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第74話 曇天

 少女ははっとして後ろを振り返る。顔には先ほどまでとは別種の恐怖が張り付いており、音川は目が合ったかと思ったが、少女の視線はさらに自分の後方へと向いていることに気がつき、後ろを振り向いた。


 何かが力強く地面を打つ音が近づいて来ている。蹄の音だろうか。少女は慌てて茂みに身を隠した。

 ほどなく二つの角を持つ馬が二頭とそれぞれに騎乗した兵士二人が姿を現し、音川と少女の目の前を駆け抜けていった。


 兵士の右肩の腕章は処刑場で見た兵士と同じもので、つまりは追手だ。少女は慎重に茂みから出るとほっと白い息を吐きだした。見つかればその場で殺されていたところだ。


 ふと手を見ると黒い煙が細い糸のように燻って立ち昇っていた。少女は慌ててそれを振り払うと煙は消え失せた。あれ以来魔法は使っていない。


 耳には悲鳴が残っている。鼻には肉の焼ける嫌なにおいが。瞼を閉じると絞首台に力なくぶら下り燃える両親の姿が浮かび上がってくる。私はなんてことをしちゃったの……。音川は少女のか細い声を聞いた。


 それからしばらくすると森を抜け、小高い丘の町が見えた。くすんだ乳白色の壁が特徴的で、少女は町へ向かう行商の列に紛れ込んで入ることにした。


 着ていた服は上等なものであったが、裸足で煤と埃と土に汚れきって、さらにはどこかで引っ掛けたのかところどころ解れている。こんな姿では行商の一団にまとわりつく物乞いの一人にしか見えない。


 彼女は意図せずして難なく紛れ込むことができた。もしかすれば親切な誰かが食べ物を恵んでくれるかもしれない。少し前までは温かな部屋で暖炉の火に頬を照らされていたはず。望めば食べ物はいつでもあった。そのすべてが幻ようだ。いや、違う。全て自分で焼き払った。少女は涙を拭った。


 町の簡素な門が近づいてくる。少女は森で遭遇した二人の兵士の姿に気が付いた。このまま進めば検問のために顔を見られてしまう。今から抜け出そうかと少女は辺りを見回した。隠れるところはこの一団以外にない。今から抜け出せばかえって目立ってしまう。少女は体を震わせながら気づかれないように願いうほかなかった。


 音川は傍でその様子を見ていた。このままではあの兵士に少女は容易く掴まるだろうが、どうすることなどできない。ここは幻覚の世界だ。もどかしく、不安な思いだけ積み重なっていく。


 何かふわりとしたものが少女の体を覆った。それは古びた外套で一団を共に歩く老婆の一人が少女が寒さに震えていると思ってのことだった。


 老婆は優しく語り掛ける。

「親はどこにいったのかしら。あなたのような子までこんなになって。嫌な世の中になったものだわ」

 少女は小さな声で感謝を現しつつ、フードを深くかぶった。


「荷はなんだ?」

 少女の僅か先で兵士が言った。厳めしい顔で荷馬車の商人に問いながら荷物を覆う布をひっぺがして中を調べだした。


「食べ物だけですよ」

「このあたりで子どもを見たか? 薄汚れていて、赤い髪をした少女だ」

「さぁ、兵士様。わたしは見ておりませんので」

 兵士は鼻を鳴らし、通行料だといって荷馬車から熟れた赤い果物を一つ取った。


 列は進み、ついに少女の番となった。兵士は一段と厳しい顔つきで彼女を見ている。

「フードをとれ」


 少女はびくりと体を震わせた。老婆が間に入って彼女を庇う。孫であり、人見知りなだけだと。

兵士が果物を齧りながらもう一人の兵士に言った。そいつじゃない。一人で逃げてきたはずだと。だが目の前の兵士はそれでも少女のフードを取るように要求した。兵士の片方の手は剣の柄に置かれている。


 観念し恐る恐るフードを取ったが、兵士は鼻を鳴らしただけだった。

「だから言っただろう。そいつじゃないって」

「ちっ! 行け。そこのおまえだ。前に出ろ」

 兵士は悪態をつきながら次の人を呼んだ。

 この時、少女は気がついていなかった。自分の赤い髪が煤と埃で黒くなっていたことに。


 老婆は自分の家に少女を招くと言ってくれた。温かいスープと暖炉。それに熱い湯気の満ちる風呂小屋を想像すると少女の冷たくなっていた心に僅かばかりの熱が灯っていった。


 思わず涙がにじみはじめたところだったが、浸る間もなく後ろから聞こえた悲鳴が彼女をつらい現実に呼び戻した。


 兵士がどす黒い血を吐き出しながら倒れたのだ。何事かともう一人の兵士が駆け寄ろうとし、彼も突然に苦しみだすと、手に持っていた赤い果物手から零れ落ち、坂道を転がっていった。


 兵士の体は黒く、炭のようになって手足の末端から崩れていった。腐食、あるいは急速に炭化してしまっているように見えた。


 そこからはあっという間であった。一人でなく、次々とその場にいた全員が血を吐きながら倒れていったのだ。傍にいた老婆も例外ではない。少女は目の前で倒れていく人々を、老婆をただ見ることしかできずにいた。


 それが自分が原因であると本能的に分かっていながら何もできないことが恐ろしかった。

 老婆の手が少女のフードに触れ、指を引っ掻けがら倒れ込んだ。その時、偶然にも少女の髪から汚れが拭い去られ、赤い髪がほの暗い曇天のもとに曝された。


 それを見た瀕死の兵士が、魔女だ、魔女だ、と叫び。間もなく彼も崩れて死んだ。

 ついに少女の心の堰が壊れた。黒い力が無意識に撒き散らされていくが止めようもなかった。それは触れたものを蝕む死の力だった。


 少女は倒れた老婆に声をかけ、揺さぶった。すると体は脆くなった枯れ木のようで、乾いた音を立てて崩れてしまった。彼女は驚き、悲鳴をあげながら後ずさった。


 再び世界は悲鳴で満たされていくこととなった。とめどなく心の内より溢れだす恐怖は彼女の力を外へと表出させ、手から黒い煙となって拡散していく。

 止まれ! 止まれ! 泣きながら手をこすっても少しも止まってはくれない。


 無駄だと気が付いたころには全てが変わっていた。

 やがて黒い力は時とともに変化し少女のミーシャという名と共に風に乗り、川も海も山も超え。全ての生命を塗りつぶしていくこととなる。黒く塗りつぶす赤髪の魔法の王女ミーシャ。あるいは魔王。


 力は異世界への扉を開き、次元の壁を超えて幾つもの世界へと渡っていった。エルフの世界リーイェルフを始め数多の異世界を駆け巡り、最後に地球へと辿り着くこととなる。


 立ちすくむ音川の前に二人のミラーナが現れた。過去と現在のミラーナだ。彼女らは揃って、地面に座って土に爪を立てるミーシャを見下ろしていた。


 音川はもう一人の女性が立っているのことに気がついた。レデオンがエルフのパレードを襲撃した日に現れた灰色の女であった。あの日に見せたベールは羽織っていない。その顔はやはり宮之守と同じ顔をしており、彼女もまたただ静かにミーシャを見下ろしていた。

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