目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第28話 在宅勤務とおもわぬ誘い


 自宅に引きこもって仕事をするのは、わりと気が楽だった。


 最近では、常に、凪や興水が来るのではないかと思って、気が張っていたのが、全く気にしなくて良くなったからだ。


(あー、あれ、地味にストレスだったんだなあ)

 そう思うと、何故か笑えてくる。


 自分が何にストレスを感じているのかも、実はよく解っていなかったと言うことだからだ。


 それに、仕事中は、好きな音楽を流していられるし、コーヒーを淹れてもいい。随分、リラックスした環境で仕事が出来ることに安堵していた。


 最初の数日、凪と興水から鬼電と鬼メールが入っていたが、半分以上、業務に関係のないことだったので既読スルーを決め込んでいたら、次第に減っていった。


「やっぱり、放っておいたら、なんとかなるんだな」

 とは達也の実感だ。


 放っておいて、そのままにして置けば、きっと、だんだん疎遠になる。


(お前の言う、『運命』なんてそんなもんだよ)

 とは、達也も思う。


 そんな軽い『運命』になど、振り回されたくない。


(そうだよ……俺は、もう、あの人に遊ばれてたときみたいなことにはならないんだから……)


 あの人。

 神崎。


 あの頃、達也は本気で神崎のことを好きだった。だが、それだけだ。達也と同じ気持ちを、神崎は達也に返してくれなかった。


 今では、大企業のトップクラスとして、海外で活躍をして居るというのは知っている。もはや、日本に戻ってくることはないだろうというのが大方の見解だったし、達也もそう思っている。


(あの頃の俺って、あの人にとって何だったんだろう……)

 そもそも、女でも男でもどちらでも良いというのが、神崎の性嗜好だった。それを差し置いても、神崎は、モテる。会社のトップという立場からも、沢山の誘惑があるだろうし、その観点でいうならば、選びたい放題だと思う。だから、右も左も解らないような、新人社員の、しかも男の子と付き合っていたのがよく解らない。


(すこしは、気に入ってくれる部分があったのかな)

 とは、すこし思う。だが、それまでだ。


 結果としては、達也は、遊ばれて捨てられたと言うことだし、それ以上意味はないだろう。けれど、神崎のことを思い出すと、まだ、胸が痛む。


(なんで、あの人のことなんか思い出すんだか)

 記憶から追い出してしまったと思っていたのに、自分の記憶も自分でなんとか出来ないというのだから厄介だ。


「……興水とか、凪が、しつこいからだな」


 自分も、神崎に対してしつこくつきまとっていたのだろうかと思うと、痛々しくて恥ずかしい。あの頃は必死だったから、なりふり構っていることは出来なかった。そういうことだと思えば一層、恥ずかしさが増した。



 ◇◇◇



 在宅勤務の日課としては、規則正しい生活を崩さないために、毎朝起き出して近所をウォーキングするというのを日課に入れてみた。


 その帰りに、コンビニに立ち寄ってパンだけ買って帰る。


 帰宅して、パンを食べつつ、掃除と洗濯を済ませて、コーヒーを淹れる。一日分のコーヒーは、五杯。一人暮らしの部屋には、大きすぎるコーヒーメーカーだったが、神崎と付き合っていた頃に買ったものだ。


 神崎と一緒にコーヒーを飲むために買っていたのを思いだして、げんなりした気分になるのは、最近の日課だ。


 定刻の少し前にログインして、それから仕事に入る。


 提示前に行うのはメールチェックと、それから、今日の予定を立てること。今日の予定は、速やかに直属の上司に連絡しておく。


 在宅勤務をサボリだと思っている人も多いと言うことは理解している。なので、リモートワークをするときには、上司が安心するように連絡を入れておくのがマナーだとは思っていたからだ。


 瀬守はマジメだね、とは言われるが、別に真面目なわけではない。

『サボっている』と思われるのがイヤなのだ。


「えーと、今日の予定は……、電話のアポ取りが五件と、オンラインの商談と……」


 わりあい、人とやりとりする仕事が多そうな日だった。こういう日は、気力が必要になる。気合いを入れて「よしっ」と呟いた時、ぴろんっと音がして、メールの着信が入るのが解った。


「おっ、メールだ、誰だろ」

 差出人を確認して、「あっ」と声を上げた。


 かつて、神崎の勤務する大企業だった。


『大会議補助業務のお願い』


 というメールだった。確認してみると、神崎と出会ったときの会合の運営がスムーズだったことがを思い出して、今年、しばらくぶりに大会議を開催するとなって、業務をお願いしたいというものだった。


 まずは見積もりをお願いしたいと言うことだったので、一度、上司に連絡を取って、先方と打ち合わせをしてもらうことにした。一瞬、神崎の顔が脳裏を過っていったが、神崎は、すでに海外勤務海外在住だ。


 念のため、もう一度、神崎のことを調べてみる。

 大企業のトップクラスともなると、ホームページに名前と経歴が掲載されているのは当たり前のことだった。


 神崎の名前と顔写真は、間違いなく、そこに掲載されている。イギリスの支社、ヨーロッパ方面を任されていると書かれていた。たとえば、何か人事異動があれば、新聞に掲載されるような人たちだ。レベルが違う。


(そういう人たちが、大会議とかには出席しないよな……)

 それに、裏方を任されるとき、トップと交流を持つことはないだろう。


 上司の藤高に相談すると、是非ともやらせて貰おうということだったので、そのまま、話を進めて貰うことにした。


(会議の手伝いとかだけど……いろいろ遣ることあるし頑張らないとだな)

 先方からは、どういう規模でどういう目的なのか、打ち合わせる必要がある。目的によっては、下調べや準備、会場の手配なども必要になってくるだろう。


 神崎の会社、ORTUSは様々な分野に手を伸ばしている。小売り、製造、販売、IT……達也にも全容が掴めない位の大きな会社だというのが印象だが、その会社が『大会議』という形で何かを企画するならば、それは、かなりの大きな会議になるだろう。


 何系の会議なのか、なんの目的なのか。会社や業界の動向も掴まないと……。

 やらなければならないことは、山ほどありそうだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?