同朋衆というのは、時宗の者たちが敵味方を問わず死者を弔うために従軍したことに始まる。このため、伝統的に奉行は皆、阿弥号を用いていた。しかし、これは時宗の帰依者と限った訳ではなく、室町時代には大徳寺に帰依した者もあれば本阿弥家のように一家で法華宗に帰依した者も居る。
鎌倉幕府に保護された時宗は、関所御免(関所の通過自由)の特権を与えられていたため、各地で興行する芸能関係者らが帰依することが多く、こうした者を吸収することで、必然的に特殊技能を持つ者が増えていった。
これに目を付けた幕府が書画や唐物などの御物の管理や調度・家具などの選定、儀典・芸能一般を時宗の者らに委ね、彼らを同朋衆と呼んで組織した。権門(宗教的権威)の中では比較的地盤が弱く他宗に対抗できなかった時宗は全面的に協力した。鎌倉幕府を踏襲した室町幕府も同様の組織を引き継いだのである。
「御会所殿の所なら、呼び戻すこともあるまい」
「宜しゅうございますので?」
歳阿弥は玉阿弥が春阿弥に道具の扱いを聞きに行ったのが気に入らないのか、些か不機嫌に言葉を返した。確かに、現在は千阿弥が長老ではある。が、それぞれ相性というものがあり、玉阿弥は春阿弥に親しかった。一応、千阿弥の弟子でもあるのだから、千阿弥に尋ねるべきという歳阿弥の考えも解るのだが。
「好い好い。御会所殿も喜んで教えようほどに、な」
どのみち、千阿弥が隠居すれば、春阿弥が後釜である。歳阿弥が継ぐのはその次になるのは間違いなかった。ここで揉め事を起こすことはない。言外に歳阿弥に伝えている
「畏まりました」
室町殿の同朋衆は先に述べた会所之同朋衆・御供之同朋衆の他、御末之同朋衆がある。
御末とは諸家諸臣等の対面に用いられた奥座敷のことでおり、一応表向きの場所で、右筆や書記、奏者をする同朋衆が詰める。
一般的に同朋衆というと、会所之衆を指す。足利義満公に仕えた刀剣の本阿弥、唐物や書画に通じた
また、この他に河原者と呼ばれた者たちや、観阿弥・世阿弥・音阿弥など外部の能楽者たちも存外自由に出入りしていた。会所之衆の海老名南阿弥などは河原者や役者を手配する惣領である。
毎阿弥は能阿弥の父で、元々朝倉氏に仕えた武士である。しかし、義満公に乞われて同朋衆として出仕した。のち義持公にも仕えた会所之衆である。その能力を買われて御供之衆も兼ねていた。義満の信頼は絶大であり、御供之衆の中で筆頭となった。中尾
毎阿弥の子・能阿弥は義教公・義政公に仕えた中尾
能阿弥の子・芸阿弥は義政公に仕えた中尾
道啓というのは法華宗の在家号である。千阿弥というのは阿弥号から始まった家名だ。義政公以後、同朋衆が世襲化すると必然的に家門化し、それぞれ阿弥号を名字として名乗るようになっていた。阿弥号が時宗の号ではあった時代は遙か昔となって、現在は多種多様な宗派の者が同朋衆として家名化した阿弥号を使っている。
千阿弥は唐物奉行の家である。三代目の道啓は高齢ではあるが、御成のための茶道具、会席家具などの準備に余念がなく、忙しくしていた。