目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

8・選別

 これが神官長の語った若き日の体験、彼の人生のすべてを変容させた体験だった。


 祠に帰り、鎮獣司の任期を勤めあげて街へ戻った彼は、これを神殿に報告すべきか悩み、結局この恐ろしい預言を含んだ秘密を自分一人のものにする決断を下した。他人に明かせばどこからそれが他へ洩れるか判らない。たとえ不確かな噂の形をとっても、人々に漠然と根付く終末感を裏付けるような情報が流れれば、それだけで暴動さえ起きかねない。世が乱れれば、それだけ「裁き」が厳しいものとなるのだ。


 彼には自分が選ばれた人間であるという自負もあったので、他者に頼らず自分で、「道標」となれる若者を探し、育てることに残りの生涯を費やした。

 しかしどうしたことか、彼が、方々の地方を巡り、子供のうちから目をかけて育て上げた黒髪黒目の十数人の男女は、皆ある程度の知性と品性を持った立派な若者に育ちはしたものの、そこまでだった。ある者は他者を思いやる心がなく、ある者は決断力に欠け、ある者は狭い視野でしか物事を捉えられなかった。

 神官長は失意のうちに病に倒れ、自らの死期を悟った。四十年間護り続けた秘密を、人類の命運を委ねるに足る若者に託さぬままに自分が死ねばどうなるのか……不安にとり憑かれた彼は、彼が知るうちで最も信頼に値し、知性も兼ね備えた友人のハリストックに、彼の人生の重荷を譲り渡すことを決意したのだった。


「告死天使さまは、あと数十年、とおっしゃった。あれから四十年……裁きの時はいつ来てもおかしくない。私の人生は、この為にあったようなものなのに、情けないことに、どうしても、神の許しを得るに足るだけの人間を育てることが出来なかった。思えば天使さまは相当に人間を蔑み、憎んでおられた様子だった。こうなることも見越した上で私などにこの預言をされたのかも知れん」

「そんなことを言うな。人の未来はまだそんなに捨てたもんではないと儂は思っとる。何か救いがある筈だ。ただ全てを滅ぼすなんて、そんなことを天がお許しになる筈がない。儂らに忠告をなされたのだ。この乱れた世を建て直す若者を育てよ、とな」

「あんたはあの方を見ていないからそんな事が言えるのだよ。あの方は……憎悪の化身のような方だった。だが……あんたの言う通りならいいが、と私も思うよ」


 病床に身を起こす力もなく、彼は力無い吐息をついた。


 一方、患者の長い昔語りを聞き、戦慄の預言を知ったハリストックは、彼の話を疑うことはなかったものの、驚くほど冷静にこの話を受けとめていた。元々不信心な質だし、特に何事かに執着することもなく飄々と生きてきた彼は、神の裁きを運命と甘受しその為に自らの全てを捧げた友人を哀れと思うだけだった。


「おまえさん、その建物とやらがある場所に、それから行ってみたのかね?」

「いや。あれは神聖な場所だし、それに……あの恐怖を思い出すだけで私は今でも身が竦むのだよ」

「その場所を調べてみれば、何か滅びを回避する手段が見つかるかも知れんぞ?」


 患者は信じられないという表情で医者を凝視した。


「忌み森に許しなく立ち入った者は、生きて帰れないのだよ。そんな事も知らないのか?」

「どうせ儂とて老い先も長くない。少しでも人類の未来とやらに貢献できる可能性があるなら、無茶をするのも悪くない。いや、何より、興味があるんじゃよ。一体どんな秘密が隠されているのやら」

「呆れた医者だ。神の怒りに触れたらどうするのだ。いや、だがもう何も言うまい。あんたの言うのも一理ある。私は疲れた。あんたの考えに任そう」

「そうとも。おまえさんはゆっくり休んで養生するんだ。これからは余計な心配をしてはいかん。いいな」


 患者は微かに笑みを浮かべた。


「裁きの時を迎えずに死ぬのが、いいことか悪いことか……出来れば、もう少し生きていたかったという結果になって欲しいものだ。だが、一生を捧げて結果が出ていないと言うのに、もう私は今は何とも言えない穏やかな心持ちになっているのだよ。私の育てた子らはろくに見舞いにも来ないというのに何故だろうな?神が私を哀れみ、最後に安らぎを与えて下さったのだろうか?」


 医師は、彼に安らぎを与えているのは神ではなく安定剤だと知っていたが黙っていた。患者は骨張った手で親友の手を取った。


「あんたは神の怒りを解く事が出来そうな黒髪黒目の若者に心当たりがあるか、それだけを教えてくれ」


 ハリストックはちょっと考え込み、それからゆっくり答えた。


「この世の全ての人間を知ってる訳でもないのに、そいつが最も優れた人間かどうかなど儂には判らん。だが、今まで出会った多くの若い奴の中では一番見込みのありそうな奴が近くにいるな。しかも黒髪黒目だな。そいつなら少なくとも、儂が育てた訳でもないが儂が寝込めば見舞いくらいには来るだろう」

「それは誰なんだ?」

「警護隊に分隊長として数カ月前に来た倉沢という男だ。まだ若いが、しっかりした考えを持っておるし、人望もある」

「ああ、赴任した時に挨拶に来たな。確かにいい目をしていたようだ。よくは知らんが評判もいいようだな。そうか……まあ、彼がそうかどうかはその時にならないと判らないだろうが、あんたがついているなら道を誤る事もなかろう」

「おいおい、買いかぶらんでくれ。儂は教師じゃないんだからな」


 患者は微笑し、ゆっくり頷いた。


「色々ありがとう。ああ、私は疲れたよ、こんなに長く喋ったのは久しぶりだ」


 ハリストックも無言で頷いた。長話が患者の身体に良いわけがなかったが、これが遺言になると互いに知っていたので好きなだけ喋らせておいたのだ。


「私は、眠るよ……」

「ああ、ゆっくり休め」


 それから三日後に、数人の弟子とハリストックに看取られ、老神官は安らかに往生を遂げたのだった。


―――


「黒髪も黒目も珍しくもないが、両方揃えた者といったら、まあ二十人に一人くらいかの?この部隊なら五人おるな」

「ちょ、ちょっと待てよ!」


 アクセルは呆れたように遮った。


「黒髪黒目なんて世間にはごまんといるだろ。いや、それ以前に、そんな話をあんた信じてんのかよ?そして、その選ばれた奴が竜だって?」

「今の今までは、ただ、儂が知ってる黒髪黒目の男の中では一番見こみのある奴、としか思うておらんかった。しかし、天使に命を救われた、となると……」

「だからそんな話は奴の空想に過ぎないんだって!」

「しかし、そう考えればあやつが助かったのも、説明がつくんではないかね?」

「……つかねーよ……」


 アクセルは頭を掻いた。


「そんな突拍子もない話、信じられねーよ。天使だって? それが十人の男を殺して、重傷の竜をここまで運んだってか? そんな現実味のない話、信じろって方がどうかしてるぜ」

「オリストは嘘を云うような男じゃない。あいつは一生を費やしたんだ。おまえさんは、あいつの一生を否定するのか?」

「そこまでは云わねえけど……。そりゃあ、立派な人だったってのは知ってるけどよ、けど、その話を直接聞いた訳でもないし。あんたの云う話だからこうして聞いてるけど、他の奴が云ったんだったら、笑い飛ばして終わりだぜ。普通、そうだろ?」

「まあ……そうかもな……」


 ハリストックはがっくりしたように云う。確かにそう云われると余りに突飛な話だし、第一、出来ればこんな話は作り話か思い込みであった方が、どれだけ良いか分からない。オリストのあの時の真摯な様子を目の当たりにした時は、疑う気持ちも打ち消される気がしたが、冷静に突っ込まれると急に不安に駆られてくる。


「しかし、彼の残した禁書は、いつかおまえさんも読んでみてくれんか。儂も全部に目を通した訳じゃないが、あれのうちのいくつかでも、本当にあった事だとしたら、大変な事じゃ」

「分かったよ、いつか暇があればな」


 アクセルは老医師の様子を見て、今日は話はここまでにしておいた方が良さそうだと思った。本当はマリアの事を相談したかったのだが、医師は酔いも回って余り冷静な判断が出来そうにない。

 彼は礼を言って辞そうとしかけた。


「待て、待て、まだ話は済んでおらんぞ」


 俯いていたハリストックは、顔を上げ、彼を制した。


「おまえさんも、何か話があって来たんじゃろうが」

「けど、先生、今日はもう……」

「儂ももう一つ話しておきたい事があるぞ。マリアの事じゃ」

「……」


 アクセルは無言であげかけた腰を下ろした。


「あの娘は竜に惚れとるようじゃな。そして竜も悪くは思うとらん様子じゃ」

「そのようだな」


 むっつりとアクセルは応える。


「おまえさん、マリアをどう思う?」

「……竜や他の連中と同じように、あの女の色香に迷わされてるかって意味なら、随分馬鹿にされた気がするな」

「いや、そんな事はおまえさんを見てればすぐ判る。いくらおまえさんが天邪鬼でも、惚れた女子をあんな冷たい目で見たりはせんじゃろ。おまえさん、いったいあの娘の何が気にいらんのじゃ?」

「何が、って言われるとうまく説明できねーな……。けど、なんかあの女の言ってる事も態度も、俺には嘘くさく思える。無邪気なふりをしてるっていうか、媚びてるっていうか……それも、何かタチの悪い目的で。根拠はねーよ。ただの勘だ。根拠があったら叩き出してるさ」

「媚びる女は女から嫌われるものだが、あの娘は女たちにも受けがいいようじゃ。厨房でも可愛がられておる」

「あんたもあの女の外面に騙されたクチなのか?いや、俺を信じろとは云わんよ。だがあいつは正体不明の、何かとんでもないよくないものという気がする。竜に向けて、ひどい邪気を発していた」

「だが、あの娘は三日三晩、竜について、必死の看病をしておったのじゃぞ」

「そうやって竜に取り入って、何かもっと……よく判らんが、企んでる気がするんだよ。あんたは俺がおかしいと思うか? あんな小娘を目の敵にするなんて……」


 ハリストックは暫く無言で考え込んでいたが、やがて口を開いた。


「おまえさんを信じよう。儂も、色香に惑わされる歳でなし……最初は、そう、なにか孫娘でも出来たような気がしておった。子供もおらんのにな。だが……確かにあの娘は身元も分からんし、突然に現れてそのまま当然のように居ついてしまった。いや、どうして儂がこんな話をするかと言えばな、あの娘の記憶喪失はどうもおかしいと、最近思うようになってきたからじゃよ」

「そうなのか?」

「今までに何人か、ショックで記憶喪失になった人間を診てきたが、あの娘はどうも今までのとは違う気がする。普通、記憶を失う程のショックを受けたら、その事件の事もよく思い出せないし、思い出したがらないものだが、あの娘は、あの通り魔事件の事を実に鮮明に語っていた。いかにも怯えていたような風だったが、何か……違和感を感じた。それに、連れらしい死んでいた男の事も、殆ど気にする様子もないし……」

「なるほど……そう言えばそんな事もあったな」


 斬り刻まれた血まみれの男の死体の傍にマリアは隠れていた。言葉も喋れない程怯えていた、あれからまだ三ヶ月も経っていないのだ。


「まあ、別にあの娘が嘘をついてると決めつけておる訳ではないがな。竜の奴も、可愛い許婚までおるのに、どうもわき見をしておるようじゃから、どうしたもんかと思っただけじゃよ。ま、年寄りの余計なお節介かもしれんが」


 ひょっとしたら人類の代表かも知れない竜が、不誠実な行いをするのは望ましくないと思った、という事は、言ってもまたアクセルに馬鹿にされるだけだと思い、老人は口には出さなかった。


「そうだな。秋野がここにいれば、あの莫迦がふらふらする事もないだろうにな」

「おまえさんは彼女と同じ部隊にいた事もあったんじゃったな」

「ああ。なかなか気の強い、しっかりした奴だ」


 マリアの代わりに秋野霖がここにいればいいのに……と思い、二人は同時に溜息をつき、顔を見合わせて苦笑した。


「なんで俺らがこんなに竜の世話やいてやらなきゃなんねーんだろうな?」

「まあ、ともかく、マリアにはちょっと注意していよう」


 老医師がそう言ってくれたので、アクセルは幾分気が軽くなった。


「ありがとよ、先生」

「まったくじゃ、滅多にない焼酎を、空けてしまいおったわ、この男は」


 ハリストックは空になった壜を悔しそうに振った。アクセルは笑ってもう一度礼を言い、3日分の不眠を取り戻そうと、医師の室を辞した。前神官長の話は、もう彼の意識のごく隅のほうに追いやられてしまっていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?