ゆっくりと帰宅したので、昼食は神屋家で取ることになった。元々その予定だったので、二人で荷物を私室に運んでもらうのを任せ、真っ直ぐに和室に入る。そこには既に、お膳の用意がされていて、二人が向かい合って座ると、そこに料理が運ばれてきた。
「美味しい」
新鹿鳴館の食事も美味しかったが、やはり和木の作る料理は一品だと思って、美弥が頬を緩める。晴斗も笑顔だ。
「そうだな。俺は和木の料理を食べると、帰ってきたという心地になる」
「僕も」
「そうか。美弥がいよいよこの家を、“自分の家”だと感じてくれているようだと知れて、それもまた俺は嬉しい」
以前であれば、そんなことは烏滸がましいかと思っていた美弥だが、今は素直に笑って頷くことが出来る。控えている和木は頭を下げたままだ。
「美弥は帝都で生活していた頃は、どのような毎日だったんだ?」
「学院へと行って……帰りは馬車だったけど――あっ、昔と今は違うかもしれないよ」
「ん?」
「僕は昔通っていた頃は、帝都で大道芸人というのを、あんまり見たことがなかったんだよ。でも、最近は馬車で帝都を通る度に見てるから」
美弥が雑面姿の大道芸人を思い出して笑顔を浮かべると、晴斗が小首を傾げた。
「大道芸人? 俺もあまり見た覚えは無いが」
「今日もいたよ」
「今日も? それは物珍しいな。気づかなかった。一体どんな出し物をしていたんだ?」
晴斗が箸を片手に問いかけた。思い出しながら美弥が答える。
「ええとね、街には不似合いな燕尾服――本物に見えたけど、どうなのかなぁ。誰も不思議そうじゃなかったから、ただの衣装なのかも、珍しいし。とにかく燕尾服を着ていて、それでね、顔に雑面を付けているんだよ。それで、操り人形の出し物をしていたよ」
美弥が笑顔で述べた時、晴斗が目を見開き、凍り付いたような顔をした。瞬時にその場に冷気が溢れた感覚。威圧感に近い緊張感が、場を支配する。驚愕した表情に変わった晴斗が、美弥の顔を凝視している。
こちらも思わず驚いて、美弥は硬直した。完全に気圧されていた。晴斗は驚愕したように美弥をじっと見たままで、箸を置くと手をきつく握る。
晴斗の顔が青ざめている。
「……っ」
それから晴斗は、美弥の隣に足早にやってきて、美弥の肩を両手で強く掴んだ。痛いほどだった。
「確かに見たのか?」
「う、うん……」
「見ただけか?」
「うん……」
「なにもされていないんだな?」
「……いつも、晴斗と一緒に馬車に乗っていたよ……?」
「何故その場で言わなかっ――……いいや、責めるつもりではない。違う。伝えていなかった俺が……とにかく美弥が無事でよかった」
晴斗は固い声でそう述べると、美弥を抱きしめた。
「晴斗……?」
「それは――ヒトではないんだ。だが、力が強すぎるあやかしであるから、一般の人間にも視認可能な怪異だ。その風貌をしている存在は、特殊危険指定あやかし手配書・深緋に分類される、この国で五体だけ指定されている非常に危険な怪異なんだ。雑面と燕尾服の怪異、それは――【薬売り】だ」
それを聞いて、美弥は目を見開く。そういえば、操り人形の下には薬種が入っていそうな箱が置いてあったようにも思う。
「本当は危険だから、美弥には絶対的に関わってほしくはなかった。だが、こうなれば、知らない方が危険だ」
「……【薬売り】……?」
「そうだ。非常に危険な五体の怪異の内の一体だ。次にその姿を見たら、俺が一緒なら俺に必ず伝えてくれ。そうでなければ、とにかく、逃げるんだ」
真剣な顔で鬼気迫る様子の晴斗に、ギュッと手を握られる。何度も美弥は頷いた。
「ここの所、居場所が掴めないでいたんだ。そうか……帝都に。っ、俺はすぐに軍部に報告へ行く。見回りを強化しなければならないからな。美弥、悪い。行かなければならない」
「ううん……僕がもっと早く話していれば……」
「いいや。美弥は今、こうして話してくれた。なにより、無事でよかった」
最後に美弥を抱きしめてから、晴斗が立ち上がる。
「和木、残して申し訳ないが、いかなければならない」
「もったいないお言葉です。また、腕によりをかけて今後もご用意させていただきます」
晴斗が頭を下げている和木に対して、何度か声をかけた。その後は、改めて美弥を見て、美弥の頬に触れてから、足早に部屋を出て行った。
そのまま残った美弥は、自分だけでもきちんと完食しようと考えて、箸を動かす。本当は、晴斗のめったに見ない動揺に当てられて、食欲が消えかけそうだったが、和木が丹精込めて作ってくれているのが分かるからだ。
「おーい、なにかあったのかァ?」
そこへ間延びした声が響き、戸が開いた。見ればそこには雨月が立っていた。
「新鹿鳴館でデートしてきたんだろ? なんだよ、忙しなく兄上も出てったが。喧嘩か? 俺の伴侶に鞍替えするか?」
「喧嘩してないし、僕は晴斗が好きだよ」
「冷たいなぁ。で? 兄上は、どうしたんだ、ありゃぁ?」
「実は……」
そばに座った雨月を見て、美弥は椀の中へと視線を落とす。
「【薬売り】って知ってる?」
「――ま、あやかし部隊の人間で、特殊危険指定あやかし手配書・深緋の五体を知らない軍人はゼロだろうな。出たのか?」
雨月の声が少し低くなったものだから、美弥は顔を上げる。そして小さく頷いた。
「僕が見た大道芸人が、特徴に一致しているという話で……」
「そりゃあ、兄上も焦るだろ。なるほど」
いつになく雨月の顔もまた、真剣だった。雨月は右手で左の二の腕から肩にかけてを押さえるような仕草をしてから、嘆息して立ち上がる。
「美弥は、この家からは暫く一人では出るな。必ず兄上か俺を伴え」
「っ」
「俺も軍部に顔を出してくる。じゃあな。まっ、ゆっくり味わって食べろ。じゃあな」
雨月はニッと笑ってそう言うと、部屋から出て行った。残された美弥は、その後、【薬売り】とはなんなのかについて考えながら、なんとか食事を終えた。
そして、部屋に戻って考える。
「僕には……僕に出来ることをして、待っているしか出来ないよね……ううん。出来ることが少しでもあるんだから、それをこなそう」
再決意した美弥は、早速翻訳に取りかかることにした。この日は、あやかし寄生虫という存在についての論文の翻訳をした。だが、どこか上の空だったのは、否めない。