「エリナさん。起きてください」
音川がエリナの頬を優しく叩くがエリナから反応は帰ってこない。
寝息すら立てていないのだが、はたして女神とは寝息をたてて寝るものなのか。音川にはそれすらも分からなかった。エリナの仕事場以外での姿を音川は見たことがない。把握していることと言えば宮之守の家に居候しているということぐらいであった。
戸惑っている音川の肩をミラーナが叩いた。
「見せてみろ」
ミラーナは屈んでエリナの額に触れると彼女は目を細め、静かに笑った。
「ククク。そうか。おまえも分け身か」
「わけみ?」
音川が尋ねるとミラーナはすっくと立ち上がり、唐田の方へ顔を向けた。
「そこのでかいの運んでやりなよ」
「ええ。そのつもりではありましたが」
「ミラーナさん。わけみってなんです? それにおまえもって」
ミラーナは答えず、古い館の扉に手を触れた。乾いた音を立てて軋んで扉が開くと埃っぽい空気が彼らを出迎えた。
どれくらい人の手が入っていないのか。一見してそれほど古くもなさそうに思えたが、中は荒れている。倒れた燭台や壊された調度品や空になった棚が目につくことから、おそらく経年劣化によるものでなく、盗賊などに荒らされたようであった。
「順を追って話す」
「ずいぶんともったいぶるのですね。あなたは」
インの言葉にミラーナは悪戯な笑みを浮かべながら振り返った。角に掛けられた数々の装飾品同士がぶつかり、からからと音を立てた。
「あたいは気まぐれなもんでね。時と場合によってだけど。今は焦らしたい気分なのさ」
ミラーナは長い尻尾と、後ろにまとめられた長髪を揺らしながらホールの真ん中へと進んだ。彼女が一歩踏み出すごとに埃の積もった絨毯に足跡が刻み込まれていく。
ミラーナは中央の階段の、その踊り場の壁に立てかけられた一枚の絵を見上げた。
優し気な顔をした女性と、凛々しい顔つきの男性が描かれ。その両手は間に立つ赤い髪の女の子の両肩にそえられている。音川は子どもの顔に見覚えがあった。
「この子がミーシャさん……? 幼いけど、この顔は……」
音川はミラーナの顔を見た。そこにはまさしくミーシャの面影があり、宮之守の顔であった。
「ミーシャ。絞首台にかけられたあわれな少女」
「この子は、亡くなったのですか?」
「いや。生き延びた」
「良かった。魔法を使っただけで処刑されるなんてひどいよ」
ラギがほっと胸を撫でおろして言うとミラーナはワザとらしく喉を鳴らした。
「むしろ死んでいれば楽だったかもな」
ミラーナはそう言うと額縁の前に置かれた家具に手を掛け、力まかせに投げ飛ばした。まるでため込んでいた感情を吐き出し、癇癪を起こしたように音川には見えた。
投げられた家具は盛大な音を響かせて階段を転がり、破片を散らばらせた。
「もったいない」
「狼の娘。薪にしてもいいぞ」
「い、いらないよ……」
ミラーナは壁に手を触れた。すると壁が水のように波うったかと思うと次の瞬間には実態を失って消えさった。通路が姿を現した。
ミラーナはおもむろに尻尾をしならせ、尾の先に右手の指を軽く弾く。すると赤々としながら熱のない光が灯った。ミラーナは顎をしゃくって通路の先を指し示し、進んでいった。
「どこまで話したっけ? ああ、絞首台のとこか。ミーシャは絞首台から自分に向けられる人々の憎悪の目を見た。それに恐ろしい言葉と共に石や腐った野菜が投げつけられ、体と心を傷つける。どうして誰もかれもが自分の死を願っているのか。どうして笑いながら酷い言葉を吐けるのかミーシャには理解できなかった」
ミラーナは音川の方を振り返った。
「あんたにミーシャの気持ち、わかる?」
「私には……」
音川は言葉を詰まらせた。子どもが体験するにはあまりにおぞましく辛い。そんなもの想像したところでその半分もわからないだろうからだ。
「ハッ! そうだろうな! あんたはそういう世界とは別のところにいる奴だ。ふふ、いや、意地悪なことを言ったね。悪い事じゃない。経験しないほうが良いに決まってる」
暗闇に包まれる通路を先導するミラーナの尾の先に灯る熱のない炎は風もないのに揺れていた。
「愛する人の首に巻き付いた縄を少女は絶望の中で見た。恐怖に震え、罵声と嘲りに怯え。あらゆる憎悪があった。少女の心が受け止めきれるものなんかじゃない。心が壊れるか、それとも心臓が止まるが先か。だが少女は生き残った!」
ミラーナの角飾りがしゃらんと鳴り、彼女はまるで街一番の広場で大勢の観衆を前に童話を話すかのように声に抑揚をのせた。
「縄が首に食い込み、喉の骨を砕く前に炎が縄を焼き切ったのさ! どうして魔法を使っちゃいけないの? どうして会ったこともない人が私を責めるの? どうして? どうして? 死の恐怖と理不尽への怒りは膨れ上がり、ついには炎になって弾けた! 炎は蛇のようにするする燃えて縄を伝い、絞首台に巻き付き、絶命した両親の亡骸を飲み込み、次いで執行人を喰らった。だが足りない。炎の蛇は鎌首をもたげると群衆の中にある顔をみつける。披露宴にいた顔たちだ! 心は沸騰し燃え上がっている。喰らつき、飲み込み! 燃やせ! 次は館に来た群衆だ! 次から次へと炎は飲み込んでいった」
ミラーナは両腕を掲げた。手のひらから炎がごうと吹きあがり天井を照らし、音川たちの顔を照らした。
「嘲笑や罵声が悲鳴に変わる! なんと心地よいことか! 焼け! 炎よ! 肉と骨を焦がしやつらに同じだけの苦しみを!」
いつしかあたりは森に囲まれていた。暗い通路は消え失せ、前を一人の赤い髪をした少女が歩いている。音川はあたりを伺ったが誰もいない。ミラーナもラギも、インも、それに唐田の姿も。
ミラーナの魔法によるものだと音川にも瞬時に理解できた。聞いていたミラーナの発する言葉には怒りや、戸惑い、恐怖があり、あたりはその言い様のない力のようなもので満たされていることが感じられたからだ。
前を歩く少女は肩を落とし、うなだれて疲れ果てていた。裸足の脚には血が滲んでいる。薄汚れた少女はミーシャなのだ。絞首台から逃げ出し、どこかの森をたった一人で歩いている。これはミラーナの見せる幻覚だと分かっていても強烈な実在感がそこにはあった。
少女は空腹であった。脚は痛く、寒い。だが止まるわけにはいかない。あの街にも、家にももう戻れない。逃げ出してどれくらいの時間がったのだろうか。音川が見る限り、服の汚れ具合からそれなりの時間は経っているように見えた。
少女は突然立ち止まった。口を押え、込みあがる吐き気を抑え込もうとしたが、押し寄せる波に抗えるはずもなく、少女はその場に吐いた。しかし何も出ない。ここに来るまでに何度もこうしていたために胃の中にはもう吐き出すようなものは何も残っていなかった。
少女が顔を上げた。音川は少女の目がある一点に向けられていることに気が付いた。音川は視線の先を追ったが何もない。音川には見えないが確かに何かそこにあり、少女は怯えていた。それは死者たちであった。少女の罪の意識が死者となってそこに現れていた。