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第二百十話 自滅

 いつの日だったか。


 天王寺玄水が体調を壊したことによる一時的な指導員として、天王寺家と所縁ゆかりのある棋士が道場にやってきた。


 名前は『瑞樹』という、女性だった。


 どこか気高い雰囲気を纏ったその女性は、見た目よりも優しい指導で天王寺道場の生徒達に将棋を教え始めた。


 生徒達の平均段位は二段前後、級位者も少なくはないこの道場では、個々の考え方が一律にまとまることは早々ない。


 しかし、瑞樹の指導は凄かった。


 階段を上る者の背をどこまでも押してくれているかのような、走る手を引っ張ってくれているかのような、そんな前進する自分を感じられる不思議な導き。


 今後の長い対局の果てで得られるような新しい知見と発見を、たった数日のうちに体感させる魅惑のような手ほどき。


 蝶のように美しく舞い、気付けば目で追ってしまう瑞樹の指し方は、彼女の師である前期の棋聖から皆伝されたものだった。


 そんな瑞樹の棋力は、全国クラスのアマ高段者とさほど変わるものではない。替えて瑞樹の勝因を上げている理由のひとつが、その美しさに目を引かれる指し手──を、利用した死角からの悪手誘い。


 それはトリック。──いわばは騙し手ハメ手の一種である。


 瑞樹は勝負勘が他人よりも非常に優れていた。


 盤面を見ただけである程度の候補手を理解し、その盤面を築くまでの相手の棋譜を考慮しながら次の一手を完璧に言い当てる。彼女の指す悪手はとても自然体で、非常に美しい毒があった。


 善悪に囚われた現代将棋に逆行するかのような指し手、同じような思想を持つ天王寺道場とは少し違う、表裏ではなく両面に並ぶような似て非なる相違そうい


 紙吹雪のように散らばった盤上を独自色に染め上げる。そんな瑞樹の指導は、玄水の指導に飽きていた生徒にとっては十二分な魅力である。


 唯一のデメリットがあるのだとすれば、彼女の指導に感化された者達が、いずれその手を失ってしまう恐怖におびえ始めたことだった。


 瑞樹の指導は臨時であり、玄水の体調が戻ると同時に居なくなる。


 彼女は自身の道場を持っているわけでもなく、今回は玄水に頼まれて特別に来てくれただけ。望むだけの時間、その知恵を享受できるわけではない。


 背を押してくれていたその手が突然消えるのは、加算されていた力が抜け落ちるようなものだ。


 彼女を失うことに悲しむ生徒は非常に多かった。


 しかし、そんな生徒達の別れを惜しむ声を聞き届けることもなく、瑞樹はたった1週間という短い期間であっという間に姿を消した。








 ──小笠原は魅入ってしまった。邪道と言ってもいい。


 瑞樹が道場から姿を消して数週間、天王寺道場に異変が起き始める。


 玄水の教えをそのまま受け継ぎ、天王寺の特色に染まろうとする者。瑞樹の考え方に迎合し、これまでの型を変えようとする者。


 そう、生徒達は『天王寺流』と『瑞樹流』に分かれ始めたのだ。


 二つの流派、その違いはいくつもある。


 例えば初手、現代将棋では飛車先を突くのが機械的な最善である。しかし、戦法を固定することを是としない玄水は頑なに初手角道を開ける手を推していた。


 対する瑞樹の初手は▲4八銀の銀上がり、後手も同様である。


 これは飛車先の歩交換をする際の角頭を受けない現代流に倣いつつ、飛車先を突かないことで右四間飛車の余地を残した手であるという。


 他にもいくつか駒組みの違い、筋の違いがあるものの、二人を明確に分かつ思想はたった一つだった。


 ──玄水の教える『天王寺流』は、"優勢を感じたら受けに回れ"、というもの。


 優勢になるということは、当然相手は劣勢になっているということ。そして、劣勢になると勝負手を指す頻度が多くなり、比例して悪手も出やすい。


 だからこそ冷静に対処することで、わざわざ攻めに出なくとも勝手に形勢が良くなっていく。


 ──対する瑞樹は、"優勢になったら攻勢せよ"、というものだった。


 理由はうっすらとしか覚えていない。それまで噛み砕いて理路整然と優しく教えていた瑞樹が、突然あまりにも難しい論理と言葉の羅列で話すものだから、当時まだ小学生だった小笠原には理解できなかった。


 しかし、小笠原は『瑞樹流』に迎合することに決めた。小笠原自身の高飛車な性格が、瑞樹の放つ強気な指し方に非常に共感を覚える点が多かったからだ。


 そして、そんな小笠原の当時の親友──小鳥遊美優は『天王寺流』だった。


 二人の仲に亀裂が走った。小さな亀裂だ。仲違いするほどでもなく、嫌味を言い合うほどでもない。ただ好みが違うのに、同じ飲食店で食べなければいけないくらいの小さな嫌悪感。


 そもそもとして、『○○流』など、当時の天王寺道場に在籍していた子供たちが勝手に作り出した、いわば創作である。


 一定の時間道場に通い続ければ、少なからず師範の癖が生徒に移る。今までは玄水の教えこそ絶対という認識で創り上げていた棋風に、瑞樹という新しい異物が混入してしまったせいで、これまでの棋風が変化した。


 その変化に対局している者達は当然気づく。そして、その変化した差異を言語化するのに"流派"という単語は非常に使い勝手が良かった。


 だから、生徒達の間でそんな二つの流派が確立していったのだろう。








 ──小笠原は、女流棋士など目指していない。


 ただ、親友である小鳥遊美優と一緒に駄弁って遊んでいられれば、それでよかった。


 当時、まだスマホすら買い与えてもらえなかった小笠原にとって、美優と出会えるのは道場の時だけである。


 美優とは同じ学校ではない。当時の天王寺道場は他の地区からも生徒がやってきていたため、彼女がどこに住んでいるのかもわからない。


 いついなくなるかも分からない彼女に、せめて住所だけでも聞きたかった小笠原は、ここ最近上の空で話を聞き入れてくれない小鳥遊美優の杞憂、その払拭の機会を見定めた。


 ……それが、天王寺道場の内部試験である。


 当時道場内で一番と言っていいほど強さを発揮していた美優は、この試験での圧倒的な優勝候補だった。


 きっと優勝すれば、彼女は道場からいなくなってしまうだろう。彼女の目標は女流棋士、自分達とは違う世界に行こうとしている。


 だが、それは良い別れだ。嬉しさを噛み締めた希望の退出である。


 だから、小笠原はその時に彼女と──小鳥遊美優とこれからも友好的な関係性を持ちたいことを伝えるのだと、決意した。


 当時の美優は既にこの天王寺道場の内部試験を3回も受けており、年齢的にもこれが最後の試験である。


 試験開始から数時間。迫りくる猛者おとなたちを、美優は次々と倒していく。


 天王寺玄水の教えを真っすぐに受け継いだ彼女の驚異的な戦術は、当時県大会の常連だった四段の生徒をたった2桁の手数で打ち倒した。


 その瞬間、道場内で格付けが済んだように空気が一変する。


 誰も小鳥遊美優を前に威勢を張らない。諦め、勝機を無くし、肩の力を抜いた。


 多くの努力には確かな結果が伴うべきである。掛けた時間には相応の価値が与えられるべきである。


 だから、誰も小鳥遊美優の勝利に不満を抱いたりはしなかった。


 流れまで手にした彼女の背に敗北の文字はない。本人自身も、きっとそう感じていただろう。試験の途中から、誰もが彼女の優勝を信じて疑わなかった。


 ──そんな美優の前に現れたのが、それまで何の成果も残していなかった一人の"少年"だった。


 普通なら指すことを躊躇う手を悉く指していき、それによって敗者の烙印を押されようとも一切諦めない。そんな不屈と不気味を兼ねた少年。


 周りが『天王寺流』やら『瑞樹流』やらの話題で持ち切りになっている間、少年はそのどちらにも迎合しなかった。


 少年の初手は──▲5八玉。指先を心臓に触れ浮かせる。道化を演じるにはあまりにも若い手の色。


 少年が指した手は、玄水が教える『天王寺流』でも、瑞樹が教える『瑞樹流』でもない。


 あえて言うなら──それは"自滅"だ、"自滅の型"だ。


 これを初心者が指すのであれば理解できる。癖の強いアマチュアが指すのもまた、ある程度は理解できるだろう。


 しかし、敗戦を繰り返してもなおその初手を指し続ける様は、もはや一種の狂気に等しい。


 少年──渡辺真才は、その時もまた同様の手を繰り出した。


 自らの命を捨て石にするかのような、恐怖の欠片も抱いていない手で周囲をざわつかせる。


 結果がある程度分かっているとはいえ、この大事な場面でそんな『頓珍漢とんちんかんな手』を指す意味が分からない。


 だが、それまでまともに扱えていなかった背水の戦い方は、運悪くこの日に覚醒を果たすことになった。


 真才の手の質が明らかに向上している。


 読みも、冴えも、勘の鋭さも、何もかもが別人のよう。この男と自分達の成長の差に明らかな隔たりが生まれ始める。


 理由はひとつしかない。


 自分達が遊んでいる間も、流派などという型の流行り廃りで持ちきりになっている間も、真才はずっと盤と向かい合っていた。


 ──ただひたすらに、積み重ねていったのだ。


 勝利に囚われず、負けることで得られる弱点を幾度も理解する。自ら考え、練度を上げ、一種の型へと派生する。


 ……美優の目は揺れていた。


 渡辺真才の胆力が、狂気が、無敵の思考を持った者を前にするかのような圧迫感に思考がまとまらなくなる。


 ──だって、誰も『自滅流そんなモノ』の対策をしてきていない。


「嫌だ……っ」


 たった一言、美優が口にした言葉はそのたった一言だけだった。


 50分にも及ぶ大激闘。しかし、蓋を開ければほとんど独走状態で勝利した真才は、美優に勝った事実など気にも留めず、飢餓に苛まれた獣のように他の生徒達とも連戦を繰り広げ始めた。


 ──結果、15戦15勝でその少年、渡辺真才だけが試験唯一の合格者に選ばれた。


 対する小鳥遊美優は15戦14勝、真才にだけ敗北する結果となった。


「──ッ」


 何が間違っていたのだろうか?


 そんな問いかけをしたのは小鳥遊美優ではない。或いは、小笠原が小鳥遊美優の気持ちに同情して放った言葉でもない。


 目元を腕で拭うように走って道場を去る親友の手を引き留められなかったことでもなければ、その日以来、小鳥遊美優が二度と天王寺道場に顔を出さなくなったことでもない。


 蚊帳の外で、その様子を見ているだけの"無力な自分"が、二人の世界に欠片も踏み入れることができない事実が、濁った感情を増幅させた。


 ──違う、本当に苛ついたのは。


 ※


 明日香はその眼をよく知っていた。


 怒りをぶつける矛先を本能的に間違えてしまっている眼──。


「え、な、なに……?」


 困惑する明日香は、状況が把握できず小笠原を二度見する。そして、真才の方を見上げ、再度自分がどういう体勢になっているのかを自覚して目を見開いた。


「あーあ、やっちゃったねぇ? まさか天下の自滅帝サマが裏で選手を脅して棄権させようとしていたなんて、他に知られたらどうなるんだろうね?」

「ちが、あたしはそんなこと……!? あ、あんた、ふざけ──!!」

「あーあー、脅されてそんな言い訳も仕込まれてるんだ? カワイソー」


 明日香の言葉に被せるようにして嘲笑う小笠原は、手に持ったスマホの録画機能を止めて真才と明日香の前に立ちふさがる。


 何をやっていたのかをこれ見よがしに見せつけるように。


「これ、アンタはいくらの代償を払って削除する?」

「……」

「まって!!」


 明日香が崩れそうな体を必死に支えながら立ち上がる。


 向けられたスマホのレンズがあの時の絶望をフラッシュバックしてくるが、それでも気にせず二人の前に立った。


「あたしが、あたしが弁明する! これはあたしが自発的にやったことだって! それで……あたしが……あたしが、以前やったことも全部自白して正直に話すから!」

「あはははっ、ムダよ、無駄。ネットにばら撒くもの」

「なっ……!?」


 それをしてしまえばもう後の祭り。どれだけの証拠や正論が生まれようと、風向きを変えるのにどれだけの行動が必要なのか、明日香は誰よりも分かっていた。


 何より、弁明する材料が"盗撮"の一点しかない。尻尾を切って逃げられるのが彼女のリスクを大幅に減らしている。


 ……いや、そもそも問題はそこではない。


 ──小笠原の目の色は、もはや"死なばもろとも"状態だった。


「……」


 真才は顔色を変えず小笠原を見る。


 突然の横やり、突然の幕引き。これにはさすがの真才も状況が整理できないだろうと、明日香は目を右往左往させながらなんとか頭を回転させる。


 だが、小笠原はそんな明日香に興味すらない。あくまでターゲットは真才だけと言わんばかりに、嘲笑を含んだ睨みを利かせる。


「やけに大人しいわね? それとも怖くなっちゃった? アンタ、昔からアタシにイジメられても抵抗しなかったもんね」


 小笠原の言葉を受けても微動だにしない真才。何を考えているか分からないその表情は、明日香に既視感を抱かせた。


 僅かに間を置いて、真才は疲れた目で息を吐いた。


「……君が自滅狩りを名乗る以上、盤上で戦うのを楽しみにしていたんだけどな」

「あはははっ! アンタバカなの? アタシが自滅狩りなわけないじゃん! まあ、こうして自滅帝アンタを狩っちゃったわけだから、ある意味アタシが狩人なのかもねー?」


 焦燥か、投げやりか、瞳孔が開いた状態でハイになっている小笠原にもはや躊躇いなどない。


 やっと目の前の獲物を処理できる。それどころか、自分の好きなようにできる。そう思い込んだ小笠原に、もう視線すら向けなくなった真才がいた。


「小笠原」

「なに? さっそく懇願の用意ができた?」


 ──刹那、顔色が急変したのは、小笠原の方を見ていた明日香だった。


「……狩人を名乗る道連れにしたいなら、帽子くらい被った方がいい」


 真才はそう告げ小笠原の頭上を一瞥した後、興味を失ったように出入り口のドアへと歩みを進めた。


「……は? てか、ちょっと、どこ行くのよ。話はまだ終わってないんだけど? おい、渡辺、勝手に去るな──」


 その言葉を言い終える前に、小笠原は背後に人の気配を感じた。


 ゾクッとした。──否、死に感じる気持ちの悪い寒気のようなものを小笠原は感じた。


「──やぁねぇお嬢ちゃん、青春アオハルに割り込むのは重罪よぉ?」

「……え?」


 小笠原が振り返ると、そこには自分の倍近くのガタイを持った大男が立っていた。


「──もう帰るのね?」

「帰りますよ。涼みに来ただけですから」


 そう言って消えていく真才を、小笠原は追いかけることもできないほどの圧を背後から受ける。


「だ、だれっ──」

「はぁい、自己紹介が遅れました。『第十六議会・第6議席大変お世話になっております』。ここのオーナーの"不知火"と申しますー」


 男の名前を聞いて、小笠原は絶句する。


「あ……あっ……」


 それは、自分とは明確に対立している派閥の幹部トップだった。


 不知火は天井に迷彩が施された小型の防犯カメラを親指で指さすと、小笠原にドスの利いた声を放った。


「んふ♡ ──要件は分かってるよな?」


 ※


 アスファルトすら悲鳴を上げるほどの昼過ぎの日差しが過ぎ、橙色の光が海辺に反射する夕刻の時間。


 喧騒も止んで多くの選手や観光客が施設の中へと帰っていく中、西ヶ崎将棋部の面々は静寂が包む海の上で楽しく遊んでいた。


 ……女性陣の壊滅的な死んだ目を除いて。


「……」

「……」


 ドーナツ型の浮き輪に腰を乗せ、優雅に足を延ばしたままつまらなそうにしている東城。


 同じくドーナツ型の浮き輪に腰を乗せ、頭をのけぞらせて死体のように浅瀬を漂う来崎。


 そして──。


「真才先輩真才先輩真才先輩真才先輩真才先輩真才先輩真才先輩……」


 イルカ型の浮き輪に項垂れながら、壊れた機械のように同じ単語をぶつぶつと呟き続ける葵。


「……うわ、なんじゃこりゃ」


 串に刺したイカ焼きを人数分買ってきた高木は、悲惨な状態で海に浮かぶ女性陣を見つける。


 同じく食べものを袋詰めにして買い終えた隼人が後ろから来ると、東城たちを一瞥して"あー"と声を漏らす。


「おう、隼人か。なぁ、お嬢さま方はなんであんな風になってんだ?」

「東城はやることなくて暇に殺されてる。来崎は今日一日ずっと渡辺と将棋戦争をして一戦も勝てなかったんだと。葵玲奈は……ミカドホルモンが供給できなくて死ぬらしい」

「もしかしてオレ入る部活間違えた?」

「来るもの拒まず、去る者逃さず」

「入ってから地獄見せるのやめてくれよ……」

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