文字は、読めなかった。
他の場所もにじんではいたけど、かろうじて読めた。けど……ここだけは、読めなかった。
涙が、ページを濡らしていた。名前は、わからなかった。
手記は、そこで終わっていた。きっと、死ぬ直前まで書いていたのだろう。
最後の方は、もう文字が震えていた。死の前の時まで、この人は、彼のことを忘れてはいなかったのだ。
『じゃあね、元気でね』
……それから月日が経ち、私は教会に捨てられた。預けられた、なんて前向きな表現はしない。
私は、捨てられたのだ。でも、教会での生活は楽しかった。
そして数年が、経った。
もうとっくに、手記のことなど忘れていた。覚えていたとしても、自分には関わりのないことだ。
あの手記が保管されたままということは、三千年もの間、私の先祖は誰一人として、その"不老"さんに会えなかったのだ。
だから、私には関係のないことだ。関係のないことの、はずだった。
……"不老の魔術師"。そう呼ばれている、男の人が、薬屋をやっていると聞いた。どうやら、この国に来たばかりの旅人らしい。
その名前を聞いた瞬間……あの手記のことを、思い出した。
そして、不思議なことだけれど……読めなかったはずのあの名前が、ふと当然のように思い浮かんだ。
『レイ』
私は、魔術師さんに会いに行った。
薬屋をやっているという……だから、その場所を調べた。
そして、彼が泊まっているという宿も調べた。
早く会いたかったから、時間帯も考えずに彼の下を訪れた。
彼は、手記に書いてあった通り……"不老"という『スキル』を持った、優しそうな男の人だった。いや、あの時は不機嫌そうにしていたかもしれない、今思えば。
夜遅くの訪問者に、イライラしていたのかもしれない。
ただ、この人と、仲良くしたい……そう、思った。そう思ったのは、手記に書いてあった想いに共感したせいだろうか。
それとも……私自身が、そうしたかったからだろうか。
『まじゅつ師さん!』
ただ、一つ言えることがある。
魔術師さん……いや、レイさんに会いに行ったのは、確かに手記の存在によるものだ。
手記に導かれた、と言ってもいいかもしれない。
だけど、その先……レイさんと一緒にいたいと思ったのは、手記の意志じゃない。
私の、意志だ。
「……」
彼は、時折とても寂しそうな顔をする。その顔を見る度に、私の胸は、きゅっと締め付けられた。
思えば、彼と初めて会ったときから、妙な胸の高鳴りを感じていた。
それは、使命感だったのだろうか。随分昔に見た、手記。
しかも、まだ物覚えのよくなかった子供の頃に、見たものだ。
だけど、レポス王国で……"不老の魔術師"の情報を聞いて。私は、胸の高鳴りを感じたのだ。
会わなければならない、会って、それから……
『あ、は、はじめまして、まじゅつ師さん!』
私は、彼に会ったのだ。
手記の内容、いや存在自体を忘れていた私が、その名前を聞いた瞬間、飛び上がりそうなほどに震えたのを、今でも覚えている。なんでだろうか。
幼い頃に見た、手記の内容。それも、もう三千年以上昔に書かれたもの。
先祖とは言っても、そんな昔の人なんてもう他人のようなものだろう。そんな人が書いたものに、なにを思ったのか。
……きっと、震える手で書いたそれが、涙で滲んだそれが、
その手記を書いた人は、きっと、私が思っている以上に、レイさんのことが好きだったのだろう。
そして、その『好き』という気持ちが、意味が、特別なものだというのが、今ならわかる。
『私には好きな人がいた』
その人は、いつか子孫の誰かが、レイさんを一人にしないさせないために、その手記を書いた。けれど、おそらく子孫の誰も、レイさんには会えなかった。
中には、本気で探そうとした人や、逆に無関係を貫き通した人もいたかもしれない。
そんな中で、私が……両親から捨てられた私が、レイさんと出会った。
両親との関係は切れ、あの手記との関係も切れた私が……彼と、出会った。
『こんなことって、あるんだ』
けれど……レイさんは、自分の『スキル』のことを気にして、近いうちに私にも離れろと言うだろう。
リーズレッタさんにそうしたように。けれど、なにを言われても離れてやるもんか。
一人には、しない。これは手記に書いてあったからじゃない。私が、そうしたいからだ!
……ただ、私がなにを言っても、傾いてくれない可能性もある。その場合、どうしようか……
……無理やり迫って、あんなことやこんなことなんかで、レイさんを離れられなくする……とか。
いやいやいや、そんなことはさすがに……でもまあ、そういうことも、考えておこう。
『……』
ともあれ、あの手記は、もう私の手に渡ることはないだろう。
元々家にあったが、私を捨てた両親が国を出る際に一緒に持っていったのか、家に置いていったのかはわからない。
どのみち、もうあの場所に戻ることはないのだ……私の手に渡ることは、ない。
つまり、あの手記はもう、多分、その役割を果たされることはないのだろう。
両親が手記を持っていって、新しく私の弟か妹でも作らない限り。悲しいことだけど。
だから、手記との関係が切れ、なんの関わりもなくなったはずの私が、彼と出会ったことは……これは、運命ってやつなのだろうか。
もしそうなら、なんだかくすぐったくて……ちょっと、嬉しい。
運命だなんて、なんだかロマンチックじゃないか。この出会いは運命。そして、私は彼から離れない。
私は私の意思で、レイさんと一緒にいるんだ。