前皇后と一緒に買い物に出かけていた途中、馬車の事故が起きて……。
立ち往生することになったアリスと前皇后が、2人を守る帝国の騎士が事故の対処のため、その場から少し離れた時に隙を突いて、母上が皇后になることを推進していた一般市民に襲われて、拉致されてしまった事件。
犯人は、何人かの市民の共謀で、アリスが救出されたのと同時に、前皇后が死んでしまっているのを見た帝国の騎士に、逃げようとしていたところを捕まり、問答無用でその場で斬り殺されたから……。
どうして事件を起こしたのかまでの詳しい内容は犯人によって語られることはなかった、みたいだ。
資料を読む限り、馬車の事故に関しては犯人の策略などではなく偶然起きたのを、今が好機と見て、何人かの市民が共謀して犯人がアリスと前皇后を拉致したと見られている。
そのことは、馬車が事故に遭った時に『この国から、悪魔を追い出せ』みたいな、差別的な発言を繰り返して……。
扇動して、近くにいた市民に協力を求めたリーダー的な存在がいたという他の市民の証言が取れたことと、そのあと、かなりお粗末で杜撰な犯行だったことからも……。
【この事件が計画的な物では無く、恐らく突発的な犯行だったのだろう】
ということが綴られていた。
犯人達は、魔女狩り信仰派の、昼間から酒を飲んで酔っ払っていた質の悪い集団グループでもあったらしい。
そんな輩みたいな奴が、母上の名前を出して、自分たちがまるで正義のように犯行を犯したというのも、迷惑極まりない話だが……。
資料を読み進めていくにつれ、既に解決しているとはいえ、後味の悪さのようなものが俺の中に湧いてくる。
騎士に救出された時、アリスは、アイツは、騎士の呼びかけに答えることもなく、事切れた母親の前でただ何をする訳でもなく無表情だったそう、だ。
そのあと、直ぐに倒れて、何日間も目を覚まさなかったことが記されていた。
【アイツのこと、今まで見ようともせず毛嫌いしていたし。
前皇后についても思うことは沢山ある。……だけどっ、これは、流石に、なんていうか……】
あらましについては多少なりとも知っていたとはいえ。
アリスのこの事件を読み進めていくうちに、うっ、と言う気持ちの悪さのようなものだけが押し寄せてくる。
「ギゼル様?」
唐突に、散らばった本を片付けるのを手伝ってくれていた騎士が俺に声をかけてきてそこで、ハッとする。
パッと顔を上げた俺を見て……。
「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか……? あっ、……あー、それ、皇女様の事件、ですか」
心配するような声をかけられたあとで、俺の手元にあった本に視線を移して色々と察したのだろう。
目の前の騎士からは、どう声をかければいいのか分からないというような、困ったように苦笑するような乾いた笑みみたいなものが、溢れ落ちるのが見えた。
「……ここまで、酷かったとは、知らなかった」
【知らなかったんじゃない、見ようともしてこなかっただけだろう?】
頭の中で、誰かが俺に囁いてくる幻聴のようなものを聞きながら……。
俺は目の前の騎士に向かって、辛うじて、そう言葉に出す。
声はほんの少し、震えてしまっていたと、思う。
俺がアイツのことを毛嫌いしていることは、この騎士も勿論、知っている筈だけど。
その事には特に言及するようなこともなく、困ったような表情を浮かべつつ。
「……最近になって皇女様が、以前のように我が儘も癇癪も言われなくなったという噂があるのも、あの事件が皇女様にかなり影響しているのかもしれませんね。
……そのっ、俺の親しい騎士が皇女様や皇后様の救出に向かった奴なんですが、現場は皇后様の血で濡れた惨状だったそうで……。
唯一の救いは皇后様が、皇女様を守るように倒れていたことでしょうか」
『……もしかしたら、その事で、皇女様は更に深い傷を負ったのかもしれませんし、一概に“救い”などと言っていいものか分かりませんが』
と、どこまで言っていいものなのか探りながらも、言われたその一言にびっくりして。
「前皇后が、アイツのことを守るように倒れていた……?」
と問いかければ。
「えぇ。……皇女様に寄りかかるように倒れていたそうです。
前皇后様が皇女様にあまり興味を持たれていないという噂は前々からありましたが。
恐らく最期の瞬間だけは、皇女様を守ったのではないかと、ほんの少し俺達騎士の間ではその噂が広まってまして」
と、そう言われて、俺は少し複雑な気持ちになりながら、もう一度目の前の資料に視線を落とした。
前皇后である、アリスの母親は……。
公爵家という由緒正しい家柄に生まれて、生まれる前から女の子が生まれたなら、と。
元々、父上の婚約者であることが決まっていた人だ。
けれど、赤髪を持って生まれてきたせいもあってか、身体が弱いということを免罪符のようにして、皇后宮に殆ど籠もりっきりで……。
当然、そんな状況だから皇后としての役目も殆どこなすこともなく。
事実上、母上に皇后としての役目も役割も全て任せきっていて……。
そのくせ、皇族としての私財に関しては湯水のように使っていたという、俺からみてもとてもじゃないけど許容できるような人間ではない。
苦労してきた母上のことも見てきたからか、何て言うかいつも美味しいところだけ取ってるように感じて、今でもアリスと同じで俺の前皇后に対する印象は良くないままだ。
【……だけど、最期の瞬間、アリスのこと、守ろうとしたのか】
今、目の前にいる騎士からそうだったんじゃないかっていう憶測でしか聞いていないから、本当のことは俺には分からないが。
そのことに対して、複雑な思いばかりが広がってくる。
【もしも、兄上や、俺にとって身近な人間が自分の目の前で死んでしまったら……】
ということを考えた時に、突き抜けるような痛みみたいなものが湧いてきた。
そうして、あの事件が起きたあと、アイツの様子を見に行った時のことを思い出して。
今さらながらに、自分が本当に最低なことをしたんじゃないかと苦い思いばかりが頭を過ってくる。
俺はあの時、皇后になった母上のことを思うばかりで。
あの事件以降、随分静かで何も言ってこないアイツが、今後どう動くのか読み取ることが出来なかったから。
この先、皇后になった母上のことを、アイツがそれを嫌がって喚いたり、我が儘や癇癪など起こされては困るという気持ちで、先に釘を刺しておこうという事しか考えられていなかった。
……事件が起きて辛い思いをしていたかもしれないあいつのことを気遣うことも何もすることもなく。
あまつさえ、見た目じゃ分からない、精神的な体調不良を抱えていたのかもしれないのに。
【医者がまだ体調が思わしくないと言っていたから来てみたが、随分元気そうだな?】
と、言った記憶がある。
それも、かなり刺々しく……。
それに対して、わざわざベッドから出て、立ち上がって。
仰々しく俺に対して挨拶したあとで……。
【テレーゼ様が皇后になられたと聞きました。
母は死に、これから先継承権を持った男の皇族はよほどの事がない限り生まれないでしょう】
【名実ともに、皇女とは名ばかりになったのです。どうぞ、お笑いに】
【母が死んだことで、私も死ぬべきだと嘆願する貴族は後を絶たぬでしょう】
淡々と喋るアイツは……。
あの時、一体どういう気持ちでその言葉を俺に向けて喋っていたのだろう。
怒る訳でもなく、ただ淡々と。
事実を事実としてありのまま、受け入れているかのように。
思えば、精神的な面でいったら、医者の言うように確かに体調が思わしくないという意見は正しかったのだろう。
【アイツは今、その時の件が尾を引いているのか父上から許可を貰って古の森で療養しているらしいしな】
どこから聞きつけたのか、侍女たちが噂をしていたことを思い出した俺は、見た目じゃ分からない症状がずっと続いているのか、と頭の中で考え込む。
俺とアイツは歳が近いこともあるのか、顔を見合わせれば嫌味を言う俺に。
アイツもそれに対して、同じような言葉を返してきて、喧嘩になることも多かった。
だから、考えたら、喧嘩の切っ掛けはいつも俺からだった気がする……。
【オイ、この間、お前に仕えている侍女から聞いたけど、お前また宝石が盗まれたとか嘘言って困らせたらしいなっ!? そろそろ我が儘放題言って、人を困らせるの止めろよ!】
【……っ!
本当に盗まれたんですっ!
第一、私が誰に何を言おうとお兄さまには関係のないことでしょうっ? 迷惑なので話しかけてこないで下さい】
【はぁっ!?
まだそんなこと言ってるのかっ!
お前には皇族としての誇りとかないのかよっ!
皇族としてお前みたいな奴が一人でもいると俺等の品格まで下がるんだよっ!】
【~~ッッ!】
俺が言葉に出して何かを言えば、アイツもそれに対して嫌そうな表情を浮かべて、それに応戦してくる。
その後、いつも決まって最後には、ぼろぼろと泣かせて……。
【そうやって泣けば、何でも許されると思いやがって】
って……。
ずっと、それが腹立たしいと思っていたし。
アイツが皇族の一員として、ちゃんと出来ていないことは事実だったから、色々な面で俺自身は絶対的に正しくて、アイツは間違っていると思ってきた。
でも、最近になって。
――本当は、薄々頭の中では気付いていた部分もある。
誰も何も言わないし、その話題が俺たちの間で直接出ることはないけれど、父上がアイツに関しての郵便を検閲していた人間を罰したこと。
宝石が盗まれたとか、そういう事も含めて……。
【もしかしたら、アイツの言っていたことは、嘘じゃ無かったのかもしれないって】
誰が正しくて、誰が嘘を言っていたのか。
俺はずっと、見ない振りをしてきただけ、だ。
――だって、その方が都合が良かったから……。
もしも、アイツが嘘を言っていた訳じゃなくて、それを信じてやれなかったのが俺だったのならば、俺の正義はたちまち悪に変わってしまう。
だから、今さらその事に気付きかけても……。
俺にとってアリスという存在は悪でなければいけなかったんだ。
アイツは、我が儘で、癇癪ばかりの人間であらなければいけない。
アイツにずっと、そのレッテルを貼り続けていたのは、俺自身だ。
そうじゃなきゃ、今までアイツに浴びせてきた事も、俺がしてきたことも……。
――途端に、正当性を失ってしまう。
いつぞや、ルーカス殿に言われた一言が今になって頭の中を過った。
【……いや、お姫様は何も悪くないよ。
そもそも、おにいさんを護衛騎士にした所で、それ自体は陛下が認めている訳だからねぇ……。
ねぇ、ギゼル様? もうちょっと、自分の身の振り方考えた方がいいと思うよ。
俺の言ってること、言いたいことが何なのか、分かるよね?】
ルーカス殿は幼い頃から兄上と親しくしている人だ。
だから、俺とも当然、俺が幼い頃から交流がある。
【俺は、”努力型人間”だからさ。ギゼル様の気持ちも多少は分かると思うよ。
本当に殿下って、何でも出来るチート人間だよなぁ……。
それなのに全然、手なんか緩めてくれないしさァっ!】
昔、俺の気持ちを察して、あの人が俺にそう言ってくれた
ことがあったけど。
その言葉の通り、ルーカス殿が幼い頃から努力を欠かさない人だということは俺も知っている。
だから、俺は俺の方が立場が上であるけれど、あの人には尊敬の意味も込めて、殿と敬称をつけて呼ばせて貰ってる。
【あーあ、やだやだっ!
殿下と一緒にいると、俺なんかほんと、霞んじゃうよっ!】
と、笑いながら冗談交じりに言っていたけど、ルーカス殿が既に兄上の役にも立つくらいの仕事ぶりを発揮しているのは分かってるし。
兄上と幼なじみだからといって、簡単に兄上の仕事を手伝うようなことが許される訳じゃない。
ルーカス殿だからこそ、許されている立ち位置。
というのを周囲に分からせるくらいには、努力してその地位を掴みとっている人だ。
多分、間近で客観的に見て、俺の事情を一番理解して汲み取ってくれているのは、ルーカス殿だと思う。
兄上のことだけじゃなく、
俺のことを度々気にかけてくれては、
【お姫様が無知なんじゃない。
何も言わないことを選んだのは自分たちだってことを忘れた訳じゃァ、ないよね?
それをお姫様が悪いんだって責任転嫁してるからこうなってるってこと。
ギゼル様だって、本当は、その頭で考えることが出来ない訳じゃないんだから、分かってるでしょ?】
そのルーカス殿に図書館で言われた、あの言葉……。
あの時は、その言葉を受け入れることがどうしても出来なかったけど。
今ならあの言葉が、ただアリスに対して兄上の瞳のことを言わなかった事のみに対してかかっている言葉じゃなかったのがよく分かる。
【アリスが悪いんだって、ずっと責任転嫁してたんだ】
――俺自身が、悪者になりたくなかった、から
「ギゼル様……?」
どんよりと一気に沈んだ表情を見せたのが悪かったのか、不意に声がかかって俺は顔を上げた。
見れば、心配そうな顔をして俺の事を見てくる騎士の姿が見えて。
俺は『何でもない』と取り繕った声を上げたあと、アリスの誘拐事件に関する記事が書かれた本を閉じ……。
本のラベルを見ながら区分けするのを再開させる。
ごちゃごちゃと今、色々と考えた所でどうしようも出来ない。
だけど、もしも俺の見てきた真実が全く違うものだったのだとしたら。
今度はちゃんと、自分の目で見て、何が嘘で何が確かな物なのか、確かめなきゃいけないだろう。
誰かの言葉を聞いて、直ぐにそれを鵜呑みにするんじゃなくて。
俺は俺自身の目で見た物、聞いたことを、ちゃんと見極めていけるだけの目も耳も持ってる。
ルーカス殿の言う通り、それを考えるだけの頭も……。
【それに、こんなんじゃ、アズに顔向け出来ないしなっ!】
次にアズに会うときにはアイツのようにとまではいかなくても、出来るだけ清い状態で会いたいと思うのは……。
俺の汚い部分をアイツには見せたくないっていうのもあるし、何よりアイツには嫌われたくない。
内心でそう思いながら
【まずは最近のアリスの事を調べて……、それで……】
そこまで考えて、俺は唇を小さく噛みしめた。
やっぱり、どうしても直ぐに素直にはなれそうもないけど。
ほんの少しの葛藤のあと……。
【もしもそれで、俺が悪かったならアイツに謝ろう】
と、俺は心に決める。
そうして、俺は一先ずアリスのことを頭から追いやったあと、アズの手がかりを探すために、残りの時間を使うことにした。