その三日後、美弥は軍本部で禁魔術書の一冊の翻訳を頼まれたので、晴斗と共に馬車に乗った。首から下がっている通行証の感覚が、なんとも慣れない。
到着し、守衛に挨拶をしてから、二人で中へと入って、晴斗の執務室へと向かった。そこでは副官の上総が微笑した。
「お久しぶりです、上総大尉」
「ええ、そうですね。いやぁ、毎日の時の流れが速すぎて、私からすると一瞬前のことのような気分なのですが」
優しく出迎えてくれた上総は、美弥が座ると珈琲を用意してくれた。珈琲は最近貿易が始まった品だ。ほっと一息つける味な気がして、美弥はとても気に入ってしまった。気づけば神屋家でも、時折晴斗が飲んでいたので、美弥も最近はたまに雪野に珈琲をお願いすることがある。
その後午前中は、魔術書の翻訳をしていた。この日も魔法陣が入っている魔術書だったが、触れると危険だというのはもう分かっているので、美弥は慎重に頁を捲った。そばでは、晴斗と上総が色々と打ち合わせをしながら、それぞれの書類に臨んでいる。
そうしているとあっという間に午前中が過ぎ、昼休憩を告げる鐘が鳴った。
「美弥、先に上総と食べに行ってくれ。俺も一本電話をしたらすぐに行く」
晴斗に声をかけられて、丁度区切りのいいところまで終わっていた美弥は顔を上げる。
「行きましょうか」
すると上総が微笑した。おずおずと頷き、美弥が立ち上がる。本当は晴斗を待っていたいけれど、我が儘を言うのは躊躇われた。
こうして、上総と共に廊下を歩き、食堂を目指す。
窓の外には、清々しい青空が広がっている。今日は大きな白い雲が浮かんでいる。
食堂へと入ると、奥の席から賑やかな声が聞こえてきた。見れば、雨月が多くの軍人に囲まれて笑っていた。
「本当に雨月大尉は人気者ですね、ああ、騒がしい」
すると美弥の視線に気づいた様子で、隣に立った上総がくすくすと笑った。
最初に席を取ることにした様子で、窓際の四人がけの席に、上総が座る。その対面する場所に座った美弥は、雨月のことがよく見える位置なので、また視線を向けた。
「雨月は人気者なんですか?」
「――ああ、【葬儀屋(アンダーテイカー)】の事件のことを、ご存じないんですね」
「【葬儀屋】……?」
美弥が上総を見ると、上総は笑顔だったが、その眼差しは険しかった。どこか追憶に耽るような目でもある。
「【葬儀屋】――特殊危険指定あやかし手配書・深緋の中の一体で、二年前の秋に、大規模なあやかし災害をひきおこした犯人です。現在も行方は分かっていない」
指を組んだ上総は、背後をチラリと見てから、呆れたような顔をした。
「総員待避という命令だったのですが、ある軍曹が足を負傷して倒れたところに、【葬儀屋】が武器の逆十字を振り上げたんです。あのままであればその者は絶命していたでしょう。しかし、雨月大尉は見捨てることをせず、庇って逆十字で左肩を貫かれたんですよ。おかげでその軍曹は一命を取り留めました。尤も――庇わずにその瞬間に【葬儀屋】を仕留めることも出来たでしょうに、人が良い。ああいう冷徹になりきれない軍人未満のところが、私はあまり好意的には思えませんが、人としては正義感に溢れていて、人気者になるのも分かります。彼は、誰のことも見捨てませんから」
つらつらと上総が語った。
「その後、庇われた部下はすぐに傷も癒えましたが、特殊なあやかしの武器による負傷で、傷が塞がってもそこに残存する危険な瘴気が原因で、雨月大尉は暫くの間、相当な痛みに苦しんだようです。軍も休職、しばらくは寝たきりだったようですね」
そんなことがあったのかと驚いて、美弥は目を見開く。
いつも明るく、どこか意地悪そうな雨月に、そんな過去があったとは、知らなかった。遠目にまた雨月を見る。雨月は皆に囲まれて笑っている。とても痛く辛い過去があったようには見えない。ただ、優しいのは美弥にも分かる。
「部下の損失よりも、雨月大尉の負傷と欠員の方が、どれだけ軍が被る損失が酷いか分かっておいでではない。私はそういうところもあまり好きではありませんね」
「――でも、上総さんは、そういうところを心配だと思っているだけで……雨月のことが嫌いじゃないんじゃありませんか?」
「ええ。別に嫌いではありません。ただ、もっと自分を省みて欲しいと思うだけです――なにせ、軍学校の同窓生ですので。昔から雨月大尉の無茶っぷりには呆れつつ、慣れていますから」
二人がそんなことを話していると、ポンと美弥の肩に触れる手があった。驚いて美弥が振り返ると、そこには晴斗が立っていた。
「晴斗!」
「遅くなったな」
晴斗が美弥の隣に座る。それから三人で、この日の食堂のオススメランチであるグラタンを頼んだ。そうして美弥が再びチラリと雨月の方を見た時――雨月もまた、美弥達を見ていた。そして美弥と目が合うと、にこりと微笑んだ。精悍な笑みだ。
「美弥、ここはサラダも美味い」
すると晴斗が咳払いをしてから、美弥の腕に触れた。そちらを見てから、美弥がもう一度雨月を見ると、既に視線は逸れていた。なので美弥は、改めて晴斗を見る。すると、小声で言われた。
「できれば、俺のことだけを見ていてほしいものだな」
「え?」
「なんでもない。ほら、食べよう」
と、こうして昼食時は流れていった。
――この日は美弥を伴っていたこともあるのか、晴斗は早めに仕事を切り上げた。一緒に軍本部から外へと出る。逢魔ヶ刻の空というものは、どことなく胸を騒がせる。そう思って、馬車へと向かい歩いていた、その時。
ぬぅっと、巨大な布が飛んできた。呆気にとられて美弥が立ち止まる。
晴斗は特にいつもとかわらない。
「は、晴斗!」
「どうかしたのか?」
「そ、そこ! 顔がついてる大きな白い布が飛んでる! 風も無いのに!」
美弥がそう言うと、晴斗が目を丸くした後、驚いたように振り返った。
「美弥……まさか、アレが視えるのか?」
「え? う、うん」
「あれは、一反木綿だ。害は無いから、この辺りの通行が許されているあやかしだ」
「一反木綿……?」
「俺のような視える者にとっては、風景のような通行人のような、そういった存在だ、が……今まで、美弥には視えなかっただろう?」
「うん、うん。初めて見たよ……」
思わず不安になって、美弥はぎゅっと晴斗の腕を掴む。すると晴斗が向き直り、猛威一方の手で美弥の髪を撫でた。
「猫化もそうだが……美弥の中に眠っていた力が、発現したのかもしれないな。猫神の末裔としての力が」
晴斗はそう述べてから、美弥を促して、馬車へと乗り込んだ。
そして走り出してから、晴斗がじっと美弥を見た。
「美弥」
「うん……」
「美弥のことは必ず俺が守る」
晴斗はそう述べると、美弥の額に唇で触れた。美弥の不安になった心が、少しずつ軽くなる。晴斗が隣にいてくれるだけで、本当に安心できる。
ただ。
守られるだけでは、嫌だった。
「もしも本当に僕にもあやかしが視えるようになったのなら」
「ああ」
「視えることで、なにか出来ることが増えたなら、僕は自分の出来ることをしたい」
美弥が一所懸命に、意思のこもる声でそう伝えると、そんな美弥をまじまじと見てから、晴斗が少し複雑そうな顔をした。そして双眸を伏せる。
「正直心配だからなにもしてほしくないのが本音だ。でも、その気持ちが嬉しいし――神屋の者となり、神家に嫁げば、どのみち関わりは持つことになる。俺の伴侶となれば、美弥を巻きこむことになるのは確かだ」
晴斗は目を開けてから、美弥の肩を抱き寄せた。晴斗が心配してくれるのが、痛いほどわかり、美弥は、晴斗の方に頭を預けながら言う。
「危険でも……それでぼ僕は、晴斗の隣に並べるように頑張りたいよ」
すると晴斗はなにも言わず、暫くの間、無言で美弥の髪を撫でていた。その感触に浸りながら、美弥はその内に微睡んだ。