緑色の扉を開け、ユイは試練の間へと足を踏み入れた。中は暗く、開けた扉から差し込む光以外に光源は見当たらない。その扉が閉まると、完全な闇の中にユイは一人きりとなった。
「……」
ユイは両目ライトを点灯し、周囲の様子を探ることにした。しばらくの間あちこち見回してみたものの、ライトは何も捉えていない。すぐ後ろにあったはずの扉も、気がつけば消失していた。何もない、闇だけが広がる空間。
「シマノは大丈夫かな……」
機械である自身より、凡人のシマノの方が心配だ。ニニィほどではないにしても、シマノもこういう暗いところが決して得意な方ではない。風の魔物を倒した後、亀裂の先の暗闇で情けない悲鳴を上げていた姿が脳裏に過る。彼の試練が違う内容であることを祈りつつ、帰る扉を失ったユイはこの先どうしたものかと思案する。
それは、唐突に始まった。
「取り戻せ」
どこからともなく聞き覚えの無い声が響く。何を、と問い直すより先に、巨大なファンを駆動させるような鈍い重低音が周囲から鳴り始める。
それと同時に、ユイの目の前に一つの光点が灯った。いや、一つではない。光点はあちこちで次々と点灯し、周囲は瞬く間に宇宙の星々のような無数の光点に覆われた。
その光点たちから、光の筋が伸びる。点と点が繋がり、試練の間は網目のような様相を見せていく。ファンの駆動音の高まりに合わせ、空間一帯が一つの膨大なネットワークを形成していった。
その様子を注意深く観察していたユイは、ある規則性に気がついた。……似ている。光の点と線が織りなすこのネットワークは、つい先ほどシマノとの会話の中で「カナミ」について検索したときに見えたもの――この世界の理の一つである、データベースの構造と酷似しているのだ。
「……少し、違う」
眼前のネットワークとデータベースネットワークとを比較し、ユイはその差分を見つけ出した。無数の光点の中に、データベースにはなくて、こちらにはあるものが存在している。
「これを取り戻せ、ということ?」
試練の目的が判明した。この空間に広がる無数の光点からデータベースにないものを探し出し、取り戻すこと。
わかってしまえばあとは容易い。ユイは小さく頷き、顔を上げた。
不意に、ユイは身体に浮遊感を覚える。突然の出来事に戸惑っていると、足元にも光点が出現し、いくつもの線が張り巡らされていく。
ユイは今、巨大な電脳空間の中に浮遊していた。
「取り戻す」
浮遊していようと目的は変わらない。最初の差分となる光点を目指して、ユイは電脳の宇宙へと一歩蹴り出した。
***
……どれほどの間、意識を手放し、取り戻し、を繰り返したことだろう。ムルは石の涙の底で目を覚ました。
暗く深い湖の底。水の重みが身体を水底に圧しつける。身じろぎさえもままならない状態で、ムルの魂はおびただしい怨嗟の声に侵され続けていた。
「これを……受け入れろ、だと……」
頭も、全身も、激しい痛みに襲われ、思考さえも恨みつらみの声の波で押し流されていく。ただそれらにじっと耐える以外、いったい何ができるというのだろう。
「受け入れる……」
繰り返される痛みに慣れてきたのか、おぼろげながらも思考を巡らせる程度の、僅かな余裕が生まれたようだ。受け入れる、とはどういうことなのだろう。止めどなく流れ込んでくる苛烈な感情。その原因である主殺しをしてしまった身としては、謝罪の言葉を伝え続けるほかないように思える。
ところが、いくら必死で謝罪の言葉を念じようと、石の声が鎮まることはなかった。途方に暮れたムルは、再び意識を手放し、また取り戻し、を繰り返していく。
繰り返しながら、ムルはぼんやりと水面の方を見上げた。石の涙。確かここでキャンに自分が地底民であることを明かしたのだったな。あのぽかんとした表情。思い返すとつい笑いがこみあげてくる。だが、嬉しかった。地底民である我を肯定し、きれいだと言ってくれた――。
ムルはある考えに思い至った。もしや、彼らが欲しいのは謝罪ではなく存在の肯定なのではないか? 地底の民は彼らの声を聴き、ともに在らんとしてきた。その在り方こそが、人形として作られた我らに、彼らが望むことなのかもしれない。彼らは、ともに寄り添い悲しんでほしいのではないか?
途切れそうになる意識を懸命に保ちながら、ムルは石の声となったかつての主たちの魂に向けて語りかける。
「我らは、今も地底に暮らし、お前たちの声とともに生きている。この先も、ずっとだ」
石の声が激しさを増す。頭蓋が割れそうなほどの痛みに歯を食いしばりながら、ムルは語りかけ続けた。
「主殺しの罪が消えることはない。我は、生涯全てを賭して、お前たちの意思を汲み、ともに在り続ける」
石の声が凪いだ。束の間の休息にムルの身体が脱力する。沈黙。先程までの騒々しさとのギャップに耳鳴りがする。
暫し静寂が続き、さすがにそろそろ声をかけるべきかとムルが口を開こうとしたとき、石が声を発した。
「おまえのからだを、ちょうだい」
***
赤い扉を勢いよくくぐったキャンは、突如目の前に現れた壁に思い切り激突した。
「いっっっってぇーーーー!!」
鼻を押さえて床に倒れ込みゴロゴロのたうち回っていると、その床がいきなり動き始めた。
「なっ、なんだよこれ!?」
どうやら床はゆっくりと上昇しているようだ。恐らく現代日本で言うところのエレベーターとでもいうべきものにキャンは乗り込んでしまったのだろう。
だが、キャンはエレベーターなど知らない。上昇しGがかかる感覚も今まで経験したことがないのだ。
「なんか……ぐるじい……気持ぢ悪ぃ……」
床に寝そべったまま、キャンは未知の圧迫感にじっと耐え続けた。
やがて、エレベーターはゆっくりと動きを止める。扉が開き、キャンは這う這うの体で外に出た。
そこは、何の障害物もないだだっ広い部屋だった。壁や床の装飾は試練の神殿のものと変わりない。ただ、とにかく広く、向こうの壁が霞んで見えなかった。天井もかなり高く、どれだけ跳んだり走ったりしても大丈夫そうだ。
ふっ、と背後に気配を感じ、キャンはすぐに振り返る。今降りたばかりのエレベーターの扉が跡形もなく消え去っていた。
「しまった、閉じ込められたかっ!?」
キャンは大袈裟に驚き、辺りを警戒して見せた。先ほどのエレベーターでは格好悪い姿を晒してしまったため、せめてここでは勇者らしく振舞おうと考えたのだろうか。
少しの間は気を張って警戒し続けていたキャンだったが、すぐに飽きてしまった。今は床に座り、両足を前方に投げ出して天井を仰いでいる。
そこに、例の声が聞こえてきた。
「打ち克て」
次の瞬間、再び気配を察知したキャンはすぐさまその場から飛び退いた。直後、キャンの座っていた場所に剣の一撃が降る。
二歩、三歩と間合いを取りその相手に対峙したキャンは、思わず自身の眼を疑った。
「えっ、オレ!?」
そこにいたのは、どこをどう見ても紛れもなくキャンだった。いや、まだ一応兄弟の一人という可能性も残ってはいるか。
そして、驚いたのはキャンだけではなかった。
「オレじゃん!! なんで!?」
なんと相手もキャンの姿を見て驚いている。つまり、ここにいる二人のキャンはどちらも兄弟などではなく、自分がキャンであると信じているようだ。
「つまり、ニセモノに勝てってことか?」
とりあえず、相手が剣を持っているのだからこちらも持った方がいいだろう。キャンは腰に提げた剣を抜き放ち、その重みにふらふらと前方へつんのめった。
その様子を見たもうひとりのキャンがゲラゲラと笑っている。
「ニセモノはそっちだろ! 剣も持てねーヤツが勇者なわけねーじゃん!」
そう言ってもう一人のキャンは高々と剣を掲げる。どういうわけか、あちらのキャンは剣を自在に扱えるらしい。
これは大変なことになった。このままではこちらのキャンの方がニセモノとして倒されてしまいかねない。
「やべーぞ、これ……」
「じゃーな、ニセモノ!」
剣を構え、一直線に斬り込んでくるもう一人のキャンを前に、キャンは起死回生の打開策を考えなければならない。