現在のミラーナが口を開いた。
「あたいたち二人はミーシャの魂の分け身だ。黒い力。原初の魔法をミーシャが拒絶したために生まれたんだ。この角と尻尾は彼女が持つ恐れの象徴であり……」
現在のミラーナは灰色の女へ目を向けた。
「リーアは全ての人々への激しい怒りと恨み。それから罪悪感と弔いの象徴だ」
幻の世界のリーアはミーシャの傍に屈みこんだ。その顔は穏やかで慈愛に満ちている。とてもレデオンと共にいたことなど信じられない光景だった。
彼女はミーシャの肩に手を置いて穏やかな声で話しかけた。
「あなたの力を人々が受け入れないなら、受け入れるように世界を変える。寂しくないように。これは魔法。魔法を受け入れない者には死を。そういう世界をつくる」
リーアは立ち上がり、開かれた裂け目のうち一つに入り、消えていった。
ミラーナが音川へ顔を向けた。
「おまえはあのエルフと親しかったな。記憶で見た」
「親しいというか。でも、どうして今その話を?」
「エルフがどうして魔法を使えない者を蔑むかわかるか?」
「いえ……」
ミラーナが前を向き、すると周囲の景色全てが砂のように崩れて消えて暗い通路へと戻っていた。
音川が後ろを見るとラギとインの姿があった。
「戻って……きた?」
「そのようで。とてつもない精度の幻ですね」
さらに後ろには唐田の姿があり、背中に担がれたエリナは未だ眠っている。
「できれば幻覚だと説明してほしいとこでしたが……」
「ふ、あなたにはそうでしょうね」
「インさん。今は止めてください」
音川はインを窘めつつもミラーナの言葉を思い出していた。エリナのことを分け身と言った。では、地球にいる彼女が本体ということなのだろうか。
「おう、おう。仲がよろしいようで。ハハハ!」
ミラーナの前にはいつの間にか古い木の扉があり、彼女は扉を押し開ける。
ミラーナに続き、音川が扉を通る。空気も音の反響も扉を潜り抜けた瞬間に何かが変わった。館に流れる空気は古いものだったが、ここは違う。程よい湿り気を含み、木の香りが漂って満ちている。
窓のない広々とした部屋で、古い木のテーブルには書物が積み重なって林立し、床には幾つもの怪しげな魔法陣が書かれているが、そのどれもが一部を書き消されて不完全な形となっている。素人目にも魔法陣は機能しないものだと理解できた。
ミラーナのいた地下室を彷彿とさせるが、ここは書物で空間を埋め尽くさんばかりであった。
「エルフの世界は一度滅んでんだよ。伝播した黒い力でまるごとな」
ミラーナは淡々と口にしながら積み重なった本の上に手を置いた。
「イン、と言ったっけ。おまえの今のエルフと昔のエルフはそもそもが違う種族だ」
「よく意味がわかりません」
インは戸惑いを隠せず、額に手を押し付けて続きを待った。
「おまえを見てハッキリわかった。おまえの中にある魔力はリーア由来のものだ。ミーシャを拒絶しないよう設計された人種だ」
「ちょっと待ってください。いくら何でも話が……自分を神だと。こう言いたいのですか?」
ミラーナは眉を動かし、両手を広げて見せた。
「どうだい? 生贄でも捧げたくなるかな? といってもあたしはこの件にはかかってないがね」
インは鬼気迫る表情でミラーナに掴みかかった。
「私たちが作られた存在だと? 我々は大樹より生まれ、大樹に帰る者! そのようなものではない!」
ミラーナはインの手を抑えつつ、不敵な笑みで彼を見ている。
「おまえの中にある魔力無しのへの差別心は本能に作られたものだ。そして魔力ある者に惹かれるのも。気が付くことがあるんじゃないか?」
インは音川を見、そしてレニュを思った。異世界の人に何故惹かれる? 何故自分は宗主を敬っている?
ミラーナはインの手を引き剥がした。
「何を信仰しようが気にしない。好きにしな。でも事実だ」
「どうしてそんなことを」
音川が一歩進み出た。
「簡単さ。奴はミーシャの住みよい世界を作るためにやった。誰も魔法を恐れず、自由に使える世界を作るため。エルフの世界はその完成形だね」
インは傍の椅子に力なく座り込んだ。彼の中に渦巻く魔力無しへの感情は作られたものだった。唐田に対する負の感情はもとより自分の物でなかった。もしかすれば音川に向ける感情もそうなのかもしれないが今のインにそれを尋ねる気力は無かった。
「人はどうして人の形をしているか考えたことはあるか? それはその形が魔法を扱うのに最適だからだ。二本の脚で大地に立ち、二本の腕で魔法を振るう。別世界の住人が何故こうも、差異はあれど同じ姿をしていることに疑問は持ったことないか? 生物は、魔力を扱うためにそうなるようになっているのさ。そこで寝ている女神もな。女神の扱う魔力体形は異なるものだが、それでも人の形をしている。音川。おまえの記憶を見るときにこの理を現すに近い言葉を見つけた。それを借りるなら収斂進化が相応しいかもな」
「異なる生物が似た環境で似たような姿になる……。でもそれなら地球の人とエルフはもっと姿が違ってもいいはず」
「地球に黒い力が辿り着いた時にはすでに弱くなっていた。あの力が引き起こす黒い病はごく一部の地域にとどまったはずだ。そして微弱ながらおまえたちの地球にも魔力として留まった」
「ミーシャはどうして黒い力を持って生まれたのですか?」
唐田の問いかけにリーアは肩をすくめながら奥へと進んでいく。
「さぁね、興味ないよ。突然変異かなんかじゃないかい」
「その口ぶりだと、あなたはリーアとなにやら研究を行なっていたように聞こえますが、何故、今は共にいないのですか?」
音川がテーブルの書物に触れながら言った。
「自然や両親を愛したように彼女は本来は優しい性格。そんな世界、受け入れるはずがない」
「おや、良く分かっているね。その通りだよ。あたいは説得した。そんな世界を望むはずがない、止めようってな。そしたらあいつは怒り狂ってね。後のことは知らない」
ミラーナは部屋の最奥へと歩いた。そこには無数の根が壁に這い、ある一点から放射状に広がっていた。根の出所であろう場所は布で覆い隠されており、何かがあることが膨らみから見て取れた。ミラーナが踵を返し皆の方へ振り返った。
「そうそう、奴はもうひとつ興味深い実験をしていた。不死を使い、魔力を集めるというものだ。あたいが離れる前のことで、何かやっていた。くらいしか知らなかったが」
ミラーナは音川の方を向いた。
「おまえの中にあった虫を通して分かった」
布にミラーナの手が掛けられる。同時に音川の胸を不安が駆け巡った。直観的になものに近いが言い表す言葉はない。あの布一枚に隔たれた奥には自分の見たくないことが隠されている。音川にはそれが言葉にならない不安となって押し寄せてきていた。私は見たくない。求めていたことがそこにあるというのに。
「ではご覧あれ!」
ミラーナが布を勢いよく引き、払いのけた。
音川は以外にも冷静であった。さっきまでは自分の胸に一杯にあった不安感はなんだったのかと思えてしまうほどに落ち着いている。目の前にある何かは一見してそれがなんなのか分からない。落ち着いて見ていられることが音川にはかえって怖く思えた。
暗がりの中、目が次第にその輪郭を捉えていく。壁に磔にされた。人。四肢は半ば植物のようになって背後の岩壁に根を張っている。それが磔にされた人を中心に放射状に延び、まるで進化の樹形図のようにも見えた。
音川は恐る恐る近づき、手を伸ばそうとしたが戸惑い、手を引っ込める。それがまだ生きているからだ。血の気の薄い顔は穏やかで、胸は静かにゆっくりと呼吸を繰り返している。ただ眠っているだけに見えた。
ラギがふらふらと音川の体を押しのけて進み出た。手を伸ばしながら開き、そして躊躇して閉じた。
磔にされた人へと近づいていく、ゆっくりとした足取りは恐れながらも言い様のない力で引き寄せられているようだった。音川はそれを止めようとして手を掴んだ。これが何か分からないからだ。だがラギは音川の制止を拒み、振り払った。
「姉さん……?」
「え?」
「どうしてそんなところにいるの?」