「ふわぁあ」
くありと大きな欠伸をして、銀髪の青年――サイモンは空を見上げる。
青い空。白い雲。賑やかな町の朝市は、まさに平和の象徴と言えるだろう。
(今日も平和で何よりだ)
目を細めながらサイモンは後頭部を掻く。乱雑な仕草は、背中から漂う凛とした雰囲気とは少し違う印象を齎す。
癖の強い銀色の髪を靡かせて歩くサイモンは、田舎者にしては上品な雰囲気を纏っている。歩く足から音はせず、鮮やかな青いマントは人の目を惹く。姿勢のいい背中は一見、この国最高位に位置する騎士団の一員のような安心感を覚える。
しかし、マント以外の服は一般的な旅人のもので、裾や袖など所々が汚れている。腰に差した剣がサイモンが歩くたびに一緒に揺れている。
サイモンは寝ぼけ眼で周囲を見渡した。
彼の深い緑色の瞳には、朝日に照らされる新鮮な野菜や果物、肉や魚が映っている。サイモンはそれを一つ一つ物色しながら、今朝の食事を選んでいた。
「おーい、そこの兄ちゃん!」
「んあ?」
「活きのいい魚が獲れたんだが、一匹食べてみねぇか?」
品物を横目にもう一度欠伸をしたところで、魚屋であろう男が声をかけて来る。その声に振り返れば、満面の笑みで太い腕で自分の釣ったであろう魚を掲げていた。
確かに大物だ。男の太い腕の二倍はあろう魚の体が日光に照らされている。
サイモンは興味本位に近づくと、男の売り場を見た。並んでいる魚たちは確かにどれも活きがよく、美味そうだ。
「おお、いいな」
「だろぉ? 今朝獲って来たばかりなんだ。随分と活きがよくて、捕まえるのに苦労したよ。だがその分身が引き締まってんだ。味は保証するぜ!」
「ほほう」
――今朝。獲って来たばかり。活きがいい。味の保証。男の自信満々な言葉の数々に、サイモンの興味がそそられる。
(朝飯にちょうどいいかもな)
幾つ買おうかと考えながら財布を取り出そうとすれば、ぐうと響く腹の音。サイモンがふと動きを止める。込み上げる羞恥をよそに、聞いていた男が笑った。
「ははは、随分でかい腹の音だな! よしっ、もし買ってくれたら一匹サービスしてやるよ」
「本当か?」
「おうともよ!」
サイモンは財布を取り出すと、魚の数を数えた。
「そうか。じゃあ、この中くらいのやつを六……いや、七匹もらおうか」
「おっ、兄ちゃん見る目があるねぇ! 毎度ありィ!」
男は太陽のような笑みを浮かべると、サイモンの指した魚を七匹手に取った。
器用に尾びれを紐で縛ると、予め用意していた整えられた枝に括りつける。この町ではこうして魚や肉を持って帰るようになっているらしい。初めて見た時はまるで魚の木の実ができたようだと思った。もし本当にあったら、世界中の学者たちが喜びそうだとも。
(あいつも喜びそうだな)
旧友の顔を思い出しながら、男から魚のついた枝を受け取ったサイモンは、他の売り場も回り野菜や果物を買っていく。それらを紙袋に詰め、朝市を抜けたサイモンは町はずれへと足を向けた。
「サイモン兄ちゃん!」
「兄ちゃん!」
「よう。今日も元気そうだな」
小高い丘の麓。古びた大きな一軒家の前で、サイモンは走り寄ってくる子供たちに足を止めた。わらわらと寄ってくる子供たちに軽く挨拶をすれば、少し遠くにいた子供たちも一斉に駆け寄って来る。
「サイモン兄! おはよう!」
「兄ちゃんはよーっす!」
「おはよう、ラット。アラシ。お前ら相変わらず元気だな」
「兄ちゃんは相変わらず眠そうだな!」
走って来た男児二人の頭を撫でる。それを見て「おれも」「ぼくも」「あたしも」と寄ってくる子供達に、「仕方ないな」と順番に撫でていく。
――この孤児院を見つけたのは、この街に滞在し始めてから一週間後のことだった。
この孤児院は人があまり来ない辺鄙なところに建っているらしく、町の人たちも気にしてくれているとはいえ、訪問者が来るのは珍しい。その中でも、旅人となればより珍しいのだろう。大人に甘えたい年頃の子供達の引力により、サイモンはちゃっかりこの街に三ヶ月以上滞在してしまっている。
子供達と会話をしながら家の扉へと近づけば、目の前で扉が勢いよく開け放たれた。扉を開けようとした手が空を切る。
「わっ! サ、サイモンさん!?」
「おお、アリア。びっくりした。朝から元気だな」
「どうした、何かあったか?」と問えば、アリアはハッとして周囲を見回し始める。
「すみませんっ、その、アラシとラットを見ませんでしたか? あの子達、洗濯物置いてどっかに行っちゃったみたいで……」
「ああ、その二人ならさっき……って、あれ?」
振り返って首を傾げる。背中に隠れていると思った二人の姿がない。どこに行ったんだ?
キョロキョロと周囲を見回せば、集まっていた子供達がサイモンの服を引っ張った。「二人ならあっち走って行ったよ!」と告げる彼らに、サイモンよりも早くアリアが反応する。
「こらっ、アラシ! ラット! 待ちなさーい!」
「げっ! 逃げるぞ、ラット!」
アリアの声に脱兎の如く逃げ出す二人。その背中を追いかけるアリアは、片手にお玉を持ったままだ。
(賑やかだな)
サイモンは三人の子供達の背中を微笑ましそうに見つめる。
お玉を持って追いかけるアリアは、この孤児院の最年長者で、みんなのお姉ちゃん的な存在だ。
明るい赤毛は、明るい性格の彼女にピッタリで、着古されたワンピースにエプロンを着けている。袖は捲られており、さっきまで水仕事をしていたのだろう。手が僅かに濡れている。
真面目で努力家な彼女は、少し前からシスターから家事の分配を任されることになったそうだ。しかし、責任感の強い彼女に、面倒ごとが嫌いな数人の男子は反感を持っているようで。時折こうして追いかけっこが始まるのだ。
(まるでしっかり者の母親と、言うことを聞かない息子みたいだな)
アラシとラットは男とはいえ、幼い頃は女の方が成長が早い。更にいえば、アリアはおそらく同年代の子達よりも運動神経がいい。そんな彼女から逃げるのは一苦労だろう。年齢も身長も彼女よりも小さい二人は必死に逃げ回ったものの、意外とあっさり捕まってしまった。
首根っこを掴まれた二人は逃げ出そうとするものの、アリアの力に敵わず、バタバタと四肢を暴れさせるだけだった。
「もう! 次、係りの仕事サボったら朝ごはん抜きだからね!」
「ええー!」
「ひっでーよ、姉ちゃん!」
「嫌だったらさっさと動く!」
叱咤するアリアに二人はブーブーと文句を言いつつ、渋々洗濯物をしに戻って行った。その姿を見て、自分達も怒られる前にと子供達が散っていく。その様子が微笑ましくて、サイモンは小さく笑ってしまった。
アリアは戻ってくると、サイモンを家の中に案内してくれた。
「サイモンさん、毎朝ごめんなさい」
「いやいや、みんな元気そうで何よりだよ。子供は元気が一番だからなぁ」
「元気すぎて困っちゃいますけど」
あははと笑うアリア。微笑ましくも子供たちを見る彼女は、齢十三だとは到底思えない。
「お姉ちゃんは大変だな」と彼女の頭を軽く撫で、サイモンは彼女に朝市で買ってきたものを渡した。紙袋に入っている物の多さにアリアが驚く。サイモンは飛んでくるであろう遠慮の言葉を跳ね退けるように「みんなで食べてくれ」と押し付けた。彼らのために買ってきたのだ。もらってくれないと困る。そう告げれば、アリアは申し訳なさそうにしながらも受け取ってくれた。
紙袋をキッチンの台に置いたアリアが振り返る。
「そういえば、サイモンさんは朝ごはん食べました?」
「いや、まだ」
「それじゃあ、その……よければ食べていきませんか?」
「? いいのか?」
「もちろんです。これのお礼もしたいですし、それにサイモンさんがいるとみんな嬉しそうなので、食べていってくれると嬉しいです」
そう言われたら断れない。
サイモンは恥ずかしそうにするアリアに「それじゃあ、ご馳走になろうかな」と答えた。瞬間、嬉しそうに顔を綻ばせるアリア。その反応に、手伝いをしていた子達が一斉に囃し立て始めた。
「あー! アリアお姉ちゃんうれしそー!」
「うれしそー!」
「ちょっ、違うから! 変なこと言わないで!」
「きゃー! アリアお姉ちゃんがおこったぁー!」
「おこったぁー!」
「もうっ」
真っ赤な顔で怒るアリアに、子供達がきゃらきゃらと笑う。楽しそうな子供達を見るのは、微笑ましい気持ちになっていい。
何か手伝おうかと問いかけようとして、扉が開く音が響いた。
振り返れば、そこにはこの家の主――シスターが立っていた。
「あら、サイモンくん。おはよう。今日も来てくれたの?」
「おはようございます、シスター」
「いやね、もうシスターじゃないわよ」
そう言って穏やかに微笑む彼女はこの家の持ち主兼、孤児院の責任者で、子供達からすれば母親のような存在だ。
黒い長い髪を肩口で一つに縛り、その下を三つ編みにしている彼女は、流石元聖職者と言わんばかりの済んだ雰囲気を持っている。優しい声に、優しい雰囲気。少しくすんだ白いワンピースがより柔らかさを引き立てていた。
町の人たちから聞いた話によれば、ここは元々世界を統一したスクルード王への感謝の念として建てられた教会らしい。
しかし、平和が当たり前になったこのご時世では、世界中に建てられた教会の数も、寄せられる寄付金も年々減ってきているのが現状。経済的にも維持するのが難しくなった教会は売り払われるか、取り壊されるのが常であり、この施設もその煽りを受けて取り壊される話になっていたそうだ。そこにストップをかけたのが、他でもないシスターなのだ。
(でも、まさか孤児院に使うなんてな)
サイモンも初めて聞いた時は驚いた。使わない教会を孤児院に使っているのを見るのは、始めてだった。
近くの大きな街に新しい教会ができるのと同時に、シスターはここを引き取り、今の形になったそうだ。
「あら、今日もたくさん持ってきてくれたのね。ありがとう、サイモンくん」
「いえ、これくらいしかできませんから」
「そんなことないわ。私たちはすごく助かってるもの」
「さすが英雄様ね」と言われ、サイモンは苦く笑みを零した。その呼ばれ方は苦手なのだが、彼女に悪気があるわけじゃないので指摘するのも憚られる。話を聞いていたアリアは首を傾げつつも、手際よく朝食の準備を始めていた。
サイモンが朝食係の子供たちに手伝いを申し出れば、全員分のパンと皿の用意を言いつけられる。慣れ始めた家で子供たちと準備を進めていれば、洗濯物を干していたアラシたちが帰ってきた。サイモンが台所にいることに、察しのいい彼らは目を輝かせる。
「もしかして、兄ちゃんも一緒に食う!?」
「ああ」
「よっしゃ! 俺がサイモン兄ちゃんの分よそってやるよ!」
「ずるい! 俺もやりたい!」
「私もやるー!」
「はいはい。みんな、手を洗って来てからね」
はしゃぐ子供たちにシスターの声が通る。「はーい!」と元気よく返事をする子供達を横目に、サイモンはその様子をただ微笑ましそうに見つめていた。
(元気なのはいいことだな)
やっぱり子供たちは元気なのが一番いい。微笑ましさに口元を緩めつつ、椅子に座れば続々と帰ってくる子供たち。……まさか帰って来た子供たちに並々スープを注がれ、更にパンとおかずのお裾分け攻撃によって朝食が一人分以上に増えるとは思ってもいなかったけど。
「うっぷ」
(流石に食べ過ぎた)
サイモンは数十分前の事を思い出しながら、心の中で呟く。
はしゃぐ子供たちによって満たされた腹は、今にも破裂してしまいそうである。しかし、向けられる子供たちのキラキラした目を前に、断るなんて選択肢はなかった。詰め込めるだけ詰め込んだ腹は、多少時間が経った今も満腹感を訴えている。
自分をこんなことにした子供達は今元気に外を走り回っており、賑やかな声が聞こえてくる。サイモンは重い身体を引き摺り、ソファに座り直した。
「こりゃあ、しばらく動けないな」
天井を見上げ、浅く息を吐く。それだけでもう内臓が痛むのだから、困ったものだ。
のっそりと背もたれに体を預け、サイモンは室内を見渡す。
元々教会だったこの建物には、至る所に神を信仰する絵が描かれている。モデルはもちろん現王、スクルード王だ。世界に祝福を与え、今もなお人々の平和と安寧を守ってくれている存在は、人々の生活の中でかなり大きい。生死の概念さえ覆したとさえ言われている彼は、自分達と同じ人間でありながら『神』と呼ばれている。
「……神、なぁ」
まさかあいつが……と思う反面、そう呼ばれるのもわからなくないと思う。何を隠そう、サイモンはスクルードとは幼馴染であり、同じ冒険をした仲間だったのだから。
見渡すほど広い部屋の中心部には、大きな絵画が飾られている。スクルード王の肖像画だ。見慣れた姿だが、もう数百年も前に描かれたものだ。今も同じ顔をしているかは、彼の近くを離れたサイモンにはわからない。しかし、これを残すと言い出したのはスクルード本人だ。
(石像だの絵だの、よくやるな)
世界中を気ままに歩き回っている自分には、よくわからない。
ゆっくりと息を吐けば、少しだけ身体が軽くなる。元々教会だっただけあって、この部屋には〝スクルードの祝福〟が残っているのだろう。おかげでさっきよりも身体が軽い。
――スクルードの祝福、通称”神の祝福”は人々の不調を癒し、活力を与える優れものだ。
スクルードが王になってから、約五百年以上、途切れたことのない安寧。それがスクルードが神と崇め立てられる大きな理由の一つである。
戦争だらけだった世界がこんなにも平和に満ちているなんて、正直あの頃は考えられなかった。
「凄いよな、本当……」
彼の祝福は、こんな末端の町にまで届いている。
サイモンは息を吐いて天井を見上げる。高い天井は少しだけ汚れており、あとで掃除でもしておいてやるかとサイモンは思った。この建物はシスターが買い取った後、町人総出で改築したらしい。所々継ぎ接ぎになっているのは、そういう理由だ。もちろん生活する分には問題ないようで、本人たちは見た目も気にせず生活をしている。
この礼拝堂にある椅子も大きくて動かせないからと、今では子供たちの授業をするための広場になっているのだとアリアが言っていた。神の前で教鞭をとることに、シスターは今だに緊張しているそうだ。
サイモンは数回深呼吸を繰り返す。少しだけ余裕が出来た腹を擦り、ゆっくりと立ち上がる。そろそろ動いても平気だろう。
サイモンは天井に手を掲げ、その手のひらから水を出現させる。飛び出す水で軽く掃除を済ませると、風を使い、一瞬で乾かした。綺麗になった天井を見て、サイモンは部屋を出た。
狭い廊下を歩く。廊下の壁には、子供たちが描いたであろう絵や文字がいくつも飾ってあった。その下には壁に沿うようにして低い本棚が置かれ、中には絵本やちょっとした物語の本が置かれている。きっと色々な人から寄付されたものなのだろう。タイトルも年代もバラバラで、見ているだけでも面白い。
通り掛けに見えたシスターに声をかけ、サイモンは孤児院を出る。
背中を追いかける小さな存在に、サイモンは気づかないふりをしながら、孤児院の裏手にある森へと向かった。