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第41話 結界

 手が、震える。びちゃびちゃと水をこぼす手が揺れて、足元にまで水がかかった。

 急がなければ。

 バンッと音がするたびに手が震えて、水を無駄に使ってしまったせいで最後のペットボトルを思ったよりも早く使わなければいけなくなりそうで、焦る。二本目のペットボトルの水は残りわずかだ。

 急がなければ、急がなければ。

 キクと千百合が教卓の足と足の間ではなくて扉から死角になる位置に隠れた。

 千百合はきょとんとしているけれど、真っ黒な腕から再び煙のような、埃が舞う時のような黒い何かが上がっていて痛みに顔を歪めている。

 急がなければ、急がなければ、急がなければ。

 黒板の下に水を撒いて、扉の前には二本目の最後の水を思い切り叩きつけるようにして三角目に散らした。

 途端にバンバンと叩かれていた音が静かになって一瞬だけ静寂が戻る。さっきまでのうるさい音のせいでシーンという音まで聞こえるようで、かすかに耳鳴りを感じる。

 最後の一画は、一番嫌なこの教室前方の扉と反対側の教室奥の扉を繋ぐ廊下側のラインだ。またバンバンと騒ぎ始めたら怖いどころじゃあない。

 それでも、最後のペットボトルの蓋を開けて水を撒く準備をする。

 その時犬飼は、ふと背筋に感じた寒気に気付いてしまった。冬場に窓を閉め忘れていた時のような、首筋を撫でるような寒さ。

 犬飼は本当に、本当に、何かを意識もせずに顔を上げて寒気を、冷たい風を感じた方を見上げていた。何か隙間でもあるのかと、そう思ったわけではないのに何故かそう、思ってしまったのだろうか。犬飼本人にもそれは分からないけれど、ふと顔を上げて――目が、合う。

 それは、ただただおぞましい光景だった。

 廊下側の壁の上。普段の光景であればプリントであったり授業カリキュラムであったりを貼り付ける事の多い、コンクリートよりも柔らかい、画鋲を刺せる素材の壁。

 そこの壁の上。ガラスで出来た空気循環をさせるための小窓に、貼り付くように無数の眼球が、いや、眼球とも呼べない大きさの目が、こちらを見ていた。

 思わず飛び退いて、整然と並べられていた机をガタガタと背中で弾いて転んでしまう。

 眼球は犬飼を追うようにギョロリと動いて、時折またたいた。

 全ての目が同時に動いているわけじゃあない。ひとつひとつが目を閉じて、開いて、犬飼を、見る。

 そして目の一つがぐにゃりと曲がって――笑った。

 悲鳴はもう声にならない。喉の奥から呼吸を絞り出すような変な音がして、ついに犬飼は恐怖に負けて声をあげた。

 普段であれば気にしないような、手を伸ばさないと届かない位置にあるガラス戸。そのガラス戸に触れているのか、眼球が動くたびに何か粘液のようなものがガラスに付着して、ねちょりと、音がする。

 ぺちょりと音がして目が開いて、どの目も、全ての目が、犬飼を見て、笑っていた。

 怖い。

 それはもう本能に訴えかける恐怖だった。

 さっきまでの木の人形のような物理的な恐怖ではない。脳に突き刺すような恐怖は犬飼の足から容赦なく力を奪って最後の一画を作る意思を失わせた。

 ペットボトルが転がって、水がこぼれる音がする。

とぽとぽ、とぽ。

 ペットボトルを落として水面が揺れているせいでか一瞬だけ間をおいて、一際大きく水が漏れた。もうこれしかないのに。このボトルで最後なのに。

 そうは思うのに、身体が動いてくれない。


 しかし犬飼が動かなくなった事で動いた影が、あった。


 千百合の手を振り払って、真っ黒な影に顔まで侵食されながら立ち上がったキクが床に落ちたペットボトルを拾い上げてもう半分もない水を、途切れた部分から繋げていく。

 再び、ドアが激しい音をたてた。


バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンッ


 キクがドアに近づいた瞬間に、激しく外からドアが叩かれる。最早殴っていると言っても過言ではない音に一瞬怯んだものの、キクは邪魔な机を押しのけながら最後の直線を水を流しながら走った。

 特進クラスよりも生徒数が多いからか、いつもの教室よりも少しだけ広い教室。それでもそこまで広いはずはないのに、最後の直線がとても、とても長く感じられて水が足りるか心配だった。

 しかし犬飼は、ハッキリと見た。

 最後の一雫。キクがペットボトルを思い切り振ってなんとか絞り出したその一滴が、最初に犬飼が水をこぼしたロッカーの前としっかりと繋がったのを。

 その直前から、水がぼんやりと光っているようにみえた、のも。

 犬飼はしっかりと、見ていた。

「繋げた!」

「キク、戻れ! ドアから離れろ!」

「わ、かってる……!」

 バンッ、と、またドアの音がする。その瞬間にキクの表情が痛みに歪んで、それでもその顔はもう半分くらい真っ黒になってしまっていて、犬飼は一瞬だけぎゅっと目を閉じてしまった。

 見ていられない。見ていたくない。

 そんな気持ちが無意識に瞼を動かして、しかし必死に、意識的に、瞼を開く。


 その瞬間、鷹羽と犬飼の目が合った。


「うわあ!!」

「ああああなに!? なんだ!?」

 ガタガタガタンッ!

 派手な音を立ててふたりとも仰け反って机をひっくり返し押し倒し、鷹羽の方は仰け反ったまま机を巻き込んで転がった。

 今何がおきたのか、お互いにまるで理解が出来ない。ただ、二人の後頭部に鈍く残る痛みだけがこれが現実だと示していて、未だにギロリとこちらに視線を向けるあの巨大な目玉の粘液のねちゃりという音で頭に冷静さが戻る。

「め、目玉! 目玉が!」

「元気ですねぇ」

「うわぁ! マスターも居る!」

「ぱーぱ!」

 大喜びで父に飛びつく少女を抱き止めながらも、マスターの視線は教室の中をしっかりと確認していた。

 何が起きているのかはサッパリ分からないが、キクが最後まで四角形を完成させた瞬間に起きた変化と聞こえなくなった音。それらがきっと、何か、何かしたんだろうとしか犬飼には思えなかった。

 何かがなんなんだと聞かれても何も答えられないけれど、鷹羽とマスターがここに居る段階で「変わった」のだという事だけはハッキリと分かる。

 それはキクも同じだったのか、空になったペットボトルをコロンコロンと音をさせて落としながら音を追うように膝をつく。

 犬飼は痛む背中を無視してキクに駆け寄るけれど、触れるかどうかという瞬間に大きな手にその手を止められる。

「ダメだよ。君にも呪いが移ってしまう」

「で、でも……」

「大丈夫ですよ。ここに居る間は絶対にこれ以上侵食は進みませんから」

 大丈夫、という言葉にキクが顔を上げる。

 もう鼻の下まで黒さが上がってきているというのに、確かにそれ以上先にはまだ黒さは進んできていないからきっとマスターの言う通りではあるのだろう。

 けれど、でも、それを信じ切ってしまってもいいのだろうか。

 ただでさえいきなり合流した意味もわからないのに。そもそも彼らは今まで一体どこに居たんだ?

 マスターの持っているでっかいエコバッグには、一体何が?

「鷹羽さん。外に何がえるか教えてもらっても?」

「えぇ……あの上には眼球がめちゃくちゃ沢山えますけど……」

 前後のドアには、真っ黒い人間がタックルしまくっています。

 鷹羽の言葉に、犬飼もキクもゾッとして少しだけドアから仰け反って、逃げていた。さっきまでのような叩きつけるような音は聞こえない。

 聞こえないし二人には外を見たって真っ暗な空間が広がっているばかりなのだけれど、「える」鷹羽にそうと言われると何かがうっすら見えるような気がしてしまって、驚きで忘れていた恐怖が再び蘇ってくるようだった。


「キクさんの侵食が進んだから、早くたべたーいって連中が集まってきているんでしょうね」


 なんでもない風に呟かれるマスターのその一言も酷く不気味で、顔を青ざめさせるキクを前にして少しも慰めてやる事の出来ない自分が情けなかった。

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