「……ってことがあったんです」
居留地に戻ったカナンは、早々に服を脱ぎ捨てて、いつものスカートとブラウスという格好に戻っていた。挨拶ばかりでろくに食事も摂れなかったため、背中と腹とがくっつきそうな心持ちだ。
正面には、やはりいつも通りイスラが座っていて、料理をしながら火酒を口に含んでいた。
料理とは言っても、さすがに今は凝ったものは作れない。古くなってカチカチになったパンを砕いて、沸かした羊の乳のなかに落としていく。生地が乳を吸ってふやけたら、あとは蜂蜜を一回し垂らして終わりだ。
「ほらよ」
「ん……ありがとう」
パン粥の入った椀を受け取りながら、カナンはイスラの腕を見やった。例の黒いコートを脱いだ以外は、オーディスが用意した礼服姿のままだ。着ている白いシャツも上等な物のはずだが、イスラは「邪魔だ」と言って腕まくりをしている。その引き締まった二の腕を眺めながら食べるパン粥は、カナンにとって色々な意味で美味しかった。
「しかし、決闘か……お前の姉ちゃん、煙草の趣味もそうだけど、結構硬派だよな」
あの可愛らしい面で、とイスラは苦笑する。彼も火酒を手にしている。今は難民団の中で出回っている貧相な葡萄酒を呑む気にはなれなかった。ギデオンらと飲んでいた時はまるで意識していなかったが、後になって初めてあれが上等な葡萄酒であったことを思い出した。
「意地っ張りなんですよ」
ふぅ、と匙に息を吹きかけながらカナンは言う。イスラが「誰かさんと同じだな」と茶化すと、頰を膨らませた。
「大体、決闘だって言っても、具体的に何をどうやるんだよ。まさか斬り合いとか、法術の撃ち合いでもするわけじゃないだろ?」
「しませんよ、そんなこと……十日後に、全ての煌都の代表たちの前で演説をすることになっています。私と、姉様の二人で。その結果いかんで、エデンに行けるかどうかが決まります」
「より多く支持を集めた方が勝ちってわけか。分かりやすくて良いな。
けど、だ。正直、勝負になるとは思えないぞ。現に難民はここまで来ちまってるんだから、今更エデン行きを取り消すなんざ無理だろ」
「私もそう思います。思うんですけど、ただ……」
「ただ?」
口ごもるカナンを、イスラは訝しげな表情で覗き込んだ。
「姉様は何の目論見も無く行動する人じゃありません。やると言ったら、必ず根拠とか切り札とかを用意してくるはず……それに私が抗えるかどうか」
「意外と弱気だな。お前の姉ちゃんはそんなにやり手なのか?」
イスラは脳裏にユディトの顔を浮かべてみた。あまり多くのやりとりがあったわけではないが、イスラの中ではそこまで切れ者という印象が無い。
否、カナンの親族なので無能なはずは無いのだが、どうしてもベーグル作りに失敗し続けていた姿が思い起こされる。
(あの時は……酷かったな)
ちょうど、旅を始めてしばらく経ち、カナンの要領の良さに慣れてきた時期だった。教えたことは即座に記憶し、しかも次からはより効率的な方法を打ち出して実行する……そんな柔軟性こそが、カナンの能力の核と言えるだろう。
だが、そんなカナンを当たり前に思っていただけで、実はユディトの方が普通なのではないか? と、イスラは思った。
(在り得るかもな)
目の前で呑気にパン粥の匙を咥えているカナンを見ていると、とても切れ者とは思えない、普通の娘に見えてくる。だが、それが彼女のほんの一面に過ぎないことも、イスラはよく分かっていた。
そして、自分が知っているユディトの側面も、結局は全体の一部に過ぎない。カナンの姉という立場で生きてきた彼女が、今まで何を感じどのように振る舞ってきたのか、イスラは少しも知らない。
「今まで色んな人に出会ってきましたけど、私は姉様以上に強い人を知りません」
器の隅を匙で掬いながら、カナンはこともなげに言ってのけた。
「強い、か」
彼女がわざと抽象的な言い方をする時は、必ず深い意味が込められている。カナンが何気なく放った「強い」という言葉には、彼女が今まで見て感じてきた、ユディトの様々な長所が込められているのだろうとイスラは思った。
「ええ。姉様は強いですよ。色んな意味で」
そう言うカナンの表情はいくらか緊張しているが、一方で目元には、どこか面白がっているような笑みが浮かんでいた。「イスラ、おかわり」そんな顔している場合じゃないだろうに、とイスラは思ったが、何も言わず彼女の器を受け取った。
(決闘……か)
イスラの胸中に、一つの考えが浮かんでいた。
◇◇◇
ラヴェンナの中心であるバシリカ城の周辺には、他の煌都と同様に身分の高い者の邸宅や、他の煌都からの使者を宿泊させるための迎賓館が軒を連ねている。エルシャの代表である継火手ユディトのためにも、当然のように豪勢な屋敷が貸し与えられていた。
実際には彼女の随員たちのためにも部屋数を割いているため、ユディト個人が自由に使える空間は書斎と寝室の二部屋、それに加えて小さな浴室のみだ。もっとも、居住人口の限られている煌都のなかでは、一人でこれだけの場所を占拠するだけでも相当な贅沢と言えるだろう。
だが、現在彼女の書斎を占領しているのは、本人よりもむしろ無数の書物の山と言うべきだろう。しかし、しっかりと製本されたものは少なく、単に紙の束を綴じただけのものが大半を占める。
ユディト本人は、大きな書斎机を前にして座り、煙草を吸いながらそれらの書類を読みふけっていた。
ユディトは、片づけられない女ではない。しかし今は、片づけるだけの時間を作る余裕が無かった。その仕事をするのは、ラヴェンナを離れる前日にでもやれば良いと思っている。
「ユディト様、失礼します」
扉が叩かれる。ユディトはそちらを見ずに「どうぞ」とだけ返した。
手押し車に、これまた大量の書類を積んだイザベルが入ってきた。
亜麻色の髪を伸ばして括っている以外は、特に特徴らしい特徴の無い娘だ。シオンの血を引いているだけあって顔立ちは整っているが、強烈な個性と言うには少々物足りない。本人も口数が少なく、何かを命令すれば黙々と働く。
煌都ウルクで、妹のイザベラもろともユディトに返り討ちにされた彼女は、そのままエルシャへと連行されて裁きを受けることとなった。しかし妹のイザベラは継火手であり、イザベルも天火が発現していないとはいえシオンの血の持ち主だ。裁判は長期化し、そこにサウル率いる闇渡りたちの反乱という知らせが入ったため、ますます天火の持ち主を
彼女たちも手の平を返したようにウルクの内情を暴露したため、温情を与えるという見解で議会は一致した。彼女たちが本来持っている祭司としての階級をはく奪し、一般市民へと降格。そのうえで、彼女らを捕らえたユディトの支配下に置いたのである。
実際には厄介の種を押し付けられたようなものだが、ユディトは悲観しなかった。祭司階級の生まれだけあって両者ともに教養はあり、激務を折半する秘書を得られたからだ。
もっとも、真面目に働いているのは姉のイザベルだけで、妹のイザベラはこの上無く不真面目な性格だったのだが。
今現在も、せっせと働いている二人を差し置いて長椅子の上で丸まり寝息を立てている。
最初はユディトも「どうしてやろうか」と思ったものだが、何を言っても聞かないのと、イザベルが二人分働いてくれるため、もう大目に見ることに決めていた。
今も、イザベルは何も言わずに黙々と書類の仕分けを行っている。その姿にどこか共感を覚えるユディトであった。
もちろん、要注意人物である彼女に対して、安易に心を開くつもりはない。そしてイザベルの方も、自分との馴れ合いなど望んでいないだろうと思っていた。
だから、始終黙ったままだろうと決めつけていたイザベルが口を開いた時、ユディトはパイプの中の灰を零してしまった。
「ユディト様」
「何かしら?」
少量の動揺を灰と一緒に払い落としながら、ユディトは聞き返した。
「ユディト様にとって、妹のカナン様はどのような方なのですか?」
「その質問に、私が答える必要がありますか?」
「いえ、ありません。私の興味本位の質問です」
「だったらなおさらね。答えるつもりは無いわ」
「ですが聞いておかないと、仕事の能率に支障をきたす恐れがあります」
ユディトは口の中に溜まっていた煙を溜息と同時に吐き出した。妹ほど顕著ではないが、時々イザベルもこういった
「優秀な官僚は、どのようなことがあっても仕事の精度を落とさないものよ」
「残念ながら、私もイザベラも、優秀などという言葉とは縁遠い人間です。でなければ、こうして前科持ちになったりはしません」
「貴女たちに足りなかったのは倫理観であって、能力ではなかったと思うのだけど?」
「もし私たちに能力があったなら、あの時
「今だに叛意あり。やはり要注意人物ね」
「失言でした。私たちのような無能者は、優秀で権力を持った人間に囲われているくらいがちょうど良い、と言えば納得していただけますか?」
「しないわよ」
「それは残念です。ところで、妹のカナン様はどのような方なのですか?」
「……どうしてそんなことを気にするの?」
話が一周した時点で、ユディトはパイプを灰皿において正面を向いていた。どうやらこの質問に答えない限り、この不毛なやりとりからは逃れられないらしい。瞼にかかった金色の髪を梳きながら、物憂げに片肘をつく。
「この部屋を見て、何事かと思わない人間の方が少数だと思うのですが……まるで、戦争の準備でもしているかのようです」
「戦争……ええ、そうね。戦争と言っていいかもしれないわね」
ユディトが肯定した時、それまで無表情だったイザベルが初めて眉をひそめた。
「そこが分かりません。私は妹以外の誰も愛していませんが、家族とは本来愛し合うものだという倫理くらいは理解しています。貴女は……まるで、妹君を憎んでおられるようです」
ギデオン並みに鉄面皮のイザベルから出た思わぬ言葉に、ユディトはつい笑いそうになってしまった。口元が緩んでいたため、隠すことは出来ていなかった。そんな彼女を見て、イザベルはますます不思議そうな表情を浮かべる。
「憎む、ね。
確かに憎んだこともあったわ。今だって、心のどこかでは憎んでいると思う。
でも、それだけじゃないのよ」
あなたはどうなの、とユディトは聞き返す。
「愛しているというけど、どこかで憎んだことは無いの? 妹には天火が現れたのに、自分には現れなかったのは何故か? ……とか」
「無かったとは言いません。けれど、ほどほどのところで折り合いをつけました。こんな大掛かりな……煌都と難民の未来を掛けた大喧嘩をやろうだなんて、とても思いつきませんよ」
そういう風に形容されると、あらためて自分は凄いことをしようとしているのだな、とユディトは思った。決して理解していなかったわけではないのだが、事の規模が大きすぎて、当のユディト自身も呑み込み切れていないところがある。
しかし、今は何を置いても、カナンと対決しなければならない。その意志だけは絶対だった。
「だって、そう……これは、私なりの愛、だもの」
それは、聞かせるつもりのない呟きだった。それでも、物音のしない部屋のなかでは否応なしに聞こえてしまう。イザベルは何も言わなかった。
だが、いつの間にかぴたりと寝息を止めていたイザベラが、同程度の音量で呟く。
「愛を語るなら、処女を捨ててからの方がいいですよー」
やはり殺っておくべきだったとユディトは後悔した。