「ここにはね、おとうさんの本もあるの」
「え?」
「おとうさんの場合はね、普段の生活にあると邪魔なものを追い出しておくためにそうしてるの」
そうしないと危ないって、私が言ったの。
千百合の言葉に、返答が出てこない。
普段の生活にあると邪魔なもの。そして、ここで〝古書〟に書き出すことが出来るような記憶。
それはきっと、マスターが自分に対して「忘れていたほうがいい」と言ったようなものと、同じ類のものなんじゃないだろうか。
鷹羽は、視線を動かして探してみる。
この古書店にある本のタイトルは、自然災害の日時を記したものもあれば、人間の名前もある。
中には鷹羽にはまだ読めない文字のものもあるし、単純に読み方がわからない難しい漢字のものもあった。
一体どれだけの存在がここを頼り、ここに記録を遺していったのだろうか。
もしかしてここには、初めて鷹羽が足を踏み入れた時にマスターが記録してくれた本もあるのだろうか。探してみるが、鷹羽の本はまだ無いようだ。
「おとうさんはここを、先代のマスターから預かったの」
「預かった?」
「引き継いだって言ってるけど、おとうさんは先代ほど強くないから、いつかは先代に返すって言ってる」
「その先代さんは今どこに居るの?」
「よくわかんない! こーほー? って仕事で、色んなとこに行ってるんだって」
こーほー……広報か。ということは、先代という人もサラリーマンなんだろうか。
そんな人がここを開いて、こんな〝古書〟を集めていたということに、今更ながら違和感を覚える。しかもマスターよりも強い、だなんて。
その「強い」が何をどういう風に示しているかはわからないが、相当な人なのではないだろうか。
そんな人が一体なんで、どうしてマスターがここを引き継ぐことになったんだろう。
思えばまるで知らないことばかりだと、改めて思う。
このカフェのことも。
忘れて追い出さないと邪魔だという、彼の記憶のことも。
彼が何故自分の記憶を封じようとしていたのかという、こともだ。
「ここのお客さんの中に、今のおとうさんの状態について頼れる人は何人かいると思うの」
「今のマスターについて?」
「うん。お客さんは、鷹羽さんみたいなのばかりじゃないから」
彼女の目は、まるで鷹羽の次の行動を伺っているようだった。
鷹羽が一体いつ動くのか。一体どんな行動をとるのか。
そんなことを探っているような、期待しているような──いや、マスターに害するものかどうかを探っているかのような、そんな目。
鷹羽は深くため息を吐いてから、もう一度〝古書〟のタイトルに目をやった。
千百合の言う「ここのお客さん」とは、十中八九人間ではないものだろう。
もし人間だったとしても、この古書店を頼らなければならないほどの、人間であっても人とは少し遠い存在。
そんな人が、鷹羽がいきなり頼っていって話をしてくれるのか。
それも、マスターのことについてを話してくれるものなのだろうか。
わからないが、このままここで立っているのも背筋がむず痒い。
これがきっとマスターであれば、何の見返りも求めずに鷹羽のことを助けてくれるだろうとも、思うのだ。
こちらから助けを求めてもいないのにあんな田舎までやってくるなんて、今考えれば相当なこと。
それでもマスターは鷹羽の危険を何らかの方法で察知して、鷹羽のために来てくれた。
そんな人を「俺には無理」と放置するのは、流石に不義理が過ぎるだろう。
やがて気付いた一冊の本を手にとって、鷹羽は千百合を見る。
本のタイトルは「黒猫茶屋の主について」。
どうしてか開くことの出来ないこの本は分厚くて、まるでひとつの塊のようだ。
けれど、この頑なに開かない様がマスターの心のようで、棚に戻すことは出来ない。
「黒猫茶屋の主について」を胸に抱えて、貸本の棚に背を向ける。
と、まるでそれを待っていたかのようにカフェ側からガラスの割れる音がして、千百合が身構えた。
「! 鷹羽さん!」
「あぁっ」
古書店とカフェを区切る廊下を突っかかりながらも飛び越えて、座ったままのマスターに駆け寄る。
確かにグラスを握らせた彼の手はだらりと垂れて、床には透明なガラス片が散らばっていた。
慌ててマスターの様子を確認すれば、幸い眠りに落ちているだけのようで、ほっと安堵する。
が、この状態でそのまま眠りに落ちるのが、そもそも変だ。
まるで体力が尽きたかのように目を閉じて静かに眠っているマスターの姿は、まるで……
一瞬嫌な想像をして、慌てて首を振ってその意識を切り替える。
口元に手をやれば、わずかにぬくい呼気が触れるのだ。彼はまだ、きちんと生きている。
心臓を、動かしている。
「……千百合ちゃん。俺、午後休とってくる」
「……うん」
「だから、その頼れる人の居る所に、案内してもらえるかな」
「うん、いいよ。でも、会ってくれるかはわかんない」
「それでもいいよ。何もしないより、いいから」
抱えたままだった「黒猫茶屋の主について」を背中のベルトに挟むように詰め込んで、鷹羽はマスターの前に膝をついた。
マスターの身体を少し倒して、頭を肩に乗せてやるようにしてからぐるりと背を向ける。
そのまま前屈みになってマスターの腕と足を両腕で抱え込むようにすれば、なんとかその身を抱え上げることに成功した。
ファイヤーマンズキャリーと呼ばれるこの抱え方。
きっと普段のマスターであれば嫌がるだろうし、そもそも鷹羽の前で眠りすらしないだろう。
いや、眠ったとしても、この抱え方をする衝撃を受ければ普通ならば覚醒するはず。
なのに、マスターはまだ眠ったままで、えっちらおっちら運ばれても身じろぎ一つしないのが、不気味だった。
普段はこのカフェの中をくるくると動いている人が、動かない。
それだけでなんでこんなにも怖いのかと、酷く重い気持ちになった。
何とか彼を居住スペースに運び込むと、敷かれたままの布団にソロソロと下ろす。
千百合に手伝ってもらわないと投げ落としてしまいそうだった身体は、それでも前より痩せた気がする。
抱えたから気付いたのだろうか。手首が前に握ったソレよりも、頼りない、ような。
「すぐ戻る」
嫌な気持ちを必死に押し殺して、鷹羽は外に飛び出した。
「黒猫茶屋の主について」を背中に負ったままだが、返しに行く余裕なんかはなかった。
外に出た途端にムワッと顔を包み込む嫌な熱気を振り払って、編集部のあるマンションに走る。
「おい鷹羽ー。昼休みはもう終わっとるぞ」
「編集長。ちょっと身内の具合が悪いそうなんで、午後休もらいます。あと、明日も休むかもしれません」
「おぉ、なんだどうした。いきなりだな」
「あと誰か、なんか飲むだけでもカロリー取れそうな流動食的なの、どこで買えるか知りませんか」
急いで編集部に駆け込むと、鷹羽の机の周りには同僚たちが集まっていた。
どうやら昼休みが終わっても戻ってこない鷹羽を心配していたらしく、戻ってきた姿を見た表情は安堵だったり怪訝そうなものだったり。
だがそんなものは無視して、鷹羽は机に駆け寄ると帰り支度をしながら周囲を見回した。
同僚たちは困惑気味の表情をしていたが、それでもすぐに「何かある?」「やっぱインゼリーじゃね?」などと話を始めてくれる。
修羅場が終わった後で良かった。修羅場中なら、こんな穏やかな雰囲気にはなるまい。
胸を撫で下ろした鷹羽は、しかしノートパソコンを閉じようとした瞬間に目に入ってきた〝ソレ〟を見て、かすかに息を飲み込んだ。