本当にむかつく。
わたしは、自分の部屋にある入学式の写真の真魚の顔を黒く塗りつぶした。
「真魚がいる限り健斗くんは帰って来てくれないのよね……ママ?」
わたしの部屋で健斗くんの写真を見ながらぼんやりとしているママにそう話しかけた。ママは「そうよ」と夢見るような顔で何度も頷いた。
「私たちは惹かれあっているのに皆が邪魔するのよ。お父さんも別れてくれないし、健斗の側には真魚ちゃんもいる。だからいつまで経っても健斗と一緒になれないの」
ママが言ってた。真魚は本当は健斗くんの子どもじゃない。事情があって引き取った健斗くんの妹の子どもだって。それなのに「お父さん」なんて呼ぶのはおかしいわ。そう呼んでいいのはわたしだけなのに。
その時、下でドアが閉まる音がした。あの男が出て行ったみたい。ようやく部屋を出られる。
「ママ、お腹すいた」
「……そうね、夕ご飯を作りましょう」
わたしたちは手を繋いで階段を下りた。
……この家は広い。それなのにあの男(ママがそう呼ぶからわたしも呼んでるの)はいつも知らない女の人を連れて帰って大声で怒鳴りながらわたしたちを部屋に閉じ込める。
本当の父親でもないのに。
健斗くんが本当のお父さんと知ったのは幼稚園の頃だった。どうしてパパは一度もお遊戯会や音楽会に来てくれないのと泣いて尋ねたら、ママがこっそり教えてくれたの。
「あの男は朱里の本当のパパじゃないの。だから悲しまないでいいのよ。朱里の本当のパパの写真を見せてあげる」
そう言って見せてくれたのは遠くからでぼんやりとはしてたけど、すらりとした背の高い男の人の写真だった。その綺麗な横顔に胸がドキドキしたのを覚えてる。
「すごくイケメンね」
「そうでしょ?朱里にそっくりよ」
そっくりかどうかは分からなかったけど、あの冷たく乱暴な男が自分のパパじゃなかったことにわたしは心から安心した。
「それなのにいつになったら健斗くんと一緒に暮らせるの?リコンできないなら真魚に直接わたしのパパを返してって言うしかないじゃない」
私はママに聞こえないよう小さい声で呟く。
毎日毎日あの男の顔色を見ながら暮らすなんてもううんざりだ。
けれど最近、真魚に近づこうとすると先生がこっちを見るようになった。だから睨むくらいしかできないんだよね……そうだ!真魚は学校が終わってからあずかりの家に行くようになった。今ならまだ校庭で遊んでるかも。
直接真魚に会って健斗くんをちょうだいって言ってみよう。
あ、それより真魚がいなくなったら健斗くんはウチに来てくれるんじゃないかな?
わたしはワクワクしながらママに気付かれないようにこっそりと家を出て、学校に向かった。
※※※※※※※※
「動けなくなってる猫ってどこにいるの?」
真魚は心細い顔で朱里を見上げる。
学校で鉄棒をしていたら、木の陰から朱里に手招きされた。そして「猫が動けなくなっている。一緒に助けて欲しい」と言われて学校の裏山までついてきたのだ。
だが、普段は立ち入りが禁止されている裏山を、どんどん奥まで入っていく朱里に、真魚はおかしいと感じ、意を決して聞いたのだ。
「いるわよ動けなくなっているものが。まあ動けなくなるのはこれからなんだけど」
「これから?どういう意味?」
「動けなくなるのは真魚、あんたよ!」
「……あっ!?」
その言葉と同時に、朱里は真魚の肩を思い切り突き飛ばした。しょせん子どもの力ではあるが、真魚が立っていたのは崖に面した細い獣道だ。真魚はほとんど垂直の山肌を滑るように転がり落ちてしまった。
「真魚?」
呼びかけてみるが返事はない。助けが来る可能性もほとんどない場所だ。行方不明としていつかみんなに忘れられていくだろう。
「これで健斗くん……あ、もうパパって呼ばなきゃね。パパはママと結婚して家を出られる」
朱里は暗い谷底を一瞥して元来た道を辿った。
※※※※※※※※※※
「真魚がいなくなった?!」
浩之は驚いた顔で俺を見た。
既に通報済みなので、周りにはパトカーが何台も止まっていて、警察官が忙しく動き回っている。
「学校で先生と話してる間に……すまん!」
「とにかく、心当たりを探そう」
ジャケットとカバンを玄関に投げ捨てて、走り出す浩之の後に、俺も続いた。
「一人でいたのか?」
「友達が一緒だったんだけど途中から別の遊びを始めたから行き先は分からないって。真魚のことは今先生が校内の監視カメラを確認してくれてるから、何かわかれば連絡がくることになってる」
「そうか……。じゃあいつも行ってた公園から探そう」
「……ごめん浩之、俺が目を離したばっかりに」
「僕だって学校内で友達も一緒なら油断した。健斗のせいじゃない。今はとにかく真魚を探そう」
「ああ……」
たまたま他の友達に会って一緒にどこかに遊びに行ったのかもしれない。普段そんなことはしないけどそうであってくれと祈った。……念のために学校から佐久間さんにも連絡を取ってくれたが、繋がらなかったことが余計に不安を煽る。
「はぁはぁ……ここにもいないっ!」
息を切らせながら心当たりの場所をしらみつぶしに回ったが、真魚だけではなく遊んでいる子供達もいない。時間は既に七時を過ぎていた。
「佐久間さんの家に行こう」
「……はっきりとした証拠がないのに生徒の住所を教えられないって言われたんだ」
「そんな場合じゃないだろ!!!」
浩之は震えながら怒鳴る。それが恐怖からなのか、怒りなのか。いやどっちもだ。
「そうだな。じゃあ学校へ行ってもう一度校長に直談判しよう」
「それより教育委員会……いや弁護士か」
「……そうだな。打てる手はすべて打ちたい。当麻さんに力を借りられないかな」
その時、俺の携帯に先生からの着信があった。俺は慌てて応答ボタンをタップする。
「監視カメラに真魚ちゃんと朱里ちゃんが映ってました!事情を聴くために今から佐久間さんの家に向かいます!今から言う住所に一緒に来てください!」
俺は住所を聞きとるが早いか、タクシーを捕まえて浩之と一緒に現地に急いだ。
「え?健斗?先生たちも……どうしたの?」
佐久間さんは、こちらが拍子抜けするくらい普通の態度で俺たちを迎えた。その表情に苛立ちを感じつつ、それを抑えて俺は彼女に事情を話す。
「朱里はさっき出かけたわ。まだ帰ってないけど真魚ちゃんと一緒ならどこかで遊んでるのかしら」
それならいいが、今の二人の関係性でその可能性は薄い。
「朱里ちゃんに連絡は取れませんか」
「キッズ携帯は置いて行ってしまったの……すぐ帰ってくると思うのでどうぞ中でお茶でも飲んで」
嬉しそうに俺の手を取り、中に招き入れようとする彼女に驚いた俺は、思わず思い切り突き飛ばしてしまった。
「あ……すみません、ろくに知らない人に失礼を。それより今はそれどころじゃないんです。朱里ちゃんが行きそうな場所を教えてください!」
「……ろくに……知らない人?」
俺の必死の言葉も耳に入らないのか、佐久間さんは玄関に座り込んだまま、呆然と俺を見る。
「俺、変なこと言いましたか?ろくに知らない人……ですよね?」
そこまで言って、俺ははっと思い出した。そうだ、この人の中では俺は朱里ちゃんの父親だったっけ。いやでもそれどころじゃない!