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第102話 未来を思う

 暑い。インは思った。どうしてこの国の気候はこうも不愉快なのだろうかと。


 湿度が高いこと、それ自体は慣れたものであった。インの故郷の世界、リーイェルフ。そして彼の住む国ツーナスも日本と同程度には湿度の高い国である。


 高層ビル群よりも遥かに高い巨大樹の森と、太い幹を覆う苔のカーテンに、木の洞に貯えられた清浄な湖。湿度が保たれていることは巨大樹が健やかであることの証だ。だがこの日本にいおいては湿度が高いことは決して良い事とは言えないものだと、彼は考えを改めざるを得なかった。


 息をきらし、両膝に手を置き、地面へと落下する汗を見ながら思った。湿度に暑さが加わるとこうも不快なのかと。故郷が恋しくなる思いであった。


 山道の上から男が一人降りてきた。背には大きなリュック。腰の熊避けの鈴は軽快なリズムであるが喧しい。男は狭い山道をすれ違うさいにインに軽く挨拶した。


「こんにちは」


 インは返事を返さなかった。


「こんにちは」

 インの後ろにいる男が、不愛想なエルフに代わって挨拶を返した。インは後ろを振り返り、尾根を寄せる。


「……嫌味ですか?」

「別にそういうわけではないですよ」


 後ろには唐田がいた。

「山道ですれ違う際にはあいさつをするってだけです」


 唐田はとくにインの表情など気にする様子もなく、インが再び歩き出すのを待っていた。インは前を向き、疲労の混じった溜息を吐き出しながら重い足を動かし始めた。


 インは体力には自信があった。レニュのそばにおれば樹城の上から下を日に何度も仕事のために往復するなどは側近の日常である。たかが山道であれば造作もない。それが彼の誤算であった。

 急な山道に高い気温と湿度が加わった際に奪われる体力は予想以上であり、また慣れない異国の地であることが拍車をかける。


 唐田は前を歩くインの疲れた背中に向けて言った。

「山道で挨拶を互いにするのは半分はマナーみたいなものでしょうか」


 インは息を切らしながら返事した。

「マナー……ですか。堅苦しいですね」

「万が一遭難しても、挨拶をしておけば互いの顔を見ます。目撃情報として残りますからね」


「こんにちは」

 また一人山道の上から登山客が現れた。インは返事をせず、唐田が返事をした。

「こんにちは」


 すれ違う際に登山客が言った。

「この先の橋が崩れてしまってましたよ」

「ああ、もしかしてあの古い木の橋ですか?」


「それです。頂上まで迂回できる道は知ってます?」

「ええ、それなら何度か来てるので。でも助かりました」


「そうでしたか。では、お気をつけて」

「ええ、そちらも」


 唐田は登山客を見送り、インの方を向く。

「とまぁこんな具合に先の情報も知れたりします」

「ふん」


 それから二時間。二人は狭い登山道を登った。頂上に着くころには予定の時間をだいぶ過ぎてしまっていた。インは左手に巻いた異国の機械と、刻まれる文字盤を苛正し気に睨みつけた。時刻は午前十時をまわっている。


 頂上の少し開けた場所で唐田は平たい大きな岩の上に腰をおろし、インは少し離れた地面の上に座った。インは遠くに名前の知らない町の風景を見ながら、朝、音川より持たされたおにぎりを口に運ぶ。味は、悪くない。

 音川はインと唐田に昼食を持たせた後、すぐに別の世界へと旅だった。今はどこを歩いているのか。インは自然と思いをはせていた。ただ黒い色をしている海苔という食材が上あごに張り付く感覚はどうにも慣れない。


 おにぎりをほおばりながら、見る風景も悪くないものであった。隣にいる唐田の手にも同様のおにぎりがあることを除けばであるが。魔力無しのことを思うとやはり気分が良いとは言えない。




 埋立地での儀式場での事件の後、インは病室の白いベッドの上で横になる宗主レニュの傍に傅き、意を決して自分の考えを口にした。


「宗主様。少し時間を頂きたいと思います」

 レニュは静かに頷き、側近のエルフの続く言葉を待った。


 レニュから向けられる視線は時としてどんな刃より鋭く、恐ろしく感じられることがある。インは床についた膝と拳が感じる床の冷たさが、しんしんと冷えていくような錯覚を覚えた。


「この国の色々なことを学びたいと思います。そのためしばらくの間、おそばを離れることをお許し頂きたとうございます」

「ふむ。そうか」


 もう一人の側近、アレイはただ黙って宗主レニュと同僚の会話の行方を見届けようと務めていた。アレイはインの側近としての仕事ぶりを認めている。個人的な感情としては彼を応援してもいる。宗主の前であるために口をぐっと退き結んでいた。


 レニュはしばらく沈黙した。それは時間にしてごく短い、十秒にも満たないものであったが、インには何倍にも引き延ばされて長く感じられた。


「前回、いなくなって。そなたはわしに何を持ち帰った?」

「それは……」

「確かにわしらの出自に関しての報告は面白いものがあった。だがそれだけだ」


 正直なところ、何もない。そう返答せざるを得なかった。音川について行き、さらに別の異世界へと渡り、帰って来た。この旅で何を得たか? エルフの出自を知り、宗主レニュが変えようとする物の大きさを理解し、考えを改めるに至った。インからすれば宗主レニュの固い意思を再確認しただけであったともとれた。


「時間が足りなかったのやもしれぬな」

「私は何もできませんでした」


「なら、もう一度離れるのも悪くないだろう」

 インは顔を上げ、宗主が自分へ向ける意外な顔に驚いた顔をさっと元に戻し、また頭を垂れた。レニュの微笑みは側近の中のものを全て見透かしているかのようであった。


「そなたの持ち帰ったミラーナの話。あれは面白いものだった。わしらの中にあるもの魔力無しへの差別、偏見。これらを覆すのは容易ではないこと、わし自身が改めて自覚するには充分だった」


 レニュはアレイを見て、再びインに視線を戻す。

「そなたら二人には、これからもっと働いて貰わねばならぬ。だが、そうだな。少し休暇を取るのもよいだろう」

「では、よろしいのですか?」


「良い。だが一つ条件を付けよう。おまえの気に入っているここの人間は誰だ?」

「音川様です」

 インはきっぱりと言い切った。


「では一番、気に食わない人間は誰だ?」

「……唐田という男です」

 インは言葉を淀ませながら言った。


「ふむ。ではその男と旅に出よ」

「はい?」


「なに、長期に渡ってその男と共にいろというわけではない。それにあちらの寿命もある。ごく短い期間。……短命種の時間感覚はわからんが。とにかく共に何かやってみるがいい。そこは唐田と相談しろ。きっと何か見えてくるだろう」

「……御意」


 レニュは傍のテーブルから独特な形の器を手に持ち、アレイに酒を注がせた。盃は赤い色をしており、外側はごつごつとしているが、内側は磨かれた真珠のように美しく、注がれた酒は窓より入る光を受け、豊かな輝き放つ。それはザラタンの殻で作られた杯であった。宮之守が選んだ職人の手によって加工し作らせた、エルフへの贈り物だ。


「こちらの職人も良いものを作るではないか。なぁアレイよ」

 アレイはゆっくりと頷いた。


 病室を後にするインをアレイは見送ると静かに口を開いた。

「宗主様。ところでこのセントエリナ病院にはいつまでご滞在するおつもりで?」

「……わしの二人の旦那が落ち着くまで」

 レニュは珍しく渋い顔をした。


「早く帰らないとまたどやされてしまいますよ。一度帰って安心させてはいかがかと。それかせめてあのホテルに戻られては? 警護もあちらであればだいぶやりやすいのですが」


 レニュは杯を傾け、酒を口に含む。

「あの二人には言わせておけいい。やるべきことがあるのだ。わしもまずはここからここの民の言葉に耳を傾けてみようと思ってな。ここから見える魔力無しの生活はごく一部だが。あのホテルにいるよりはよく見える」





 インは昼食を食べ終え、立ち上がって遠くを眺めた。心地よい風が彼の金髪を靡かせ、爽やか木々の湿り気を含んだ匂いを肺に吸い込むとインは唐田の方を見、さらに向こうの山を見た。


「唐田。勝負をしないか?」

「勝負、ですか?」


 インが遠くを指さした。

「次の目的地は向こうの頂上なのでしょう? どちらが先に辿り着く競争です。先ほどまでは無様な姿をさらしたましたが休みもとれたし、慣れました。どうです?」

「山道で勝負ごとは危ないですね」


「はぁ。やはり、あなたはつまらない男なのですね」

 唐田はにっと笑う。

「やらないなんて言いました? 走らない。互いを妨害しない。他の人に危険が及ぶことはしない。ルートはきちんとした山道を通る。これでいいなら」


「いいでしょう。ではお先に」

 インはさっそく歩き出した。


「あ、ちょっと! こっちはまだ片づけていないんですよ!」

「なら、先に決めごとに入れておくべきでしたね! 同時に歩き出すと!」


 唐田は急いで荷物をまとめ、インの後を追った。唐田の位置からはインの顔がほころんでいるところは見えなかった。

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