「凪………っ!!!」
凪に駆け寄った瞬間、凪に突き飛ばされる。凪の右腕は、神崎に切りつけられて傷が出来ていた。それほど深い傷ではないのだろうが、スーツに、血が滲んでいる。
「瀬守!」
駆け込んできたのは、藤高と池田だった。池田は、凪の方に向かう。藤高に「まずは、お前はここを離れろ!」と言われる。
池田が、神崎の手をねじり上げた。神崎の手から、ナイフが、ぽろり、と落ちた。
「……とりあえず、店の人が、警察と救急を呼んでます。あと、動画撮影中で、ORTUS社の方とも実況中です」
そう言いながら、スマホを構えつつ部屋に入ってきたのは、朝比奈だった。
神崎は、池田や興水たちに押さえつけられて、畳に押しつけられていた。
「……凪っ! 大丈夫かっ!!」
神崎が取り押さえられたのだから、もう、安全だ。そう判断して、達也は、凪の所に向かう。
ハンカチを取りだして、傷に当てておく。
「……むり……して……」
手が、震えた。なんと言っていいか、解らなかった。
「なんでだ、達也っ! 達也……っ!!」
神崎が、叫んでいる。
「お前は、俺の恋人だろう、達也……っ!!」
畳に押さえつけられながらも、まだ、状況を受け入れようとしない神崎は、ひたすら、叫んでいる。
達也は、ぞっとした。
周りの人たちも、しらけた目で見ている。
「……俺より、そっちの子ネズミがいいなんて……そんなわけがあるかっ!! ああ、殺してやれば良かった!! 放せっ!! 殺さなきゃ気が済まないっ!! 俺を誰だと思ってるんだよっ!!!」
叫び続ける神崎は、あわれなほどだった。
「おい、オッサン」
凪が、神崎の前に立って、見下しながら言う。
「オ……オッサン、だと……っ!?」
「老害、セクハラ、パワハラ、ナルシストのオッサン以外に、あんたをなんて呼べば良いんだよ。……本気で、気分悪いわ……」
「うるさいうるさいっ!! お前らは、俺の言うことだけ聞いていれば良いんだよっ!!」
「達也さんの人生に、二度と関わるな」
サイレンの音が近付いてくる。
警察が来ているのだろう。そして、救急車の音もしている。
「お前のお迎えが来たみたいだぞ」
それを聞いた神崎は、なぜか、勝ち誇ったような顔をしている。
「? お前のお迎えだけど、頭、大丈夫そう? ……あのさ、あんた、達也さんの誘拐とか、俺への傷害とか、結構やらかしてるからね? いままでの会社だったら、『今後も良いお付き合いを』とかでごまかされてるんだろうけど、うちの社長、あんたの所とヤッちゃっていいって話だから。徹底的にやらせて貰うよ」
神崎の顔から、血の気が引いて行った。
自分はどんなことをしても、罪に問われないとでもいう気持ちだったのだろう。
「瀬守の上司ですが、あなたのしたことは、可能な限り、訴えますよ」
藤高も、たたみかけるように言う。
「あら、神崎様。うちも、こうして荒事を起こされて迷惑しましたから……迷惑料を頂戴致しますね。それに、神崎様が壊した器……、それなりのお品ですからね。そちらの弁償も頂きますね。それと、今後、神崎様と、ご紹介の皆様は、全てご利用をお断りさせて頂きますから―――ご紹介の皆様方の、未払いの分は、神崎様の方で立て替えてくださいまし」
神崎が、目を丸くしている。
「でも、神崎さん、年収億でしょ。その程度、何でもないんじゃいの?」
池田が、言うと「あら、大金持ちって、結構、ケチなものですよ。自分の分も払いたくないという人も居ますし、まして、他人の分なんて払いたくないでしょうね。……実は、そろそろ、ご相談させて頂こうと思っていたんですよ。ご紹介の皆様、払いが悪くって」と、女将が、ころころと笑っている。
騒ぎを聞きつけて、他の部屋にいた客達が、野次馬をしているのを見越しての言葉だろう。
「料亭の皆様……本当に、ご迷惑をおかけ致しました。おかげさまで、けが人は出してしまいましたが、誘拐された社員は、無事、取り戻すことが出来ました」
藤高と、興水が、深々と頭を下げる。
「いいえ、お気になさいませんよう。皆様方も、こちらの方に迷惑を掛けられたのですし……そのうち、またいらしてくださいまし」
女将が、笑う。さすがは、花柳界の人だ、というような、嫣然とした微笑みだった。迫力がある。
「ご冗談を……、こちらのような、格式の高い料亭の敷居をまたぐことなど、地方の中小企業の社員には無理な話ですよ」
藤高は笑う。藤高の、本心だったし、それが、現実的な認識だ。
「……身の丈に合わないことをして、得意になると、こういう不幸な結末になりそうです」
「身の丈というのをご自分でお決めらならずともよろしゅうございましょ。……そのうち、落ち着いたころ、今度はゆっくりとおいでくださいまし」
女将の言葉の意味は、よく解らなかったが。これ以上固辞するのも良くないだろう。そう判断したらしい藤高は丁寧に礼をして「それでは、ご縁がありましたら」と受けた。
「救急です。けが人はどなたですか!」
そうこうしているうちに、救急隊員が駆け込んで来た。
「こっちです。腕をナイフで切られています!」
達也は、手を上げて、救急隊員に呼びかけた。
救急隊員は、靴の上にビニールを掛けて、座敷まで上がってきた。
なんとか、助かった―――と思ったら、気が抜けて、足から力が抜けた。
畳に膝を付いて、へたり込んでしまう。
「達也さんっ!」
「瀬守っ!」
あちこちから、心配そうな声がする中、達也は、ほっと、安堵の吐息を漏らした。