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第37話 着信

ピリリリリリリリ

 ピリリリリリリリ

  ピリリリリリリリ


 不意に聞こえてきた甲高い音に、犬飼はビクリと身体を震わせてキクを抱きしめる腕の力を強くした。完全に無意識で、より近くなった距離に恥ずかしさを誤魔化すように周囲も見回してしまう。

 何も居ないのはわかっているのに、突然自分たちの間に入り込んできた音に驚かされたのが悔しくて、その音がなにかの打開策になるのではないかと希望を抱いてしまって。

「携帯……?」

「で、でもこんな着信音設定してないっ」

 キクも音に気付いたのか、両手を床に奪われながらもぼんやりと自分の制服のポケットに入れている携帯に視線を向ける。

 この甲高い音が携帯の着信音ではないかとは、犬飼とてすぐに気付いていた。しかし犬飼もキクも基本的に通話には無料の通話アプリを使っていてその着信音はこんな音ではないし、本体の通話機能を使って着信させたとしてもやはりこんな古めかしい音はしない。

 こういう音がよく聞こえていたのは、子どもが持っているキッズ携帯だとかお年寄向けのらくらくホンだとか、そういうもっと機能が制限されている方の携帯なんじゃないかと思う。

 そんなものの音が何故今ここでするのだろうか。

 外を見ても黒いばかりで、廊下にも徐々にその黒さが滲み出てきているかのように段々と空間が暗くなってきているような錯覚さえ感じる。

「……とって。ポケット」

「えっ」

「身体にはさわんないで。携帯だけ……ストラップ出てるでしょ」

「で、でも」

「身体に触ったらこの黒いのが移るかもしれない、けど、早くっ」

 しばしの困惑の後に、意を決したようにキクが犬飼を見上げた。

 キクの制服のポケットからは、確かに犬飼が携帯につけているものと同じシリーズの携帯ストラップがぶら下がっている。

 確かペットボトルの紅茶かなにかのキャンペーンで一本にひとつ付いていたやつだ。今時珍しいブラインド商品だったそのシーリズの中でキクは猫を欲しがっていたけれどハズレて犬が出てしまって、その犬を犬飼に押し付けてきたものだ。

 だから今は、犬飼が買った紅茶についていた猫と、キクが犬飼に押し付けた犬のストラップがそれぞれの携帯についている。他には何も付けていないから一際目立つけれど、ただのオマケだから段々と模様が掠れてきてしまっている、それ。

 犬飼は何故か少しばかり緊張しながら、三毛猫のストラップがついた赤とオレンジと白の三色の糸で作られたストラップを恐る恐る、引っ張る。

 こんな密着している状況で制服のポケットから物を引っ張り出すなんて、どうにも緊張してしまっていけない。

 しかしそのままストラップを引っ張って抜き出すと、画面に「猫宮千百合」と書かれている事に気がついた。知らない名前だ。千百合があのマスターの娘の千百合の事だとしても、猫宮という名前は知らない。

 それに、そもそも、千百合はキクの携帯の番号なんか知らないはずだ。

 キクの携帯に入っている連絡先は、担任と、犬飼と、犬飼の母と、マスターと、鷹羽のものだけのはず。それなのにこれは本当に、千百合なのだろうか?

 もしそうなのだとして、なんで登録していないはずの千百合からの着信に名前が表示されているのだろうか?


ケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャ


 どうしよう、とキクと視線を合わせた時、廊下の向こうからジリジリと距離を詰めていた木の人形が凄い勢いで両手足を振り回し始めた。

 少し動くたびに関節が甲高い音をたて、その音が酷く耳障りだ。

 甲高い着信音と、あの木の人形が笑っているかのような動く音。どちらが深いかと言われて場、当然ながらあの人形の方だ。

「出てっ」

「お前の携帯だぞっ」

「今出れんでしょーがっ。早く出て、アイツが来るっ!」

「くっそ……!」

 もしもし、なんて最初に言ってしまうのは、親から躾けられたからだろうか。

 今時は携帯で「はい、犬飼です」なんて名前を言って出ない。寧ろ、安全のためには名前を名乗ってはいけない、なんて学校の先生に教わったような気がする。

 でも小学生の頃には両親と一緒にドキドキしながら祖父母からの連絡を待って、家電のディスプレイに祖父母の名前が表示されたら「はい! いぬかいです!」なんて何度も練習をしたものだった。

 申します、申します。もしもしの語源は、そんな言葉だと言う。

 こちらから用件を申します。聞いて下さい。そんな言葉。

『にゃぁぁん』

「……はっ?」

『にゃうーー』

「……猫?」

『んにゃぁあぁぁん』

 緊張しながら通話ボタンをタップして、同時にスピーカーモードにした犬飼は、しかしそこから聞こえてきた思わぬ声にぽかんとしてしまった。

 猫の声だ。それも一匹ではなく、複数匹の声だろうとわかる、それぞれ違う猫の声。

 なんでこんなものが携帯から聞こえてくるのだろうか。もしかしてマスターあたりが携帯を置きっぱなしにしてしまったのだろうか? いや、それなら表示された文字が「猫宮千百合」なのはおかしい。

 この猫の声は、一体なんなんだ?

『もうします、もうします』

「……はっ」

『おにいさんは、おかしなものをみてしまったひと?』

 携帯からの声を聞きながら、木の人形の方を見る。廊下の向こうに居たはずの木の人形は、ケキャケキャと笑いながらさっきよりもこちらに近づいて来ているのがわかった。

 あとどのくらいか、なんていうのはわからない。だって、パッと見で距離を測る技術なんていうのは犬飼にはない。

 それに、多分、この廊下はいつもの学校の廊下よりもずっと、長い。

 はぁはぁと緊張で乱れていく呼吸を何度も飲み込みながら、犬飼は大きく大きく「はい!」と答えた。

 すると携帯の向こうからまた幾つかの猫の声がして

『もうします、もうします』

 と、子供の声がした。

『おにいさんは、とってもつかれているひと?』

「っ、はいっ!」

『もうします、もうします』

 おかしなものを見てしまった人。

 とても疲れている人。

 この段階で、犬飼はあることにハッと気付いていた。

 これは、この問いかけは、【黒猫茶屋】に到るために、黒猫たちに案内してもらうために必要な4つの条件のうちの2つだ。

 ということは、次は……

『おにいさんは、おいつめられてしまっているひと?』

「はいっ!!」

 携帯を握りしめながら、キクの身体を抱き寄せる。

 キクも諦めたのか、それとも犬飼の会話を聞いているからかは知らないが身体を預けてくれて、鼻の奥がツンと痛くなった。

 キクは弱音を吐かない子だ。自分の中に溜め込んで溜め込んで、自分だけで解決策を見出して解決して、人の手なんか借りてくれない。犬飼は子供の頃何度も、全てが終わってからキクの変化を知ってきた。

 何度教えてくれと言っても聞いてくれない。

 お前になんか言うわけがないでしょ、なんて、そう言って、キクは犬飼の前から離れていった。高校で再会するまでその存在を忘れてしまうくらいに、徹底的に。

 でも今はダメだ。絶対にダメだ。

 キクが今こうして頼ってきてくれているのなら――壁に貼り付き、天井を移動して床に落ち、ネジ曲がった手足をそのままに甲高い音をたてて走ってくるあの木の人形をキクが畏れるのならば。

 それならば、盾になるくらいは犬飼にだって出来るのだ。そのために鍛えた身体なんだから。

「申します! 申します!!」

 キクの頭を抱き込んで、そのせいで少し遠くなった携帯にも聞こえるように今度は自分から声を張り上げる。

 だって、【黒猫茶屋】に到るためにある問答のうちの最後のひとつは、向こうからのアプローチではないのだ。

 自分が困っているのだとはっきりと知らせなければ、ならないのだ。

「キクを、助けて下さい!!!!」

 絶対に譲れない事を、犬飼がずっと抱え込んでいた願いをはっきりと、伝えないといけないのだ。


にゃあぁぁん……


 どこからともなく聞こえてきた猫の声と、犬飼の叫びと。

 どちらが先かなんていうのは、キクのはさっぱりわからなかった。

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