第一服 三午生休(弐)
午を三して休を生む
千屋は、戦乱に巻き込まれ流浪した与右衛門が斗々屋の番頭となり、婿となって岳父・左兵衛の援助で興した商家である。才覚があったのか、瞬く間に商いを広げて納屋衆となり、三十六人衆に名を連ねた。近頃は与兵衛に店を預けて隠居し、茶の湯三昧と洒落込みたいと零している。
与右衛門は仙波(大阪市中央区船場)の生まれであり、仙波は千波とも書かれるので、「千」の字を取ったのだと与右衛門は吹聴している。斗々屋の斗は柄杓枡のことであり、容量の単位だ。二つの斗を通して量り売りをするのは油で、ゴミや不純物の混入を避けながら、量をきちんと量るためには相応の技術が要る。左兵衛は既に亡く、義兄・与左衛門が家を継いでいた。
与右衛門は妻帯したのが遅く、子供は与兵衛だけであったから、大事にはされてきた。ただ、与右衛門はあまり家庭を顧みず、仕事に明け暮れる毎日で、余り一緒に居た記憶はない。それ故、与兵衛は与右衛門が茶の湯に興味があったことを知らず、蔵を検めた時に驚かされた。若い頃、京に居たと聞いているので、その頃に習ったものだろうか。
茶の湯は近頃、堺の納屋衆の間で流行り始めたもので、元々は京都の武家それも公方や大名の周辺で行われていた。闘茶から賭け事の要素を無くし、唐渡りなどの珍しい器物を観て、愉しみながら茶を飲むのを主体とする遊興である。これを大和(奈良県)から出た村田珠光が今様に改めて、町衆にも馴染めるようにした。高価な唐物だけでなく国焼の茶道具も使われる茶の湯を侘数寄という。この頃、国焼といえば六古窯――瀬戸・丹波・信楽・備前・越前・常滑であるが、珠光が取り上げたのは備前と信楽であった。
この頃、堺で一番の茶の湯巧者といえば、天王寺屋助五郎――津田宗柏だ。京都で村田珠光に茶の湯を直伝されており、弟子は四〜五十人ほどもいる。まだ息子が若く、隠居ができぬと嘆いていた。表弟の新三郎も茶の湯が得意で宗伯の戒名と引拙の号を得ており、中継ぎを任せたいらしい。
与兵衛も天王寺屋助五郎の手解きを受けてはいるが、身になりそうもないと、自分では思っている。ただ、納屋衆や大名家との付き合いに茶の湯は欠かせないため、仕方なくやっているだけだった。それ故、目利きや宗匠を目指そうとは思えない。
半刻ほどまえ、妻の紗衣が産気づき産婆を呼んだのだが、厳しい顔で長く掛かると早々に母屋を追い出されて所在なく、座敷に籠もるしかなかった。
一番上の多呂丸が今年六歳になったとはいえ、二番目は二歳にもならぬ内に鬼籍に入り、三番目は生まれてまもなく母親を連れて逝っている。男寡夫では不都合が多かろうと周りに言われ、二年前、斗々屋の親戚筋から紗衣を後添えに迎えて、初めての子供なのだ。
若い与兵衛にも悩みはある。それは兄弟が居らず、子が少ないことだ。何かあったときに六歳の子供が一人では何か困る上、商売は兄弟がいた方が心強い。分家するにも身内が安心だ。備中屋の湯川家は代々子沢山で現在では十六の分家すべてが会合衆に名を連ねている。田中家もそう有りたいと与兵衛は思っていた。
その上、後添えとはいえ正室である紗衣のことも考えれば、長男には別に店を構えさせ、新しく生まれる子供にこの店を譲るのが無難だろうかとも思えた。いや、逆に紗衣とその子を分家させるか。
「まだ……男子と決まった訳やあらへんけどなぁ……」
しかも、多呂丸はまだ六つである。海の物とも山の物ともつかぬ童だ。与右衛門健在の今、事を急くこともありはしないと独り言ちて頭を振った。
紗衣がまだ子をなしていないころ、使用人の中には「後添えさまは石女でございましょう」などと、多呂丸に追蹤するものがあった。多呂丸は歳相応の正直な性格であったから、そのまま与兵衛に伝える。そこまで見越してのことかどうかは分からなかった。