廊下の突き当りにある財前の部屋は薄暗い和室だった。足を踏み入れると、畳の上に無造作に置かれた空の酒瓶が目に入る。襖はくすんでいて、壁の掛け軸にはタバコの煙が染みついていた。部屋の隅には低い木製の座卓があり、その上には本や書類が乱雑に置かれている。
ちょっと汚いけど意外に仕事部屋っぽい感じ。
そうだ。この人は紅牙組の若頭。意外と根は真面目なのかも──。
そう思ってふと座卓を見ると、複数枚の名刺が置かれているのが目に入った。いや、違う。よく見るとこれは、夜のお姉さんがいる、エッチなお店のショップカードだ。さらにその横には古本が積み上げられていたが、一番下にはエッチな雑誌のページが開いた状態で置かれていた。驚いて顔を上げると、掛け軸の奥からは、大胆なポーズを取ったお姉さんのポスターがひょっこり顔を覗かせている。挑戦的な眼差しを向ける女性と目が合う私。財前は隠しているつもりなのかもしれないが、隠しきれていない。
やっぱりこの人、根っからのドスケベだ。
心の中で勝手に抱いた「根は真面目」のイメージが音を立てて崩れていく中、そんなことを私が考えているとは知る由がない財前は、座布団をひょいっと手に取り、私たちに投げ渡した。
「まあ、座れ」
ふかふかの上等な生地の座布団の上に、私はヤトを抱えてちょこんと座る。左横には焔。向かい合う形で財前があぐらをかいて座り、酒瓶の栓を空け豪快に一口飲んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「早速だが、去年この近くの刑務所をミレニアが襲撃した事件、知ってんだろ?」
唐突な本題に私は一瞬戸惑った。この話は、SPTへの入隊が決まった日に焔から聞いていた。確か、ミレニアが刑務所を襲撃し、囚人たちを攫った事件だ。焔は頷きながら冷静に答える。
「ああ。戦闘要員を増やすために狙ったんだろう。一般人より、法的、社会的に逸脱した囚人を狙えばミレニア内部の理念も正当化できるし、組織の信念を保ちつつ、効率的に力を増やせる」
「けっ。くだらねえ」
「それがどうした?事件について何か知っているのか?」
財前の表情から笑みが消えた。彼は一瞬目を伏せ、私たちをじっと見据えてこう告げた。
「…実はその時、ミレニアは別の場所も襲撃してんだ」
どういうこと?一体どこが狙われて…?
「聞いて驚け。この紅牙組だ」
「ええぇ!?」
「本当かよ!?初めて聞いたぞ!」
衝撃的な財前の告白に、私とヤトが思わず声を上げる。
「たりめえよ。警察なんてアテになんねえからな。通報なんかしてねえ。だが、ミレニアからすりゃあ、それを見越して襲撃してきたんだろうがよ」
「でも襲撃ですよ!普通通報しませんか!?」
「ちんちくりんよ。この世界はな、そんな単純じゃねえんだ。通報なんてしたら、周りに弱みを晒すことになる。弱体化してると思われたら、敵対してる組に狙われちまうだろ」
財前の言葉は説得力があった。彼らが生きているのは「裏社会」。下手な行動は、それこそ組織の存続に関わるのだろう。
「それで?被害は?」
焔の問いに、財前の表情は一気に曇る。
「…あの日のことは、正直思い出したくもねえ。三十人くらいか。夏にしては肌寒い夜だった。ミレニアの使徒ども、門から堂々と入ってきやがったんだ。宴会の後で完全に不意を突かれてな。組をあげて刀で応戦したが、まるで太刀打ちできなかった。ミレニアが人体実験をしてる噂は聞いていたが、ありゃぁ本当だ。どう考えても普通の人間じゃねえ。あの脚力、腕力。仕舞いには、話もまったく通じねえと来たもんだ。それで結果的に六人拉致された。このままじゃ、あのミレニアの使徒みてえに人造人間にされちまう」
私は一気に心が重くなった。そんなことが紅牙組で起きていたなんて…。
「それから手を回して詳しく調べた。ミレニアについて。するとビックリな事実がわかった」
財前は焔を睨むように見据え、こう告げた。
「ミレニアの使徒には人狼族の血が入れられている。あの忌み嫌われた呪いの血だ。ミレニア討伐の特殊部隊SPTさんなら、当然知ってるよなあ?」
──人狼族。
ここでその話題が出るとは。財前の話しぶりから察するに、ミレニアの使徒に人狼族の血が入れられているという事実は一般的には知られていないようだ。場に一気に緊張が走る中、私とヤトは顔を引きつらせて焔を見る。彼は人狼族の末裔。財前の話をどう受け止めたのだろうか。だが、焔はいつも通りの冷静な表情を浮かべたまま、こう答えた。
「まあ、な」
「それであの常人離れした力を出せてるってわけだ。ったく驚きだぜ。同じ人間とはいえ、人狼族っていや好戦的で人に害をもたらす民族として知られていたからな。村が襲撃され、数人生き残ったとは聞いていたが…。その人狼族の生き残り。もしかしたら今はミレニアの手先として生きているのかもしれねえな」
酒を飲みながら話を続ける財前。一方私は、心が完全に追いつかなくなっていた。
村が襲撃されて、生き残ったのは数人?
じゃあその内の一人が…?
だが、次の瞬間ヤトが鋭い声を上げ、私の思考を遮る。
「違う!人狼族の生き残りがミレニアの味方なんてするもんか!!だって…」
「ヤト」
焔がヤトの頭を撫で、優しく諫める。だが、彼らのやり取りを見ていた財前はにやりと笑った。その笑みを見て私は確信した。今、この財前は私たちに探りを入れたのだ。
「今のお前らの反応でハッキリしたぜ」
焔の眉がピクリと動く。
「正直なところ、初めから疑っていた」
財前は持っている酒瓶を豪快に口へ運び、ゴクゴクと酒を飲む。そして、瓶をバンッと座卓に置き、重々しく口を開く。
「…巷の噂で聞いたことがある。SPTの幹部に人狼族の生き残りがいる。銀髪に鋭い眼光。そんでもって、そいつはぶったまげるぐらい強えってな」
財前の狙いに気付いたのか、ヤトは両翼でくちばしを隠し、気まずそうに焔を見る。
「人狼族なんて、もう絶滅しているようなもんだ。そんなヤツが本当にSPTにいるのかと半信半疑だったが…お前のことだろ、焔」
次の瞬間、空気が張り詰める。財前の思わぬ発言に、私たちは言葉を失っていた。
「さっき拳を交えてみてわかったが、お前の強さは半端じゃねえ。それに大広間で見せたあの殺気。あれは人狼族特有のものだ。似たような殺気を俺は去年味わった。ミレニアがうちを襲撃した時にな」
人狼族特有の殺気…。さっき大広間で焔が放った「圧」のようなものか。
つまり財前は、ただ喧嘩が好きで焔に絡んだのではなく、彼が人狼族の生き残りではないかと疑い、確かめるために喧嘩を…?
いや、まさかそんな。
ドスケベな財前さんに限ってそんなことがあるはずが…。
そんな(失礼な)思考が渦巻く中、焔は微動だにせず、冷ややかにこう言い放った。
「だとしたら、なんだ?まさか、仲間を攫われた腹いせに人狼の血を私から奪い、人的に反した力を得ようと思っているわけではあるまいな?」
焔の声にはわずかに怒りが滲んでいた。その言葉が放たれた瞬間、再び場に緊張が走る。だが、そんな焔の鋭い言葉には意にも介さず、財前は軽く笑いながらこう答えた。
「怖え顔すんなって。あんたから血を奪おうなんて思っちゃいねえよ。だって、あんた『陰の血』…いわゆる『ルナブラッド』だろ?」
焔は頷く。
「ルナブラッド…?」
思わず呟く私。するとヤトがこっそり耳打ちをする。
「人狼族の血って陰の血と陽の血の2種類あるんだけど、『陰の血』が通称『ルナブラッド』って呼ばれてるんだよ。『ルナ』はラテン語で『月』って意味さ」
「へええ」
ラテン語で「月」って「ルナ」っていうんだ。じゃあ、陽の血は…?
そう思った途端、財前は勢いよく座卓を叩き、鋭く私たちを見据えながらこう告げた。
「俺、いや、紅牙組の目的を正直に言うぜ」