあるからな!」
ぐっと力こぶを作ってみせるガロウは、確かにこの上なく心強い。
「おう。それじゃあ行ってくる」
「武運をな!」
前を向いて扉をくぐる。やはり、こちらへと銃が向けられることはなかった。
歯を食いしばるその表情は、ガロウに見られず済んだだろうか。
エレンは無力だった。
考えてみれば、地上にいたときからそうだ。変異生物と戦うのはアデル、
今だって、一応エレンは集積場で情報を集めるという役割はあったけれど、それが不可能だった以上つまりは毎日ペーストを食ってアデルの成果を待つだけの文字通り穀潰しでしかない。【労役】で同行した流民仲間を助けることも、あの家畜小屋から旧友を連れ出すことも、何一つできなかった。
あんまりにも役立たずだ。
力が要る。
武力でも、知能でも、他のなんらかでもいい。もう誰のことも見捨てないために、エレンは己のできる何かを見つけなければいけなかった。
「俺は……何者だったんだ?」
扉を明けさせた、あの呪文。
エレンが記憶を失う前の知識なことは疑いようもない。しかし、どうして地上を生きる流民であるはずの自分が、天の扉に言うことを聞かせられるというのか。
ずき、と頭が痛む。記憶の暗闇は黒々と広がるばかりで、何か形あるものを掘り出せそうな気配はひとつとしてなかった。
「思い出せれば……俺も、役に立てるかもしれない……」
それを、当面の目標にしようと決めた。
門を通り抜け、いくつかの
「地図が欲しいな……」
ぽつり、呟く。
一応、六百……なんだったか、天人に見せてもらった地図は頭に叩き込んでいる。その記憶のとおりに進めているのであれば、この先に【情報保管区画】なるところがあるはずだ。
そこならば地図だとか、アデルの向かった先だとか、流民の連れられて行く先だとかが分かるかもしれない。
日が沈みも昇りもしないので時間感覚は曖昧だが、疲労度合いからして恐らくは丸一日ほど歩き続け、ようやくその区画に辿り着いた。白ロボットを警戒して天人の居住区画は避けたため、相当に遠回りをしたのだった。
「ええと、
『の先は情報保管区画です。大気圧は正常、有害物質の検出もありません』
「開けてくれるか」
『要請を認証』
二重門を通り抜け、何が待ち受けていてもいいように油断なく銃へと手をそえる。
青い空間だった。
黒い柱がいくつもいくつも立ち並んでいるが、圧迫感は薄い。その柱の表面には絶えず澄んだ青をした光が走っていて、エレンはいつかアンに聞かされた大昔の海のことを思い出す。現代のそれのように黒っぽくて生き物ひとついない死のスープではなく、空の青を映していた母なる海のことを。
柱はデータを格納したサーバーだろう。問題は、そこからデータを抜くことができるかどうか。
一応、基本的な端末の操作はできる。コンピューターの一台でも繋いでいてくれているといいんだが、とあたりを見回すが、行けども行けどもサーバーしかない。
――『お――ぇ――――ね――――――――』
「……ん?」
何か。
掠れた、砂粒のこすれ合うような音がした、気がする。
けれども、ここは清浄なる天である。薄汚れているのは地上装備のままでいるエレンくらいなもので、砂粒どころか埃のひとつも積もりすらしていない。空気清浄の仕組みでもあるのだろう。
靴の中に砂でも入っているのかもしれない、と一度脱いでひっくり返してまた履いて、これでよしと歩き出そうとしたところで。
――『お兄――――える――――ねぇ――』
また音がして、エレンは心臓が止まりそうになった。
靴の砂を抜いたのに砂嵐の音が聞こえたから、ではない。その間に混じっている声は、何度も何度も夢に見た、焦がれ続けていた声。
『お兄ちゃ――聞こえる!? ねえ、いるんでしょ!』
「――アン!?」