日々が流れていく。緩慢なように思えて、一日一日が忙しい。
美弥は、この日は翻訳の仕事――では、なく、結納の準備をしていた。結納まで、あと一ヶ月を切っている。結納品の確認に訪れた父は、先ほど帰っていき、改めて美弥が、運び込まれている品の確認をしている状況だ。
十二支の末裔達の結納の場合は、お互いに送りあい、交わすかたちとなる。
今回の仲人は、竜宮家に頼んであるため、最近では当主代理をしている司との打ち合わせも増えている。品の中に鰹節があるのだが、猫の末裔は、慣例として鰹節を相手から多くもらうという風習があるので、その手順の説明を受けたりもしている。
先日は、同日のための和服も仕立てた。だんだん、本当に晴斗と結婚するのだなと言う実感がわきつつ、緊張もし始まっている。
この日も、そんな確認をしていたのだが、午後には珍しく、美弥には予定が入っていた。
「そろそろ行くぞ」
整え終えた時、司が言った。
「う、うん!」
今日は結納品の確認作業を終えた後、司と――音澄家の亮と、三人、同級生で少しお茶を飲もうと、美弥は誘われていた。過去には、幾度が学院帰りに三人でお茶をした子とがあるが、正式に招かれたのは初めてで、美弥は緊張している。
司と二人で馬車へと乗り込み、鼠神の末裔である音澄家へと向かう。
「久しぶりだねっ!」
すると出迎えた亮が、明るく声を上げた。
伝承の上では、猫は鼠に騙されたとする話があり、歴代の音澄家の当主は頭脳明晰だとたたえられ、特に猫神を嘲笑する風潮にあったのだが、同級生である亮は、かねてから美弥にそういう態度を取ったことはない。亮の父や弟、親族は美弥に冷たかったが、明るい亮は、どちらかといえば美弥の前にいる時は、風よけになってくれることさえあった――と、美弥は感じている。だから、美弥は亮が嫌いでは無かったが、お茶に誘われるとは思っていなくて、正直驚いていた。
「庭にテーブルとお茶の準備をしてあるから。あ、チョコもあるからね! ささ、行こう!」
亮に促されて、美弥は腕を引かれるがままに庭へと向かう。
その後ろを、ゆっくりと司が歩いてくる。司は呆れたような顔だ。
白いテーブルクロスが敷かれた丸いテーブルの前に、和服姿で三人。囲むように座ると、使用人が陶磁器のティーカップに、紅茶を注いだ。ティースタンドには、サンドイッチとおまんじゅうが載っている。
「同窓会だね。ささ、飲もう!」
亮の声に、おっかなびっくりという面持ちながら、頷いて美弥がカップを手に取る。甘い匂いがした。一口の見込めば、甘酸っぱい味がして、緊張が少し解れる。
「で? 美弥くんは、どうなの? 最近は」
亮の声に美弥が視線を向けると、司が吹き出した。
「最近もなにも、もうこのほぼ半年、ずっと幸せそうだろ、美弥も、晴斗様も」
「あーね。なんか晴斗様、雰囲気変わったよね、ちょっと優しく。この前の次期当主予定者の会合の時なんか、美弥くんの話出したら笑ってたもの。いつも全然笑わないのに。氷のようなお人なのにさぁ!」
亮の声に、美弥は驚いた。
「? 晴斗はいつも大体笑顔だよ?」
「それは、美弥くんの前でだけ!」
「全くその通りだ。亮の言うとおりだ」
二人の声に、美弥は目を丸くする。晴斗の笑顔が脳裏に焼き付いているから、逆に笑顔ではないところが想像しにくい。
「まぁまぁ、とりあえずそこのカゴのチョコもお一つ。食べて食べて」
「あ、ありがとう……」
亮の声に、美弥はチョコレートを手に取る。大好きな品なので、口に含むと蕩けるようで、頬が緩んだ。
「美味しい」
「……美弥くんも、そうやって笑ってる方がいいよね」
「おう。いつも辛気くせぇ顔してたからな。チョコを前にしないと、特に」
二人の同級生の声に、慌ててチョコを飲み込みながら、美弥は見られていたのかと照れくさくなった。どことなくだが、今まで自分がよく見ていなかっただけで、なんだかんだで二人は自分を見てくれていた気がした。亮とも司とも、距離が縮まったように感じる。いいや、元々距離を感じていたのは、自分だけなのかもしれない。
「晴斗様って、でも忙しいでしょう? 寂しくは無いのー?」
「うん……晴斗は忙しいみたいだけど、可能な限り、僕に時間を割いてくれているよ」
「おい、亮。惚気を引き出すな。美弥も惚気るな。俺は人の惚気を聞く趣味はない」
ぴしゃりと司に言われて美弥が萎縮し居住まいを正すと、亮がくすくすと笑った。場が和む。
「まぁ、司くんは、寂しい独り身だもんね」
「うるさいな! 亮だってそうだろうが!」
「えー? 僕はねぇ」
「へ……? い、いるのか? 誰かが……」
「秘密」
そんなやりとりをしながら、お茶会の時間が流れていった。
そうして帰宅すると、この日は先に晴斗が帰宅していた。
「おかえり」
いつもとは逆に出迎えてくれた晴斗が差し出した腕の中に、美弥が飛び込む。
そしてギュッと腕を晴斗の体に回した。
抱きとめた晴斗が、優しい声で問いかける。
「楽しかったか?」
「うん。楽しかった……大切な、その……友達二人と、紅茶を飲んだんだよ」
「そうか。それはなによりだが、少し妬けるな」
そんなやりとりをしながら、美弥は思う。やはり――日常が、少しずつ変わってきた。それは晴斗のおかげだけれど、自分がただ泣くのを止めたからでもある気がした。きちんと前を向きたいと改めて思いながら、その後は晴斗と共に、夕食の席へと向かう。
怖いくらいに、幸せだった。
その内に、梅雨が訪れた。駿雨の日もあれば、激しい雨が降り続くこともあり、雨の形態自体は様々だが、とても肌寒い。美弥は晴斗の帰宅を待ちながら、二人の寝室の火鉢を見ていた。そばでは三匹の猫が丸くなっている。仔猫達は、だいぶ大きくなった。だが、己が猫になった時のことを思い出すと、もっともっと助けて上げたくなってしまう。
そこへ雪野が、晴斗の帰宅の報せを持ってきたので、美弥は階下に降りた。すると晴斗が、和紙に包まれた傘を一本、美弥に差し出した。
「土産だ」
「傘?」
「ああ。輸入品らしい。俺とそろいでどうだろうと思って、欲しくなったんだ」
「わぁ!」
受け取った美弥は、頬を桃色に染める。晴斗も隣で傘を開いた。晴斗の傘は紺色、美弥の傘は碧色で、お互いの瞳の色に似ていた。
最近では大きな事件もなく、少し日常が戻ってきた――というのもおかしいが、穏やかだと美弥は感じている。結納までも、もう少しだ。ほのぼのとした、まったりとした日常と、二人が正式に婚約するまでの日数のカウントダウンで、美弥は幸せな毎日に浸っている。その後傘をしまってから、二人で二人の寝室へと戻った。
そして雪野が出してくれたお茶を飲んでいると、隣に晴斗が座り、美弥の頬に触れた。
「愛している」
晴斗は言葉を惜しまない。だから、美弥もそれに、少しでも返したくなる。
「愛している、美弥」
「僕も」
「俺は幸せものだ」
「僕の方こそ」」
二人の間にただよう空気は、ひたすらに甘い。三匹の猫だけが、それを見守っている。
二人はその後、触れるだけの口づけをした。
夕餉だと雪野が呼びに来るまで、あと少し。