翌日から美弥は、軍から持ち帰った書類に取り組み始めた。私室の卓の上には、所狭しと辞書や参考文献、なにより片付ける書類が並んでいる。翻訳文を記載する紙と万年筆も軍が用意してくれた代物だ。
「あまり無理はするな」
晴斗はいつもそう言うが、送り出した後の美弥は、毎日集中している。
時に昼食を食べるのも忘れるようになったため、今では和木がおにぎりを用意してくれる。今日も、鮭とおかかのおにぎりを用意してくれた。手を止めてそれを口に運んでいる間も、美弥の視線は辞書から離れないことが多い。ただ、和木の料理はおにぎり一つとっても本当に美味なので、いい息抜きの時間になっているのも事実で、毎日の具材が美弥は楽しみでもある。
「美弥様、もう少しお休みになられては?」
午後になると、雪野がそう声をかけてくれた。これも、もう毎日続いている。
「もう少しだけ」
心遣いが嬉しくて、美弥は微笑する。結局休まずにその日の分の仕事を片付けた美弥は、その後で雪野が差し出してくれたお茶を飲みながら、晴斗の帰宅の報せを聞いた。晴斗が帰ると、美弥はその日はもう基本的には仕事をしない事にしている。だが、一日の分量を決めているので、晴斗の帰宅の前にそれを終わらせて待っていることが多い。
こうして訪れた新しい毎日が、美弥には新鮮で貴重だ。晴斗が好きだから晴斗の力になりたいというのも勿論あるが、与えられた仕事はきちんとこなしたい。美弥は根が生真面目だ。
――さて。その日も美弥は、異国からの文献を翻訳していた。
「ん?」
すると魔法陣があって、何やら記号が書かれている。いいや、これは文字だ。
「ラテン語かな」
呟いた美弥は辞書を引きつつ考える。
「『眠っている真の力を発現させる魔術』……?」
そう読み取れた。首を傾げつつ、なにげなく美弥は描かれている魔法陣に触れる。
その時だった。
ボワンと音がして、視界が白く染まる。溢れた煙が、美弥を飲み込んだ。
「ニャア?(な、なに?)」
美弥は口走ったが、口から出てきたのは猫の鳴き声だった。視線の高さも下がっており、先ほどまで腰の高さだった卓の背が、高く大きく見える。
「にゃ、にゃ……(なに、これ……)」
混乱した美弥は、首を動かす。
狼狽えながら美弥は、一歩、二歩と前に進んでみる。
明らかに自分は、猫になってしまっていると分かったのは、壁にかけられた姿見に、猫の姿がきちんと映ったときだった。美弥と同じ目の色をした黒い仔猫が映っている。飼っているクロの目の色は緑だが、美弥の目の色は紺色だ。
「にゃぅ……にゃっ、っ……(誰かに気づいてもらわないと……)」
一人ではどうすることも出来ないと判断し、怯えながら美弥は部屋から外へと出た。
いちいち調度品が大きく見える。この家は元々広く大きいが、猫の目から見ると、まるで違うと言うことが分かる。
「にゃぁ、にゃぁ(誰か、誰か……)」
こんな時に限って誰の姿も見えない。階段を降りて、美弥は廊下を進む。すると庭に早霧の姿が見えたので、はっと息を呑み、思わず美弥はそちらに向かって、小さな棒のような足で走り寄る。
「ニャア!(早霧さん!)」
そして早霧の足元までいくと、目を丸くしてから早霧が屈んだ。そして骨張った手で、美弥の頭を撫でた。美弥は気づいてくれると期待して、じっと早霧を見上げる。すると――早霧がこれまでに一度も見せたことのない満面の笑みを浮かべた。瞳には笑みが宿り、口元は優しく綻んでいる。頬も緩んでいて、美弥をそっと撫でながら、早霧がうっとりとした顔をした。
「これが、晴斗達が拾ってきたという猫か?」
「――にゃあ(違う!)」
美弥は反射的にそう言いたくなったが、猫の鳴き声しか口から出てこない。それにしても、見るからに猫が好きな様子の早霧の、意外な一面を見て驚いていた。いつもの仏頂面は影を潜め、完全に猫を見てデレデレとしている。優しそうだ。そうやって笑っていると、少しだけ晴斗に似て見えた。
「可愛いな。名前はなんだったか。聞いておくか……いいや、しかしな……」
「にゃぁ……(クロのことなら、今度連れていきます)」
「庭では迷子になってしまうかもしれないな。早く戻るといい」
早霧が美弥を抱き上げようとした。美弥は気づいてくれないと確信して、素直に抱かれて家の中まで戻る。そして床の上で早霧が手を離したので、これでは仕方が無いと、一度部屋へと戻ることにした。
するとそこには、本物のクロと、シロ、トラが戻ってきていた。三匹は最初美弥の姿を見ると驚いた顔をした。だが、歩み寄ってくると、ペロペロと美弥の体を舐める。どんな反応をされるかドキドキしていたが、美弥は次第に眠くなってきて、布団の上で丸まった。左右でシロとクロも丸くなる。トラは美弥も含めた三頭を舐めている。美弥は、そのまま眠ってしまった。
「――様? 美弥様ー? 晴斗様がお帰りですよー! 美弥様! あっれ、おかしいなぁ」
雪野の声で、次に美弥は目を覚ました。夢だったのだろうかと思ったが、俯けば自分はまだ猫のままだった。ただ、晴斗が帰ってきたという報せに、晴斗ならば気づいてくれるかもしれないと、慌てて玄関へと向かって走る。
「ニャア!(晴斗!)」
そして帰宅したばかりの晴斗に飛びつくようにすると、若隅に鞄を預けた晴斗が、美弥を抱き上げた。
「ん? その目の色は……クロとは違うな。美弥と同じ色だ……なんだ? 迷い込んだのか? それとも美弥が連れてきたのか?」
首を傾げた晴斗と、まじまじと瞳があう。
「ニャァ……(お願い……気づいて!)」
「お前もこの家の仔になりたいのか?」
晴斗は綺麗に笑うと、ちゅっと美弥の鼻にキスをした。その時のことである。
ボワン、と、音がして、その場に煙が立ちこめた。
美弥はいきなりからだが重さを取り出したのを確認しながら、落下すると思ってギュッと目を閉じる。だが、美弥を晴斗が抱きとめて座り込んだため、激突は避けられた。
「美弥!?」
「よかったぁ、戻れた……」
美弥が涙ぐみながら、ギュッと晴斗に抱きつく。
「な、何があったんだ?」
「僕、僕、猫になっちゃってたんだよ!」
美弥の声に晴斗もだが、周囲で見ていた若隅や使用人達も唖然としている。
「ああ、どうしようかと思ったよ……」
「詳しく話を聞かせてくれ」
美弥が体勢を立て直すのを手伝ってから、晴斗もまたゆっくりと立ち上がった。そうして二人で部屋へと戻り、美弥が魔法陣の翻訳のくだりから、ことのあらましを説明する。すると晴斗が非常に難しい顔をした。
「……晴斗?」
「あ、いいや」
美弥の問いかけにいつもと同じ優しい笑みに戻った晴斗は、それから美弥の髪を撫でた。
「とにかく美弥が無事でよかった」
それから晴斗は、美弥を抱きしめた。その腕の中で頷いてから、美弥は額を晴斗の胸板に押しつける。そして漠然と思った。今度クロを連れて早霧のところに言って、きちんと目の色は緑だと教えておくことにしようと。なんとなく、クロも喜ぶような気がした。