「今度の期末試験、まじめに全力出すよ」
彼がそう宣言したのは、期末テストまであと十日余り、という六月末だった。
先の夏輝の家を訪れた以降、夏輝はすくなくとも極端に遠慮するようなことはなくなりつつあった。そしてそれは、彼と彼の周囲にいい影響を与えつつある。
夏輝はごく自然にクラスメイトを手助けし、そしてその感謝が、彼の評価になって自然とクラスの中での彼の立ち位置は少しずつ変わっていった。
そういった変化によって、彼が今まで『
その変化のきっかけになれた、というのは明菜にとっても嬉しいことだった。
その変化に伴って、明菜と夏輝の会話はクラスでも増えた。
今では少なくともかなり仲がいい、とは思われている。
いまだに嫉妬の視線を投げる男子もいるが――最初期にブラックリスト入りしたような生徒ばかりだ。
その変化を受けての彼の宣言は、彼が中学から持ち越してしまった、いわば負債をやっと返す決意をした、という事でもある。
「お、ついに来たね。これで変わんなかったら恥だよー?」
「う」
そんなことはあり得ないと思うが、思わず茶化してみる。
とはいえ、少し自信がないのか、ややうろたえ気味だ。
「じゃあ、私から一つご褒美をあげましょう。上位者名簿に名前載ったら……そうだね。ぎゅーって抱きしめてあげる」
どちらかというと明菜自身へのご褒美なのだが、そこは気にしない。
「は!?」
対する夏輝の反応は、驚愕のあまり素っ頓狂な声が出る、というものだった。
ここは追撃しておこう。
「あれ。それじゃ足りない? じゃあ……膝枕とほっぺにキスもつけてあげます」
自分で言っておいて、ホントにできるのか、という疑念が頭をかすめるが――こういうのは勢いも大事だ。
言ったら実現できる言霊だと思うことにする。
「いやいや、そういう意味じゃないから。ってか、なんで明菜さんがそういうことになるの!?」
「夏輝君の本気見る代償?」
代償というかやっぱり自分へのご褒美だが。
しかし夏輝の方はやはりわけが分からない、という感じのようだ。
「なぜに……」
がっくりと机に手をついて項垂れている。
さすがに明菜もここが二人しかいない地学準備室だからやれていることではあるが。
「うん、まあご褒美あるとやる気でない?」
「……内容に依るけどね」
「あれ。私では不服?」
これで不服とか言われたら
「そうじゃなくて! そういうのは普通好きな相手にするものじゃないの!?」
夏輝の反応は少なくともそういう事ではないらしい。
それに。
夏輝が当たり前のことを言っているのに、笑いそうになる。
好きだからしてあげたいというのに。
とはいえ、それを今言うのは気恥ずかしい。
「膝枕はともかく……ハグやキスなんて、普通の挨拶じゃないの?」
「それどこの文化!?」
「おじーちゃんからそう聞いたけど」
嘘である。
祖父は確かに北欧人だが、欧米の人がみんなあのようにフランクにスキンシップをするわけではない。
少なくとも北欧では
だが、こういう時は北欧クォーターであることを精一杯利用させてもらう。
「日本人は普通はしないの! 全く……」
「でも私はクォーターだからいいのです。というわけで頑張ってね、夏輝君」
言うが勝ちだ。
とはいえ、もうすぐ試験であり、これから試験勉強を頑張らなければならない。
夏輝が本気でやるといっても、明菜が成績を落としていては、それこそ情けないというものだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ねえ夏輝君。これ、やりすぎって言わない?」
「俺も……ちょっと予想以上だった」
一学期の期末試験。
その上位者名簿が掲示板に貼り出された。
貼り出されるのは、一学年合計二百五十人の中で、合計点で上位二十人のみ。
文句なしに学業におけるトップランカーの一覧となる。
その二番目に『秋名夏輝』の名前があったのだ。しかもトップとの点差は、わずか二点。
ちなみに『那月明菜』の名前は五番目だ。
「私も今回頑張ったんだけど……それ以上って。っていうか能ある鷹は爪を隠すを地で行きすぎではないですかね、夏輝君」
明菜の五位とて、過去最高の順位である。
実際、ものすごく頑張ったという自覚もあったし、手ごたえもあった。
夏輝もすごく頑張っていたから、二人で上位者名簿に名前が載る、とは思っていたが――これはちょっと想像以上だ。
「そんなにご褒美欲しかったの?」
「違う、そんな
「私、何のご褒美かなんて言ってないけど?」
もっとも、提示したご褒美はアレしかなかったが。
夏輝は顔を真っ赤にして逃げるようにに教室に戻っていく。
だが、そこでも歓声が上がる。
「お、学年次席が来た。っていうか夏輝、すっげぇな。いきなり次席とか」
「つかどんだけよ。俺とかならカンニング疑われそうだけど、お前、絶対そういうことやらないタイプだしな」
「すごいよねぇ、夏輝君。勉強教えてもらえばよかった。ね、次の定期試験前に、勉強手伝ってくれない?」
わらわらとクラスメイトが集まってくる。
だが、夏輝は一瞬そこに入っていくのを
多分――中学時代を思い出している、と分かるが――。
(大丈夫だよ、夏輝君)
どん、と思いっきり彼を背中から押した。
それで教室に飛び込んだ彼は、周囲のクラスメイトにわやくちゃにされているが、その誰もが――笑顔だ。
(ね、大丈夫でしょう? 夏輝君)
その光景は、明菜にとってとても嬉しく思えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
放課後。
明菜は夏輝より先に地学準備室に向かっていた。
以前は同じ場所に行くのを悟られないように、明菜は図書館に寄るなど回り道をしていたのだが、もういい加減その必要はない。
地学準備室の鍵は、普段は当然施錠されているのだが、今日は夏輝がクラスメイトに勉強で聞きたいことがある、と言われていたので、明菜は先に行くから、と預かったのだ。
明菜が準備室に来て二十分。
ようやく夏輝が準備室に来た。
「さて。というわけでご褒美ターイム」
ここまで来たら開き直る。
実際、こういう名目でもない限り、明菜も夏輝に抱き着くのは――ちょっと勇気が足りないのだ。
「ちょ、ま、待てって……」
「待たない♪」
カバンも持ったままの夏輝に抱き着く。
(え、なにこれ。思ったよりずっと――)
女子とは違う、というより思ったよりずっと筋肉のついた体つきに、心臓の鼓動があり得ないほど早まっている気がした。
明菜と夏輝の身長差は十センチほど。夏輝が百七十ちょっとに対して、明菜は百六十ちょっとというところだ。
ただ、どちらかというとインドア派のはずの夏輝の体つきは、その制服や普段着からは想像できないほどに引き締まっているように思えた。
他の男性を知らないので、比較対象がないが。
抱きしめると、夏輝の顔がすぐ横にある。
そして、そこに無防備な頬が見えて――
(いいよね、やるって宣言したし、ね)
その頬に口づけた。
とたん、夏輝の身体から力が抜ける。
だが明菜は、そのまま夏輝を抱きしめて、彼を支え続けた。
「もう、大丈夫だよね、夏輝君」
「え……」
「中学までは知らない。けど、ここにいるみんなは、みんな夏輝君がすごい人だって、少しずつ知り始めてる。でも、それを
「明菜、さん……」
きっと彼はこれから変わる。
本来の『秋名夏輝』として、これからクラスでも中心的な存在になっていくだろう。
そして――叶うなら、そのすぐ横、すぐそばで、彼と一緒にいたい。
さすがに支えているのがきつくなってきたので、夏輝を椅子に座らせて、自分も隣の椅子に座る。
夏輝は、なおも呆然とした様子だった。
その様子が、なぜかとても可愛く思える。
あまりに無防備すぎて、もう一度抱きしめたい衝動が沸き上がる。
さらに――。
「今だと夏輝君のファーストキス奪えそうなんだけど、いい?」
「!?」
一瞬で夏輝の意識が覚醒したらしい。
ちょっと残念に思ってしまう。
「ちょ、まて、それは……」
「ダメかな。私も初めてよ」
「え……」
かつて付き合ってた人がいるから、もう済ませていると思われたらしい。
心外な、とちょっとだけ不満になる。
当時中学生だったのだから、交際の節度というものがあるのだ。
「中学生だった私は、清い交際をしてたのです。まあ今思うと、あの人だいぶエロかった気がするから、それも不満だったのかもしれないけどね」
今にして思えば、してなくてよかった、と心底思う。
もししてたら、最低のファーストキスだった。
でもそのおかげで、多分――お互いにファーストキスになると思うと――本当にしてみたくなる。
だが、さすがに夏輝の方がここまで動揺しているなら、さすがに無理矢理する気にはならない。
というわけで、次の計画に移ることにした。
「まあとにかく」
彼の頭をつかむと、無理矢理膝の上に置く。
「はい、膝枕」
「ちょ、まって、さすがにこれは」
彼が膝の上で動き出す。
頭を押さえているので立ち上がることはできないだろうが――
「ちょ、あまり動かないで。さすがにくすぐったい」
今日はストッキングだけなのでほとんど素肌に近い。
さすがに髪の毛がざわざわと擦れると、くすぐったいしストッキングが破れる恐れもある。
明菜の言葉を受けてか、夏輝も動きを止めてくれた。
「うん、それでいいの。言っとくけど、膝枕も初めてよ、私」
「いいのか、俺で……」
「悪かったらしてないから」
そうして、夏輝の額に手を置くと、ゆっくりと髪を梳くように撫でてみた。
意外に触り心地が良く、ちょっと癖になりそうだ。
そうしていると、夏輝の表情が
どうやら眠くなっているらしい。
このまま寝てくれるなら、膝枕冥利に尽きるというものだ。
このまま眠ってもらおう、と頭を撫でるのを続ける。
夏輝が心地よさそうに、目を細め――少し朦朧としているのが分かった。
だから――その言葉は本当に不意打ちだった。
「明菜、俺のこと好きなのか……?」
驚いて夏輝の顔を見るが、やはり眠そうで、意識が朦朧としている状態なのは間違いない。
おそらくうっかり漏れ出た言葉だ。
多分彼の意識は、半分は夢の中だろう。
だからこれに、返事を返す必要は、ない。
だが。
そういう状態だからこそ、この言葉は嘘偽りのない――彼が本当に気にしていることだ。
だからこれに返事をしない、ということは明菜にはできない。
そしてもちろん――返事は決まっていた。
「うん、そうだよ。大好き。夏輝君は?」
多分今、自分の顔は真っ赤になっている。
なんなら、本当に顔の熱で湯沸かしができるのではないかと思えるくらいに。
夏輝はもはや意識がほとんどないであろうから、返事を期待はしていなかったが――。
「俺は……とっくに……好……」
言葉が途切れる。
まだ完全に寝入ったわけではない。瞼がかろうじて閉じるのに抵抗している。
とはいえ、意識はほとんど夢の中だろう。
だが、それは聞き間違えようがない言葉。
先ほど以上の熱が頭に集まった。
今、その言葉を呟いた彼が、あまりに無防備な姿をそこに晒している。
多分これは反則だ。
そんなことは分かっている。
それでも――明菜はその衝動を抑えることはできなかった。
(夏輝君、大好き――)
その想いと共に、明菜は夏輝の唇に自分のそれを重ねていた。