山内由美のクラスである1年D組は、特進クラスとは別の棟にある。
基本的に特進クラスの学習棟には特進クラスだけがカリキュラムで使うような教室が詰め込まれていて、普通科の授業では使わないものばかりだ。逆に言えば、特進クラスである二人は特進クラスの学習棟だけで全てが完結してしまうので、普通科の学習棟にはあまり行ったことがない。
行ったのは、家庭科の調理実習だとかの普通科との共通科目で使う時くらいのもので、それでもわざわざ知り合いの居ないクラスの廊下までなんか行ったことはなかった。
キクは友人なんていうのは犬飼の他に特進クラスにちらほら居たくらいだし、犬飼は水泳部の都合で普通科の同輩の所に行く事はあったが、その程度だ。
山内由美がD組でどの席に座っているかとかは当然知らないし、彼女の交友関係だって知らない。さっき、めんどくさくて厄介な連中とつるんでいるのだけはわかったけれど、そんなものにはそもそも興味もない。
「クラスまで行けばいいよな?」
「みんなのおへや?」
「幼稚園のお友達がみんなで集まるお部屋だよ」
「うん! そー!」
「じゃ、やっぱD組か……千百合ちゃん、抱っこしようか」
「うん!」
千百合と手を繋いだままのキクはひょいっと少女を抱き上げると、犬飼の後について廊下を走る。
さっきの木の人形とは真逆の方――校舎の中で三箇所ある階段の中で反対の端にある階段を上がるためだ。いくら千百合が活発な子でも、三階まで自分の足で上がるのは大変だろう。
何で一年が三階で二年が二階で三年が一階なんだろうか。普通科クラスの階数分けを聞いた時に思ったことを今あらためて思い返しながら、犬飼はチラチラとキクを心配しながら走った。
運動部の二人でも、一階から三階に一気に駆け上がるのは流石に疲れる。雨の日の陸上部にはそうやって鍛える練習メニューがあるらしいが、腰を痛めるだけなんじゃないだろうかと、どうでもいい事を考えた。
しかし階段は、上に行けば行くほどに不気味な色が濃くなっていく。
最初は、階段の途中から黒いグラデーションがかかっていることにキクが気付いた。足元だけでなく、踊り場からは天井も、壁も、窓も、薄っすらと黒がかかり始めて、その色は徐々に濃くなっていって最終的に三階に上がると完全に真っ黒な廊下になっていた。
真っ暗な廊下には赤い血管のようなラインが所狭しと走っていて、まるで血が巡っているかのように明滅もしている。
これが、内臓まで吸い取るという事なんだろうか。
ゾッとして足を止めた犬飼は、キクが真っ黒くなってしまっている腕で千百合を抱き締めているのを見てそっとその背中を撫でてやった。
水泳をしている自分よりもほっそりとした、それでもしっかりと鍛えられた背中は何もしていない生徒のものよりも頼もしい。
それでも、守るべき背中だ。庇うべき身体だ。
そう思いながら、肩に腕を回して共に前に進む。キクは、文句も言わなければ抵抗もしない。震える肩には気付いてほしくなさそうだが、それは流石に無理というものだろう。
D組に向かうまでの道を進む間も、二人の間にあったのは無言だった。
千百合だけは楽しそうに足をブラブラさせているが、彼女も何も言わずにキクに抱き締められるがままになっている。自分を抱きしめる腕の頼りなさに気付いているのだろうか。この少女は本当に、よく分からない。
「千百合ちゃん。D組に行ったら何をすればいいの」
「えっとね、おみず?」
「おみず……?」
「おへやのね、かどっことかどっこをおみずでつなげるの!」
じゃん! と千百合が取り出したのは、彼女が下げていたポシェットから引っ張り出された水のペットボトルだった。
何のラベルもついていないペットボトルは千百合が持つには少々大ぶりで、あぁだからちょっと重かったのかとキクは少しばかり納得した顔になった。
お部屋の角っこと角っこをお水でつなげる、というのは、教室の四方の角をつなげるように水を垂らしていけばいい、という事だろうか。
犬飼は千百合から水を受け取って、キクと顔を見合わせる。
千百合の言葉を信じるならそれしかなさそうだけれど、でも、なんというか……どういう事なんだろうか、という気持ちでいっぱいだ。
四方に何かを、という意味であればよくあるのは盛り塩だろうけれど千百合が塩を持っている気配はないし、すでに真っ黒に染まっている廊下に盛り塩をした所で何か効果があるようにも思えない。
それならばこの水の出番……なのかもしれないが、この水に一体どういう効果があるのかは、犬飼にもキクにもさっぱりわからなかった。
それでも、ようやっとD組を発見した三人は周囲に何も居ない事を確認してからD組に滑り込み、普段ならばかけない鍵をかける。完全に部屋を封じておいたほうが、なんとなく四方を確認しやすそうに思えたのだ。
ガチャン、と、上から下に押し下げるだけの鍵をかけて部屋の中を見回す。まるでついさっきまで授業をしていたんじゃないかと思ってしまうくらいに整然と並ぶ机に、普通科は特進クラスより少しだけ生徒の数が多いのだなと思う。
だがその思考に割り込んできたのは、階段を上がってくる硬質なものを引きずるような音だ。
キクも音に気付いたのかハッと息を呑み、入ってきたのとは反対側にある扉の鍵も締めに行く。
コトコト、カタン。
コトコト、カタン。
子供の頃に海外旅行のお土産だと食べもしないくるみ割り人形を貰ったことがあったけれど、あれを机の上で動かしているような、そんな音だ。
犬飼はさっき受け取っていた水のペットボトルの蓋を開けると、外から見えない位置でそっと床に降ろされた千百合を見る。
「直接床に撒いていいってことかな」
「うん!」
元気いっぱいの千百合の笑顔に嘘はないと判断して、犬飼は廊下側の部屋の隅から少しずつ水を垂らしていった。
ロッカーがあるせいで完全に部屋の端っことは言えないけれど一応はここが角なのだ、と何故か自分で言い訳をしながら恐る恐るに水を垂らしていく。
しかしこれは何の器具もついていないただのペットボトルだ。時々ドボッと出てしまうのはどうしようもなくて、時折冷や汗をかきながらも水を撒いていく。
コトコト、カタン。ズルズルズル……
コトコト、カタン。コトコト、カタン。
コチラに向かってくる音は徐々に近づいてきていて、恐らくは階段の踊り場を通り過ぎたのだろう身体を引きずるような音が酷く、不気味だった。
冷や汗で額がぬるぬるする。ソレをなんとか手の甲で握って、不安そうにしているキクを見てから、千百合を見た。
「一本終わりそうだっ」
「もーにぽんあるよ!」
「両方くれっ!」
細く細く、それでも途切れないように繋いで一本使い切った頃には、2つ目の角を曲がったあたりになっていた。
千百合のポシェットから引っ張り出された二本のペットボトルをキクが取り出し、震える手で犬飼に渡してくる。反対の手はまだ千百合と繋いだままで、その手がまるでキクの命綱のようだと、犬飼は思った。
二本目。少し余裕があるとわかった犬飼はさっきよりも速度を早めて水を落としていく。硬質な音からは出来るだけ耳を閉ざして、キクと千百合には教卓の下に隠れていろと手で合図をした。
犬飼が入ると窮屈で仕方がない教卓の下も、小さな千百合と細身のキクであれば十分に隠れていられるだろう。キクもそれを理解したのか、しゃがみこんでいた足を伸ばして千百合と共に教卓の方へ身体を向ける。
が、
バンッ!
鍵をかけられたままの扉が、不意に外側から強い音で叩かれた。
バンバンバンバンバンバンバンバンッ
まるで子どもの駄々のように何度も何度も叩きつけられる手は一人のものではなさそうで、あまりの音の大きさにキクと千百合はその場にしゃがみ込んで耳を塞いだ。
何かがそこまで来ている。
真っ黒なせいでそれは何かさっぱりわからないが、それでも今、この教室に入り込もうとしているというのだけは確かなものだった。