テーブルの上で目覚めたエリナは眉間に不機嫌な皺を寄せながら半身を起こした。
「佐藤め……」
「おでこが気になりますか?」
「気にするな。すぐに世界を繋げる」
エリナはテーブルから軽やかに降りようとして、盛大に転倒し、唸り声をあげた。
「こっちの体は……ずいぶんと固い」
「大丈夫ですか?」
音川がテーブルの上からエリナを覗き込んだ。
「問題ない」
エリナはすぐさま立ち上がり、何食わぬ顔で魔法陣を開きにかかった。
「どれくらいで向こうへ繋がんだ?」
ミラーナが尻尾を揺らしながら言った。
「すぐ。と言いたいが魔力干渉が起きている。しばし待て」
「魔力干渉ね」
ミラーナは尻尾で器用に机から一冊の本をとって開き、あくびをする。
「偉大な女神様であっても自然現象にはかなわないと」
「不敬な物言いだが。今は許してやる」
インは壁に寄りかかり静かにエリナが転送魔法陣を開くのを待っていた。ふと横に目を向けると唐田が床に屈みこみ、ショットガンに弾を込めていた。
「そんなもの役に立ちますかね」
唐田は淡々と指を動かしながら言った。
「そうですね。役に立たないかもしれません」
一発、また一発と弾がよどみない指の動きによってショットガンの内部へ送り込まれていく。
「一発も撃たないかもしれません。でも、やらない理由にはなりません」
何百と繰り返され、体に沁みついた動作を終えると唐田は立ち上がった。
インは腕を組み、目をつぶる。ここに来たのは一時の好奇心と音川に宿る魔法に惹かれたからであったが、自分たちの生まれた理由から本当のことがよくわからなくなっていた。
音川に向けた自分の感情はなんだったのであるか。宗主に対する忠誠は間違いなく本物であるのか。……宗主様。私は御身の傍を離れ、この旅で何を得たのか、わかりません。私は……。
「自分は考えたのですが。インさんはもっと旅をするべきなんじゃないかと」
「何を急に……」
インはそっけなく答えた。
隣に立つ男に対して湧き出る不快感と苛立ち嫌悪感といった負の感情はどこか不気味な物に思えた。魔力無しである一点でこれほどまでに自然と沸騰する感情は自分のものでありながらどこか、別の場所から不意に注ぎ込まれた熱のようで違和感がつきまとう。
インは宗主レニュの顔と声に思いをはせた。自然と宗主の兄であるレデオンの名が浮かぶ。エルフでありながら魔法の使えない身であったレデオンに対し、宗主はそのような兄に対してどのような思いを持ち、またどのような心で地球の人々を見ているか。
宗主レニュとレデオンは敵対することとなったが、元は仲の良い兄妹であったとも聞く。宗主は日々、湧き上がる感情にどのように向き合っていたのか。インにはあまりに遠く掴みえないものに思えた。
「確かに何も知らない。私の見る世界はもしかすると狭いのかもしれない」
「すべてがひと段落したらキャンプに行く。どうです?」
インの瞳に映し出される唐田の姿はやはり憎たらしいものだった。魔法が使えいないくせにエフルに対して不遜にも物事の提案をしてくる姿は傲慢にすら思えた。
「だが、だからこそ、そこに宗主様の見るものがある」
インは唐田から顔をそらし、つぶやいた。
「宗主様がどうしたんです」
「あなたが知る必要は……」
インはとっさに自分の口から出た言葉に驚きつつ口をつぐみ、続けて慎重に言葉を選んだ。
「まぁ……いいでしょう。そのキャンプというものに同行しようじゃないですか」
エリナの転送魔法陣が開かれた。魔法陣は銀食器のような輝きを放ち、澄み渡った鈴の音を室内に響かせ、清らかに溢れていた。
「開いたぞ」
「んじゃ、お先に行くとするわ」
ミラーナは微塵も臆することも迷うそぶりもなく光の中に入り、長い尻尾がするするとくねりながら消えていった。
音川は深呼吸し一歩踏み出しそうとし、ふと左手の袖が何かに引っ張っていることに気が付き足を止めた。ラギが音川の袖をつかんで、不安に染まった黒い瞳で音川を見ていた。
「私も行く」
袖を掴む力が強くなった。
エリナの精神へ入る時よりも目に宿る不安感は強い。逡巡する音川の肩をぽんと唐田が叩き、目くばせしながら光の中へ消えていき、そのすぐ後をインが続いた。音川は二人を見送りってラギを見るとラギは一瞬だけ視線をそらし、また弱弱しく音川を見た。
「ここで待っていてほしいの」
音川は穏やかな声で伝えた。
「どうして? 一緒にここまできた友達じゃない。今さら仲間外れなんて許さないんだから」
「友達だからだよ。ここから先は何が起きるかわからないし、すっごく危険なんだ。そんなところには連れていけない」
「だから一緒に行くよ! あたしはこう見えて足だって強いし……」
ラギの目頭から光るものが滲みだす。内からあふれ出す感情が小さな粒となって溢れるのをラギは抑え込もうとしていた。
「蹴る力だって強いし。あたしも行かなくちゃダメなんだよ」
瞳の奥からこみ上げるものがついに堰を切って流れ出した。
「知らないところで誰かが人がいなくなるのは嫌!」
ラギの目に写る音川は、少し前の冷たく痙攣した姿が重なっていた。
「お父さんとお母さんが死んだときみたいに! 姉さんがいなくなったときみたいに! そんなのもう嫌なの!」
「……いなくならない」
音川はラギを両腕で強く包み込んだ。ラギの服からは様々な薬草の香りが匂いたち、また音川を包みこんでくれた。
「おまじないしたよね。エリナの記憶を探しに行くとき、必ず帰るって。そのおまじないも約束もまだ有効だよ。それにナハタが起きたとき、誰もいないのは寂しいじゃない」
音川はラギの両肩に優しく触れた。
「それに帰ったときに迎えてくれる人がいると頑張れるから。ね?」
「卑怯だよ」
ラギは俯きながら言った。
「そんなの言われたらさ……」
ラギは肩に置かれた手を払いのけ、音川の背中へ回り込むと裂け目の方へと強く押し出した。
「早く! さっさと行きなよ! 無事に帰らなかったら足の爪でひっかいてやる」