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第25話 本格的な仕事の開始


 桜はその後、静かに散っていった。

 四月の半ばになったその日、二人の寝室で晴斗がそっと美弥の頬に触れた。


「美弥、明日なんだが」

「うん」

「本格的に、翻訳の仕事を手伝って欲しいんだ。どうだ?」

「勿論! 大歓迎だよ」


 嬉しくなって、美弥は晴斗に抱きつく。すると晴斗がその後頭部の髪を撫でながら続けた。


「一度、そのために軍に民間人としての協力証や通行証を取りに来て欲しいんだ。なにかと今後、関わりがあることになるからな。あやかし関連の翻訳であるから」

「僕でよければ一緒に行く」

「ありがとう。頼みたい書類の確認もそこで」


 そんなやりとりをしてから、この日美弥は、晴斗にいつも通り腕枕をされて微睡んだ。そして翌朝は、気合いを入れて早く起きた。晴斗よりも早くだ。ただ美弥の気配に気づいた様子で、すぐに晴斗が目を擦る。


「ごめん、起こしちゃった?」

「いや、いい。俺も起きようと思っていたところだからな」


 美弥は己に向けられた優しい笑顔を見て、どうせならめったに見られない貴重な晴斗の寝顔をもっと見ておけばよかったと後悔したが――本日は、初仕事だ。すぐにその雑念を振り払う。その後、久方ぶりに洋服へと着替えた美弥は、首元のリボンを結んだ。晴斗は、もう見慣れた軍服姿だ。


 こうして朝食後、若隅達使用人に見送られて、二人で馬車へと乗り込んだ。

 街路の花壇には、春の花が色とりどりに咲き誇っていた。


 帝国軍本部へと到着し、二人で階段を上る。美弥が真っ直ぐに連れていかれたのは、晴斗の執務室だった。扉の鍵が空いていて、晴斗が押し開けると、中には一人の青年が立っていた。金色の髪を後ろで結っている。振り返った彼の瞳は、緑色だった。顔立ちも堀が深い。どことなく日本人らしくも見えるが、この色彩は異国のものか、あやかし関連の家柄の者だと美弥は考えた。


「ああ、俺の副官の輪達上総だ。異国の血を四分の一ほど引いていて、先祖返りの色彩だ。幕末に渡来した欧州人の末裔だ。あやかしを視認する力に長けている」


 美弥の疑問に気づいたように、晴斗が長身の上総を紹介した。ぶしつけに見てしまったと気づき、慌てて美弥は頭を下げる。


「猫崎美弥です、宜しくお願いします」

「輪達大尉です。上総で構いません。晴斗准将からお話は伺っています。これから宜しくお願いします」


 にこりと微笑した上総には、気を害した様子はない。それに美弥が安堵していると、空いている執務机を晴斗が示した。


「美弥、そこに座ってくれ」


 書類と参考文献が積まれている机の前に、素直に美弥が座る。

 卓上には他に、通行証や協力証などがあった。通行証は首から提げる形で、協力証は胸元にピンで留める仕様だった。


「美弥、早速だが取りかかってくれ」

「う、うん!」

「ある程度を終えたら、残りは持ち帰り、家でゆったり行ってもらって構わない。今日は練習のようなものだ」


 晴斗の温かな声に、美弥は頷く。それを物珍しそうに、上総が見ていた。

 それから美弥が万年筆を手に取った時、我に返ったように上総が晴斗を見て話を始める。


「晴斗准将――黒荊病の件です」

「黒荊病がどうかしたのか?」


 聞こえてくるので、翻訳作業に集中しつつも、美弥はついそちらにも耳を傾けてしまう。


 ――黒荊病。

 それ自体は美弥も聞いたことがあった。数年前から帝都で流行している病だからだ。罹患すると、体のどこかに、黒い百合のような痣が出来て、次第にそこから荊のような模様が広がり、最終的に衰弱死するらしいとだけは、美弥も知っている。だが……あくまでもそれは、お伽噺の域を出ないと、皆が語っていたので、美弥は不思議に思った。ただの噂の範囲でしかない病について、軍が調べるというのは何故なのだろうか、と。


「やはり、あやかしに関連した――呪いのようなものではないかと、軍医の者達も話しておりました。軍医統括官の意見はまだ結論を出すべきではないというもののようですが」

「そうか」


 晴斗の声が怜悧で平坦なものへと変化した。思わずチラリと美弥が見れば、片手で口元を思案するように覆っている晴斗の瞳は真剣で、とても難しい顔をしているように見えた。美弥の知らない晴斗の表情だった。


 その後も上総と晴斗は、黒荊病について語っていたようだった。だが今度こそ気合いを入れ直し、美弥は集中したため、それ以後はあまり二人の話は頭に入ってこなかった。その集中力が途切れたのは、終業の鐘が鳴った時のことである。


「――美弥。美弥。今日の仕事はもう終わりとする。帰ろう」


 晴斗に声をかけられて、ハッと美弥は我に返った。

 すると晴斗が微苦笑していて、そっと美弥の頭を撫でた。


「さぁ、帰ろう。俺達の家に」


 その後は二人で軍本部を後にし、馬車に乗り込んだ。隣に並んで座り、美弥は膝の上に、持ち帰ることにした書類の入る封筒を載せている。参考文献も貸してもらったが、そちらは晴斗が鞄に入れて、持ってくれていた。中々の重量があるからだろう。


 美弥は仕事がなんとかこなせた事に喜びながら、何気なく車窓から外を見た。

 すると見慣れぬ黒い燕尾服姿に、洋装には不似合いな蘇利古などで使用される雑面をつけた人物が、手に操り人形を持っているのが見えた。子供達が募っている。大道芸人だろうかと、美弥は考えた。あまり外に出たことがないから、いちいち物珍しい。


「美弥」


 その時、晴斗に声をかけられて、美弥は我に返った。


「今度新鹿鳴館で、華族を招いた夜会が開かれるそうなんだ。招待状が届いた。一緒に行かないか? たまには、家の外に泊まり、食事を楽しむのもよいかと思ってな」

「晴斗と一緒なら、どこにでも行きたいよ」

「そうか。では、出席すると返事を出しておく」


 柔らかな笑顔で笑う晴斗に惹きつけられ、美弥は先ほどまで見ていた車窓からの風景についてなどすぐに忘れてしまったのだった。





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