光朽館に宿す
文明七年九月に、政経は出雲の国人衆を率いて上洛、近江奪還を下命された。東軍の支援を受け、観音寺城下で西軍派と戦い大勝する。敗れた六角高頼は観音寺城へ籠城し、京極秀綱は江北へ撤退した。翌十月、土岐美濃守成頼と斯波治部大輔義廉の援軍が近江へ到着し、秀綱は六角・斯波・土岐の連合軍と共に政経らを破り、多賀高忠を京都に逐う。
文明十三年、多賀宗直は政経・高忠と和睦し、秀綱が当主となった。文明十八年八月、政経が再び上洛、宗直が秀綱に叛いたため、秀綱は甲賀郡へと逃れる。十月、反撃した秀綱は宗直を美濃に逐った。翌長享元年五月に宗直が美濃から江北へ戻るも秀綱に討たれる。
六角征伐中の長享二年八月に政経・治部少輔経秀・多賀豊後守経家らが挙兵。秀綱は近江松尾で戦い、政経と多賀経家を伊勢梅津へ敗走させるも、翌延徳元年に近江国人衆の支持を得た政経に敗れ、延徳二年に岳父で美濃守護代の斎藤右馬丞利国を頼り、越前敦賀、次いで近江坂本へ逃れる。だが、京極政経は配下の所領横領を阻止出来ず失脚、明応元年十二月、再び秀綱が当主となった。
明応二年四月、明応の政変で足利義高が将軍に就き、秀綱は偏諱を受け、高秀と改める。同年九月に高秀は斎藤妙純に支援され北近江へ復帰した。
明応五年十二月、斎藤妙純が討死すると高秀も没落、美濃海津に寄留した。明応八年八月、国人衆をまとめた上坂治部大輔家信により高秀は江北へと帰還。家信は文亀元年6月、永正二年の京極材宗の二度に渡る襲撃も退け、同年冬に材宗と箕浦日光寺で和睦し、京極騒乱は終結。高秀は家信を執政に任じた。
大永元年に家信が歿すと、嗣子・治部丞信光が跡を継ぐ。しかし、京極騒動を鎮めた家信の執政を受け容れた国人らも、信光の専横は受け入れ難く、反発が強まった。
翌年、高清の後継者問題が持ち上がる。高清は次子・小六郎高吉を推していたが、これに反発した浅井備前守亮政・三田村左衛門大夫忠政・堀次郎左衛門元積・今井備中守秀信ら江北の国人衆は浅井郡草野郷にある大声寺塔頭の梅本坊で談合して尾上城主・浅見対馬守貞則を盟主とした反信光の国一揆を結び、同三年三月九日尾上城に籠もった。長子・六郎高峰を擁立する取り決めを交わした。
この動きに信光は今浜城に軍勢を集め、尾上城にほど近い安養寺に陣を張った。しかし、浅見・浅井の軍勢に打ち破られ、今浜城に逃げるも一揆勢に追撃され陥落する。今浜城を落ちた信光は、翌四年、刈安尾城にも攻め寄せられ、さらに脱出した。高清と高吉も信光とともに尾張へと落ち延びた。
一揆勢は刈安尾城に留まった高峰を奉じて神照寺に入り、尾上城に迎えて高峰が当主となり、名を高延と改めた。執政には浅見貞則が就く。しかし、浅見貞則も専横が多く、国人らはこれに反撥、浅井亮政は小谷城を築城してこれに対抗し始めた。小谷城は永正十三年に築かれた浅井氏の本城である。
「老獪な備前殿相手では、上平寺殿など赤子の手を捻るようなもの……」
「如何様。暫くは観音寺殿の目は江北に向くかと。其某如きに関煩って居る暇などないかと」
確かに六角定頼の意識は江北の京極領へ向いている。
「彦次郎殿とて、武州殿からの軍催促に御座ろう?」
「いや、此度は京の警固に御座る」
稙綱は意外そうな顔をした。
「警固故、粟屋孫四郎に任せ、某は一人、母の菩提を弔おうと思ってな」
「四郎左殿のご子息か」
元光が肯く。此度の軍勢は粟屋党のみで、元泰を将にしても良かったのだが、勝春を抜擢した。
「で、武州殿は何処に兵を出されなさる?」
「嵐山殿と神尾山殿が南に出立するそうな」
稙綱が首を傾げた。今、南に戦火はない。となれば、援軍ではない香西四郎左衛門尉元盛と柳本五郎左衛門尉賢治の向かう先は――
「和泉か!」
「で、あろうな。和泉上守護家の刑部殿は讃州家に属いて阿波と行き来されておる故」
安堵の表情を見せる稙綱に、元光は少しだけ救われた思いがした。