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第38話 救援

 ゴリゴリと音をたてて走ってくる木の人形は、一直線にこちらに向かっていた。

 間違いなくキクを狙っているその動きに、犬飼はキクを抱きしめている形から木の人形に背中を向けて覆い隠す格好へと急いで切り替えた。

「いぬかいっ……!」

 ただ抱きしめているだけだと、腕とか足とか、どうしてもあいてしまう部分が出来る。しかしこうやって覆いかぶさるようにすれば、最悪キクだって背中だけのダメージで済む可能性が高い、はずだ。

 背中を向けている犬飼の方は背中と後頭部に甚大なダメージを受けるかもしれないが、それでもいい。今まで身体を鍛えてきたのも、肩幅が広くなったとからかわれるほどに水泳に没頭してきたのも、こういう時に守れるようになりたいと思ったからなのだから。

 自分がキクより強いとか、そんな事は思ってはいない。

 何を言われても落ち込まずにスルーして、何かあっても冷静に対処できるキクの方がよっぽど優秀で強い人だ。

 でも、それでも。身体を張って守る事に関しては、絶対に犬飼の方が強い。これは、絶対にだ。

 廊下を、まるで角材を引きずりながら歩いているような音がする。何かがガタガタと音を立てて引っ張られているような、ガラスにぶつけているような、何度も床に打ち付けているような音。

 今背後で何が起きているのかは流石にもう分からないけれど、この音の源は絶対にあの木の人形だ。頭を殴られでもしたら絶対に痛いだろうなと覚悟を決める。

 携帯からは、もう声はしない。

 猫の声も、さっきちょっと聞こえただけでもう聞こえなくなってしまった。

 アレが何だったのか、何を意味するものだったのかももうどうでもいい。

 ただ、助けて欲しい。自分がどうしようもなくなったらでいいから、キクだけでもここから助けてあげてほしい。

 それだけでいいからと、それが自分の望みなのだと、抱きしめる腕の力を強くした。


「だめだよー」


 ッカァーーンッ、という物凄く小気味の良い音と少女の声が聞こえたのは、犬飼が全身に力を入れた、その瞬間だった。

 一体何が起きたのか。抱き締められて前を見る事の出来ないキクも、木の人形に背を向けている犬飼にもさっぱりわからない。わかるのは、何か硬いものと木製のものがぶつかったような……

 言ってしまえば、木製バットで硬球を打ち返したような、そんな耳馴染みのある音が聞こえたことくらいだ。

 そんな音がこの空間で聞こえるだなんて、まさか思うわけがない。

 しかしさっきよりも遠い場所に硬いものが落ちていく音がしてやっと、犬飼は顔を上げた。

 さっきまで天井だったり壁だったり、廊下をそのまま走ったりしてきていた木の人形がずっと遠くに落ちている。不気味なのは、頭の部分だろうか、楕円形の木の何かが床を転がってくるくる回っている事だ。

 恐らくは何か硬いものでぶん殴られたのだろう楕円形の部位はど真ん中にヒビが入っていて、その隙間からドロドロとした黒い液体が流れ出しているのも酷く、とても、物凄く、不気味だ。

 犬飼の腕の隙間からソレを見たのか、キクが頭を犬飼の肩に押し付ける。その身体は少しばかり、震えていた。

「んー、しなないねぇー」

「あの……きみは、千百合ちゃん、だよね?」

「うん! みんながおそいからね、ちゆり、じぶんできたの!」

 ぎゅっとキクの身体を抱き締めながら明らかに不釣り合いな金属バットを持っている少女に、ようやっと視線を向ける。

 少女はマスターの娘の千百合で間違いがなくって、普通に話しかけてみれば彼女も普通に満面の笑顔で返事をするものだから彼女が「自分で来た」という言葉の意味が一瞬わからなくなってしまう。

 自分で来るとは、どういう事なのだろうか。

 あの【黒猫茶屋】から学校までは電車移動が必要な距離だし、そんな距離を千百合一人で移動したのならば大問題だ。荷物は膨れたポシェットとあの金属バットだけのようだし、お財布とか……携帯は持っているのだろうか。

 いやそれよりも、この謎の空間に「自分で来た」という意味がさっぱりわからない。ここは人間が出入り出来るような場所なのだろうか? しかもピンポイントで自分たちが居る場所に入ってこれるものなのだろうか?

 ていうかあの金属バットはなんなんだ……?

「どうやって、ここまで来たの?」

「うーんとね……がんばった!」

「そっか……頑張ったのか……」

「あのね、あのね、ほんとはだめだってゆわれてるんだけどね」

 でもね、ちゆりはとくいなんだよ!

 にっこりと笑う少女の愛らしさといったら、【黒猫茶屋】で世話になっている時に何度も見た笑顔そのものだ。

 しかし得意という言葉の意味がわからない。というか、本当に彼女についてはわからないことだらけだ。きっと彼女は何か、なんか、鷹羽のように「普通ではない部分」があって、マスターがそれを「ダメ」と言っているのだろうなという事だけは察する事は出来る。

 出来るが、それだけだ。それが何で? とか、どうやって? とか、そういうのはもうさっぱりわからない。

 ていうか本当にその金属バットはなんなんだ。

「あのね、あのね、キクちゃん。のろいにさわっちゃったんだよね?」

「呪い……って、あの、木の人形?」

「キクちゃんのおなまえかいてあるやつ!」

「あぁ、あったな。やっぱアレダメな人形だったんだ」

「何であんなのがあったんだろう……」

「うーんとね、うーんとねぇ……あれはねぇ、きらいなひとをきえちゃえー! ってするやつなの」

「消……」

 少女の無邪気な言葉に、犬飼の背筋にゾッと冷たいものが走る。

 なんとなく、本当になんとなくそういう類のものであろうとは思っていたけれど、いざハッキリと言われるとやはり意味が分からなくて恐ろしさしかない。

 なんでそんな、消えてしまえとか、死んでしまえとか、そんな事を考える事が出来るのだろうか。相手は人間だ。一人の人間にそんなに深い憎悪の感情を抱くという気持ちが、犬飼にはさっぱりわからなかった。

 しかしきっとそういう感情を抱く人間が居るのだろうという事も、少しはわかっている。

 例えば犯罪被害者なんかは犯人を憎むだろうし、事故の被害者は加害者を恨むだろう。でも、だからって呪いだとか、そういうので何とかしようとする人なんかはほとんど居ないはずだ。

 それなのに、あの人形を作った人間は……一体誰だかは分からないが、きっと自分たちと同じ学校に居る人間の中でキクを消し去りたいと願っている者は、心からそう思ってあの人形を作ったのだろう。

 コロコロと床を転がっている楕円形の人形の頭部が、ギチギチと音を立てて口を開くように、笑う。

 木が本来割れるべきではない方向に割れる事でバサバサと繊維が千切れて、それがまるで唾液のような、歯のような、そんな異質なものであるかのように見える笑み。

 カロカロと首を回転させながら動いているせいで、木片が床にあたっている音が笑い声のようにも聞こえてきて不気味だ。

 そもそも首だけでも生きているのかと一瞬思って、いや生きているわけではないのだと慌てて首を振って意識を切り替える。

 でもアレは、あの校舎裏にあった木の人形とは形が違うあの人形は、一体何だと言うのだろうか。違うのか、同じなのか。それももうわからない。

「それでね、まっくろになってきえちゃったら、このおへやのいちぶになっちゃうの!」

「お部屋の……一部」

「確か黒い部屋の中に入ると、中身を全部吸われちゃうって……」


 「そー! それでかわになって、のろいをつくったひとがそのかわにおきがえしちゃうの!」


 少女の言葉は、残酷だ。

 【黒い部屋】がどういうものなのかは、ネットで検索すればすぐに出てくるものだ。

 【黒い部屋】の中に入れば内臓なんかは全て抜き取られて死んでしまうことや、犠牲者は部屋の中のうねうねとしたなにかになってしまう事。

 そして残った外見は「バケモノ」に乗っ取られてしまうという事。

 あぁでも、今の千百合の言葉でわかった事があると、犬飼はため息を吐いた。

 気付きたくなかった。でも気付いてしまった。

 そんな現実に、吐き気がした。

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