五秒ほど、上木かみきはその場から動けなかった。その様子を見て長官が声を張り上げる。

「そこまで！」

　一瞬の静寂の後、ワッとその場にいた隊員たちの歓声が響き渡る。

「やった！凪の勝ちだ！」

　興奮した様子のヤトの声も聞こえてくる。一方の私は、上木の袖を掴んだまま呆然ぼうぜんとしていた。額から、汗が床に滴り落ちる。

　勝てた。どうにか…。

　一気に安堵感に包まれる私。だが、目の前の上木は顔を俯うつむき、一向に起き上がる気配がない。もしかして、怪我をさせてしまったのか？そう思い前方を見ると、二メートルほど先の床に彼女の狐面が落ちていた。さっきの背負い投げで、飛ばされたのだろう。

「大丈夫？上木？」

　そう穏やかに声をかけてきたのは、幹部の天宮あまみやだった。動かない上木を気にかけたのか、様子を伺いながらこちらに近づいてくる。天宮に続いて、上木の上官である瓜生うりゅうもこちらへと歩み寄る。

　だが、その瞬間、上木は体をビクッと震わせて、あからさまに顔を隠そうとした。一瞬、上木の顔が見えて、私はハッとする。上木は私と同じか、少し上くらいの年齢の女性だった。そして、顔にはうっすらと火傷の痕があったのだ。

　もしかして、狐のお面で顔を隠していたのは…。

　私は、天宮と瓜生が来る前に大急ぎで狐のお面を拾い、上木の手に握らせる。上木はすぐに狐面を顔にはめ、火傷を隠した。私は上木に手を伸ばす。

「立てますか？」

　上木は少し戸惑いながらも、私の手を取りゆっくり立ち上がった。良かった。怪我はないみたいだ。私たちは向かい合って、互いに礼をする。胸を撫で下ろした瞬間、ヤトが私の肩に乗り、喜びをあらわにした。

「凪！おめでとう！格好良かった！やっぱり凪は凄いよ！」

　私は嬉しくて、右手でヤトを抱きしめようとするが、再び激痛が走る。顔が歪んだのだろう。ヤトが心配そうに声をかける。

「だ、大丈夫！？結構痛めた？」

「大丈夫、大丈夫」

　私は強がって笑顔で応える。ヤトが喜んでくれたのが嬉しかった。

　本当に勝てたんだ。良かった…。

「おめでとう、凪さん」

　そう声をかけてくれたのは、長官だった。

「ありがとうございます！」

　私は深々と頭を下げる。長官は微笑んではいるものの、心配そうな眼差しを向ける。そうだ。長官は元々私を安全に匿かくまうつもりで、こっそり場所を手配してくれていたんだった。

「あの…。色々とすみません。だけど私、どうしても知りたいことがあるんです」

「藍子さんのことだね」

　長官は穏やかに言った。そういえば、焔が長官はおばあちゃんとも顔見知りだって言っていたっけ。少し間を置いて、長官は毅然きぜんとこう言い放った。

「特殊警察活動規定法、第三条一項」

「え？」

「SPTの幹部以上の階級の者から推薦を受けた者は、厳正な審査を経て、専門的な任務に従事する適性があると判断された場合、SPTと同様の任務を遂行する権利を有するものとする」

　これは、昨日も聞いた。焔が言っていた、あの規定だ。

「幸村凪。君をSPTと同様の任務を遂行する適性があると、この橘龍之介が認める。全力でSPTの任務に当たって欲しい」

　長官は、さっきまでの穏やかな視線とは一転、厳しく、鋭い目つきを向ける。私は力強く、これに応える。

「はい！よろしくお願いします！」

　再び頭を下げる。頭をゆっくり上げながら長官を見ると、もの悲しげな表情をしていた。

「長官さん…？」

「いや、まさか、またこの規定を適用させる日が来るとは、夢にも思わなくてね」

「また？」

「この規定でSPTに入隊したのは、君で二人目だ」

　私は驚いて言葉に詰まる。二人目？じゃあ、一人目は…？質問をする前に、長官は私の肩をポンッと軽く叩いてこう言った。

「頑張るんだよ」

　長官はそう言い残して大広間を後にする。そして、長官のすぐ後に丹後がこちらをフンッと悪態をついて出ていくのが見えた。丹後の背中を見送って、私は拳を握りながらゆっくり息を吐く。ふと横を見ると、焔がこちらへ向かってくるところだった。彼を見るなり、私はつい顔が緩んだ。

「よくやった。凪」

　焔の声は、喜びが混じっていた。私も嬉しかった。SPTに無事入隊できたのもそうだけど、上木との勝負もものすごく楽しかった。なんとなく、親友のひなたと一緒に稽古をしていた時のことを思い出した。この世界に来て色々なことがあって気が滅入っていたけど、昨日の焔との稽古とこの勝負で、少し心を強く持てた気がする。

「いい勝負だった。あとは、肘の手当をしないとな」

　焔の視線が右肘に向けられる。袖をめくって改めて右肘を見ると、肘周辺が赤く腫れあがっていた。それを見るなり、ヤトが羽で自分の顔を覆い隠す。

「ヒィィ～。痛そう～」

「まずは冷やすか。食堂に保冷剤があったはずだ。貰ってこよう」

　そう言って歩き出す焔だが、すぐに足を止める。私たちの目の前に、狐面をつけた上木が立っていた。

「何か用か？」

　だが、上木は答えない。ヤトは少し警戒しているのか身構えている。上木は真っすぐこちらに歩み寄り、保冷剤と包帯を差し出した。目を見合う焔とヤト。私も驚いて目を見開く。

「もしかして、私に？」

　上木はゆっくりと頷く。私は微笑み、彼女から保冷剤と包帯を受け取った。

「ありがとうございます」

　上木は、すぐに振り返ると、ゆっくり歩き出す。その時──。

「あの！」

　気付くと、私は上木を呼び止めていた。彼女が振り向いたのと同時に、私は怪我をしている右手ではなく、左手を差し出す。少しの間を置いて、上木も左手を差し出し、私たちは握手を交わした。上木は軽く会釈をして、その場を後にする。上木がいなくなったのを見計らって、ヤトがこう呟いた。

「…俺、上木って冷たいヤツかと思ってたけど、いいところもあるんだなあ。ね？凪」

「うん…」

「どうした？」

「なんとなくだけど、あの人とは友達になれそうな気がする」

　私の発言に驚いたのか、焔とヤトは再び顔を見合わせる。すると、ピピピと焔のスマホが鳴り出す。しばし焔は電話をし、切った後息をフーッと吐いてこう告げた。

「…お決まりの長官からの呼び出しだ」

「またあ～？なんなの、もう！せっかく喜びに浸ってたのにさ！」

「ミレニアのスパイの情報を何か掴んだのかもしれない。長官室に行ってくる。適当な場所で待っていてくれ」

「はあい」

　悪態をついたままのヤト。そんな彼をそっと撫でる私。一方の焔は、颯爽さっそうと大広間を後にした。