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第39話 由美

 吐き気を堪えるように、口元を手で覆う。物凄く、物凄く、嫌な感覚がした。

 きっと【黒い部屋】は無作為に部屋の中に入る人間を選んでいるわけではないのだろう。

 それこそ、キクのように「呪われた人間」やその周囲の人間……多分、校舎裏の人形のように名前を書かれた人形を作られた者とか、そういった条件のある者を中に吸い込むのかもしれない。

 そしてこの【黒い部屋】が呪いであるのだとしたら誰かがその呪いを準備しているという事であり、何故そんな呪いを準備しているかと言われれば、消したい人間が居るから、という事になるだろう。

 そうして【黒い部屋】に押し込まれて死んだ人間の外見は「バケモノ」が乗っ取るというが、もしかしたらその「バケモノ」こそ呪った人間なのではないかと、犬飼は思った。

 呪いたい人間の人形を作って、【黒い部屋】まで誘導し、殺す。そこまでした人間の外見を乗っ取る理由なんて、その「呪った対象に成り代わりたいから」でしかないんじゃないだろうか。

 単純に殺すだけが目的の場合もあるかもしれないけれど、今回のようにキク個人を狙ったものならば、そちらの方が理由がつく気がする。

 もしそうだとして、キクを個人的に狙う理由がある人間なんて居るのかと考えると、犬飼にはどうしたって思い浮かんでしまう人間が一人、居た。


『……ムカつくなぁ。自分優等生です、みたいな顔してさぁ。必死で偏差値合わせたアタシ舐めてんでしょ』


『ずーっと邪魔にしてんの、気付いてないの? 鈍すぎんじゃないの? それともただの馬鹿なの? マジで邪魔だし、ウザいんだけど』


『ほんっとウザい! アタシ犬飼にコクってんだけど! 空気読めよ! アタシが負けてるみたいになってんの、マジムカつくんだよ!』


『なんで! なんでよ!! マジムカつく!! ほんとムカつく!!』


「山内由美……っ」

 キクを個人的に憎んでいる、自分勝手な女。

 思い出すだけで背筋が怒りでジリジリと焼け焦げるような気がして、犬飼はグッと唇を噛み締めた。

「やまうちゆみ……」

「……お前は知らなくていい人」

「知ってる人?」

「知ってはいる。でも、名前まで覚えてなくていい」

「でも」

「覚えてなくていい。覚えていないで欲しい」

 犬飼の真剣な眼差しに、キクは何も言えずに口を閉じた。千百合のおかげでか、さっきまで千切れそうなほどに痛かった手足が少し楽になったから、考える余裕が出来たからそう判断出来たのかもしれない。

 正直に言えば、キクにも「ゆみ」という名前に聞き覚えはあった。苗字は知らないが、さっき絡んできていた学生たちのリーダー格の女だ。

 中学時代から犬飼に片想いをしていて、犬飼に近づく女は自分の取り巻きを使ってとにかく酷い嫌がらせをしまくっていた女だ。中にはあの女の取り巻きに性的暴行を受けて転校したとかいう女生徒の噂まであって、それもあって犬飼は中学時代に彼女が一人も出来なかった。

 幸いだったのは、犬飼に同情した男子たちが徹底して犬飼を守ってくれた事だろうか。中学と言えばまだ小学校からの持ち上がりの生徒が多い時代だ。同じ小学校だった男子も少なからず居て、そういうヤツは水泳部の仲間と共に犬飼を庇ってやっていた。

 一体犬飼の何があの女をそこまでさせたんだろう、と考えないでもないが、どうせこの男のことだ。自分にやるようにあの女にも何かをやらかして勘違いをさせたに違いない、とキクは思う。

 優しいのは美徳だが、時には猛毒だ。

 犬飼にはまだ、それがわからないのかもしれない。

「……そのヤマウチユミがわかったとして、それでどうにかなるの?」

「いや、それは……」

 冷静に、と自分に言い聞かせながら犬飼を見上げると、何か考えていたらしい犬飼も少し困ったような顔をして首を振った。

 もしそのヤマウチユミが主犯なのだとして、この両腕の痛みや【黒い部屋】の呪いから逃れるには一体どうしたらいいのか、キクにも犬飼にもさっぱりだった。

 金属バットを思ったよりもしっかりした腰で振り回している千百合は、「うーんとねぇ」とか言いながら、まだバサバサの口元をカクカクと動かしている楕円形の頭を見る。

 両手をわさわさ動かしながら何かを説明しようとしている彼女は、多分まだ少ない語彙の中から必死にこちらに何かを伝えようとしている、のだろう。

 しかしまだ幼い彼女の口からはさっきのようなしっかりした説明は出てきてくれなくって、口をへの字に曲げて黙り込んでしまう。

 その幼い姿からは、まるであの木の人形をバットでぶっ飛ばした本人だとは想像もつかない。

「ぱぱがね、きっとね、くるとおもぉ」

「マスターが?」

「うんとね……しろいかみ……」

「マスターがくれたやつかな。アレなら、さっき外で見た不気味な人形に貼り付けたけど」

「みっけた? ならね! ぱぱくるよ! えっとね、えーっと……このおにんぎょうとおなじとこ!」

「この人形と」

「……おなじとこ?」

 千百合が指差す先には、頭部を失ったせいかぎこちない動きで両手足を動かしながら、それでもこちらに近づいてくる木の人形が居る。

 あの人形と同じところ、と言われても、なんのこっちゃ意味が分からない。あの人形は本当に突然出現したし、そのせいでかキクは両手が廊下に貼り付いたようになって動く事が出来なくなってしまったのだ。

 人形がこちらを殺そうとか、そういう意思があったのだろう事は流石に理解している。しているけれど、だからといってそれが何を意味しているかは……

「……呪いの空間の中でこっちを殺そうとしてるなら……アレがヤマウチユミって事は?」

「え、あ……」

「それなら、ヤマウチユミのクラス、とか?」

「普通科――確かD組だ」

「あ、特進じゃないんだ」

「そこまでの頭はないよ、あんなヤツに」

 辛辣に吐き捨てる犬飼に、キクはちょっとばかりきょとんとしてしまった。犬飼とキクは同じ特進クラスで、特進クラスに入るためには入試と内申での必要点が普通科とは異なる。

 ふたりとも推薦で普通に入った学校だったのであまり意識した事はなかったが、さっき「必死で偏差値合わせた」と言っていたから元々この学校の偏差値に足りてなかった可能性もある。

 だとしたらちょっと……彼女は彼女で頑張ったんだな、と、キクはそんな事を思った。好きな人のために必死に勉強をして偏差値を上げるのって大変なんじゃないだろうかと、思うのだ。

 キクとしては経験してもいないし今後も無いだろうからわからない感覚ではあるが、恋というものはそれだけのパワーを人間に与えるものなんだろうか。だとしたらとても、凄いと思う。

 まぁ、そのパワーをこんな呪いじゃなくて違う方向に使ってくれればと思わないでも、ないけれども。

「おてて、いたい?」

「さっきより痛くない……なんでかな」

「うんとね、じゃあね、おててつなご!」

 床に手が貼り付いてしまっているキクの隣に座って、千百合は満面の笑みで手を差し出してきた。

 いやだから、手が貼り付いているんだって……とちょっと困った顔をしたキクだったが、さっきみたいに腕を動かすだけでひしゃげるような痛みがなくなったのだから動かせるような気もして、グッと肩に力を入れた。

 貼り付いていた手が、ゆっくりと、糸を引くように黒さを残しながら離れていく。なんでだろう、という気持ちもあるけれど、ひんやりと冷たくて、それなのにぬるぬるとしているような気がした廊下から手が離れるのは純粋に嬉しくて、右手が離れた瞬間に千百合の小さな手を掴む。

 そうすれば左手も勝手に廊下から離れてくれて、キクは急いで左手でも千百合の手に触れた。

 あたたかい。

 子どもだからだろうか、さっき犬飼と繋いでいたソレよりも少しだけ高い体温に、ほっとため息が漏れて。


「ずるい……」


 ぼそっと呟かれた犬飼の声は、一先ず無視をした。

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