――翌日、晴斗は姿見の前で、ビシリとネクタイを締めた後、しっかりと手袋を嵌めていた。最初は慣れないと思っていた軍服だが、今は気が引き締まる思いもあって、仕事に従事するひと時というものは、それはそれで己が神屋家の人間ではない時間を持てるということにも思え、晴斗は嫌いではなくなった。
無論神屋に生まれてついたからこその能力ではあるわけだが、今、軍には晴斗を慕ってくれる者も増えた。慕われたくて仕事をしているわけではなかったが、時にそんな居場所は、十二支の末裔達のもたらす自分上位の隔絶された異質な世界を忘れさせてくれるから、晴斗は好きだ。
「いってらっしゃい」
美弥が玄関まで見送りに出てくれた。晴斗は笑みを浮かべる。
「ああ、行ってくる」
その後は馬車へと乗り込み、晴斗は無表情でギュッと目を閉じる。だが、何者かが美弥を害そうとするのならば、それは決して許すことは出来ない。看過出来ない。眉間に酔った皺を、手袋を嵌めた指先で解した後、晴斗は軍本部の執務室へと向かった。本日の予定は決まっていた。上総と言葉を交わしてから、晴斗は軍本部の地下へと向かう。
そこに広がっている南区画には、白い壁が四方にあり、床は黒、魔法陣が刻まれており、入り口には異様な黄色い縄と紐で封印が施されている。ガラス戸から中を見れば、封印が施された床の中央に、洋風の椅子が一脚。後ろ手に手錠をかけられ、足を椅子に拘束されている、上半身裸の大男――に、見える怪異がそこにはいる。眉も目も鼻も無い。ただ、口だけがある。ギザギザの鮫歯が覗いている。
――のっぺらぼう。
特殊危険指定あやかし手配書・深緋の中の一体だ。軍が捕縛して、もう長い。捕縛したのは神屋の先代、晴斗の父だ。捕縛する際には、多くの血が流れた。力が強すぎる怪異なので、未だ消滅させる術は見つからず、こうして封印の間に拘束している。そういう怪異は、この軍本部の地下の牢獄区画には、何体か存在するが、特殊危険指定あやかし手配書・深緋の中の一体に数えられるだけあって、危険度は段違いだ。
封印の施されたドアを開けて、わざとブーツの踵の音を響かせながら、晴斗は中へと入り、しっかりと施錠をしてから、のっぺらぼうの前へと立った。
「よぉ、神屋のお坊ちゃん。やっと俺様を解放する気になったのか?」
「……」
「なんだよ、相変わらず冷てぇお顔。綺麗だけど、そんなんじゃ誰も寄ってこないぜ?」
ぎひひと卑しい声で、のっぺらぼうが笑う。
「【薬売り】について、聞きたい」
「あー?」
「視認した場合、害はあるか?」
もう長らく【薬売り】の目撃情報は無かった。行方が分かったのは幸いだが、もし視たことにより、美弥になにかが起きたらと思うと、晴斗の全身が冷たくなる。
のっぺらぼうが沈黙した。目が無い顔が、じっと晴斗に向けられている。口は常に笑顔だ。唇は無い。
「堂々と現れたんなら、お茶でもしてたんじゃねぇの? さぁ、知らんな。そういうのは、【時計頭】にでも聞け。そうだろぉ?」
その声に、晴斗はのっぺらぼうが何も知らない様子だと判断した。
なお、【時計頭】もまた、特殊危険指定あやかし手配書・深緋の中の一体だ。【のっぺらぼう】【葬儀屋】【時計頭】【薬売り】――そして、最後の一体。
「そもそも、一番詳しいのは、お前のとこの【神の影】なんじゃねぇの? ああ、怖くて聞けないってぇ? ハハ、笑うわぁ」
晴斗が目を眇める。神家の敷地において封印している、最後の一体……それが、【神の影】だ。今は、夜宵と名乗っている、自分と瓜二つの、心の闇、負の感情。特殊危険指定あやかし手配書・深緋の中の一体になるほどに、神屋家の人間のネガティブな感情は、危険そのものだといえる。滅しても滅しても、【神の影】は、神屋の血が続く限り再現する。そして、神屋の血が途切れれば、それは混乱を招くから、永劫【神の影】は存在し続ける。
「役立たずが」
晴斗はそう切り捨てて、のっぺらぼうの元を後にした。のっぺらぼうはニヤニヤとした顔の作りのままで、なにも言わずに晴斗を見送っていた。
なんの成果も得られなかった晴斗は、執務室へと戻り、上総を見た。
「いかがでしたか?」
尋ねながら、上総が珈琲を差し出す。
「なんの収穫もなかった。期待はしていなかったとはいえ、本当に成果はゼロだ。少し出てくる。あとは任せてもいいか?」
「承知しました。どうぞ、お気を付けて」
頷き、その後晴斗は軍服姿のままで、少し路を歩く。帝都の中央へと向かってから、少し坂を下り、ある種の貧民街となっている場所へと向かった。そこは、人間の中で貧しい者――……たとえば孤児や、病者……そして、犯罪を生業にする者などが暮らす場所でもあり、同時に、堂々と生きるあやかしが住まう、数少ない場所でもある。江戸の頃まではあやかしも、もっと堂々と暮らしていたとはいうが、現在は視えなくなった者が多いこともあり、害の無いものは密やかに暮らしているだけだ。
その一角に、洋風の小さな二階建ての建物がある。
そこは――“アトリエ”と呼ばれている場所だ。ドアをノックした晴斗は、返事が返ってきたのでドアを開ける。すると、アルコールランプの上でお湯を沸かしている異形の姿がそこにはあった。首から下はどう見ても成人男性なのだが、頭部だけが異なる。
時計の文字盤がついている。巨大な懐中時計のような頭部を持つ怪異――【時計頭】だ。この者もまた特殊危険指定あやかし手配書・深緋の中の一体だが、軍本部に協力するという宣誓のもと、こうして外での暮らしを許されている。居場所も常に、判明している。文字盤の部分には、三つの時計と歯車が見える。なんでもそれぞれの時計は、過去・現在・未来を表しているとのことで、【時計頭】には、その全てが見通せるのだという。即ち、知らないことはほとんどないという怪異であり――怪異に関する“情報屋”ともいえる。
油絵を描いていたらしい時計頭は、晴斗へと振り返り、筆を置いた。
「これはこれは、晴斗准将。どうやら、【薬売り】が出たみたいだねぇ」
「ああ、そうだ。話が早くて助かる」
「結論から言って、視認しただけでは、【薬売り】は特別害はないよ。君の大切な伴侶候補は、現時点において、無事だということだね。ただ――馬車に同乗していたのに怪異の気配に気づけなかった晴斗准将は、もう少し精進するべきだと進言しておくよ」
嫌味と親切心が同時に込められた時計頭の声に、晴斗が唇を引き結ぶ。
「――『眠っていた真の力を発現させる』という魔術を知っているか? 魔法陣がある」
「ああ、そんな魔術もあったねぇ。懐かしいなぁ。あれは伊太利亜の魔術だったかな」
「……あれを用いると、たとえば……」
晴斗は言葉を探す。あまりこちらの情報は与えたくない。だが、全てを見通す三つの時計の持ち主が、先手を取る。
「当然猫化する力を持っている猫神の末裔ならば、猫化することもあるだろうし、神の末裔であやかしが視えない者の方が少ないから、発現はするんじゃぁないかねぇ」
「……そうか」
「ただねえ、洋の東西を問わず、十二という数字と、その上にある創造神の存在は特別だ。星座も干支も、それは等しく。けれど猫神のように、そこに十三番目が加わったりするなんていうのは、基本的に世界の理の外側だ。美弥さんだったかな、晴斗准将の大切な人の名前は。私にも、彼のことは中々視えない。気をつけて、守っておあげ」
「言われずとも」
晴斗が表情を変えずに言うと、喉仏を動かして、時計頭が笑った。
「ただ、予言するが、君が手を離しさえしなければ、きっと君を幸せにしてくれるだろう」
「言われなくても絶対に離さない。それに俺は、既に幸せをもらっている」
「惚気は結構。それで? 本題はなんだったかな?」
時計頭が、沸騰したお湯で、珈琲を淹れる。
その片方を受け取った晴斗は、改めて時計頭を見る。
「【薬売り】の動向が知りたい」
「それは帝都にいること以外は、私も知らないよ」
「全てを見通せるのではないのか?」
「それが――『普通の人間の生涯』ならば、ね。それ以外には、全知とは言いがたい」
「目的はなんだと思う?」
「さぁねぇ。人間には分からないことばかりだよ、あやかしなんてものは」
「――……まぁ、そうだな。それと」
「うん? まだ何か?」
「【葬儀屋】の行方はまだ分からないのか?」
「調べてはいるけど、今のところは聞いてないねぇ。そんなに弟さんが心配なのかい? もう怪我はよいんでしょう?」
「別に。軍の業務に支障が出るだけだ。早く瘴気を完全に除去させたいというのは、別に俺だけの願いではない」
「素直じゃないねぇ」
「……心配したっていいだろう。大体、心配して何が悪い? たった二人の兄弟なんだ」
晴斗が不機嫌そうに呟くと、くつくつと時計頭が笑った。
「君の叔父上がいるんだから、命には関わらないだろうにねぇ。ああ、そうだ。そうだねぇ。【薬売り】は、薬種の入った箱を持っているのが常だ。一体どんな薬を持っているのやら」
「なに?」
「戯れ言だよ。さぁて、私は油絵の続きを描くとしよう。ごきげんよう、晴斗准将」
こうして、追い出される形で、晴斗はアトリエを後にした。
そのまま直帰することにして、軍本部の外で、神屋家の馬車に乗り込む。そしていつもより早い時間に帰宅すると、美弥が慌てたように階段を降りてきた。その姿に胸が疼く。大切でたまらない。
「美弥」
愛おしさが極まって、晴斗は美弥を抱きしめる。そして思わず抱き上げた。
「わっ」
慌てたように、ギュッと美弥が晴斗に掴まる。晴斗は目を丸くしている美弥の愛らしさに、頬を緩める。それから美弥を下ろして、ギュッと抱きしめて、美弥の肩に顎をのせる。そして美弥の銀髪を撫でながら、少しだけ真剣な目に変わる。
――この幸せを、絶対に手放したくない。
だから。
だから美弥のことを守り続けようと、晴斗は改めて己に誓う。するとチラチラと脳裏に夜宵の嘲笑が過り、『本当に出来るのか?』と囁く声が聞こえたが、晴斗は目を伏せ、その幻影を頭から振り払った。